裏切りのとき
たぶんこれは夢だ。夢であってほしいと思う。
「殿下……!これは罠です!私は何もやっておりません!」
「早く連れていけ」
「はっ」
ほの暗い黒を宿した彼の目は、窓から差し込む僅かな光さえ拒んだ。
「殿下……!」
冷たく見下ろされた目には私など映っていない。
彼は結婚した今でも、私のことなど心からどうでもいいのだ。
抵抗しようとした私の体から力が抜けていく。
なぜこんなことになってしまったのだろう。
愛ゆえの結婚ではなかった。けれども私は彼が好きだった。
初めて彼に会ったあの日、私は確かに恋に落ちた。
少しでも笑いかけてほしくて、忙しい皇后の仕事の合間を縫って、彼の好きなお茶を淹れる練習をした。
歴史本は何十冊と読み、この国について語り合える日を待っていた。
けれども彼が笑顔で話しかけ、話に耳を傾けるのは、皇后の私ではなく、いつも彼の隣にいる彼女だった。
私のことを愛してはいなかった。
本当は知っていたの。
それでも私はーーー
「っ!おとなしくしろっ」
「うっ」
頬をぶたれ、目の前がぼんやりと霞む。
殿下の姿は後ろ姿となって、もう輪郭もわからない。
ガタイの良い山賊のような男に引き渡され、荷物のように担がれ、城の外に出る。五、六人ほどの男たちに囲まれて、明かりもなく荒野を進んでいく。
殿下に見放されたショックと、これから私の身に何が起こるのかを想像し、恐怖に身が震える。
「この辺までくれば今日はいいだろう」
「この女はどうします?」
「逃げないように、木に縛り付けとけ」
乱雑に地面に落とされ、不可抗力で呻き声が出た。
ようやく取り戻してきた視界のなかで、ここは城とは全く異なる、不気味な夜の森とわかった。頂きの見えない大きな木々や、生い茂る草木に囲まれている。降ろされたのは地面が見える平らな場所だった。
男達がそれぞれの荷を下ろし、集団のボスらしき男が私を担いでいた男に何か指示を出している。
「親方も容赦ないっすね」
「早くやれ」
「へいへい」
太くはないが硬そうな縄を両手に、ニヤニヤと不気味に笑う男が近づいてくる。
私はとっさにグッと地面の土を掴み、男の目に向かって思い切り投げつけた。
「うあ!」
無我夢中で暗い森の中へ走り出す。
「おい!どうした!」
「あの女逃げたぞ!」
後ろから迫り来る男達の猛々しい足音を聞きながら、死に物狂いで足を前へ前へと動かす。
眩いほど宝石を纏った華やかなドレスも、今や泥だらけでその面影はない。
「はあっはあっ!」
なぜこんなことにーーー
私が何をしたというの?
荒くれた男の手が私に伸びる
「あっ」
急に目の前が開けて、もう一歩を踏み出した瞬間、あるべき地面の反発がないことに気づいた。
崖だ。
「っ!止まれ!!」
ああ、もうダメ。
神様ーーー
こんなことなら、この世界に生まれてこなければよかった。
衝撃を感じる前に、だんだんと意識が遠のく。
もう二度と……
あなたを……