可能性という魔物
適材適所という言葉がある。
それは人の能力や特性に応じてそれに相応しい地位や任務につけることだ。
例えば歌が凄く上手いが運動が並程度の者がスポーツ選手になったとする。
これは、歌が聴くに耐えぬ程で運動も並程度の者と出せる成果は変わらないのだ。
何故なら運動に於いて歌う必要はないからである。従って歌唱の得手不得手は評価の対象にならない。当然である。
そういう意味で言えば人は十人十色であり、個人は唯一であると言えるだろう。
各能力のバランスが全て同一となるには余りに要素の数が多過ぎる。
しかし各能力のバランスが唯一であったとしても前述の通り出せる結果の優劣は、対応する能力の優劣でしか決まらない。
その他の能力は作用しない。
故にどれ程唯一であったとしても各物事に優劣は必ず存在する。
そう上には上がいるのだ。
私が仕事の面接を受けたとして、その職業に対する能力は格段に上だが面接の能力が微かに届かず私さえいなければ受かっていたが私がいたせいで不採用になってしまった人がいるとする。
私さえいなければその者が受かり多大な業績を残して会社に大きく貢献した事だろう。
しかし私がいたせいで私が受かりそこそこの成果しか残せず会社も得られたはずだった利益を失う事になるのだ。
“そんな事可能性の話だ。そうであったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。それに例えお前がいなくてその人が受かっていたとしても、そのせいでその人よりも能力があり業績を残せたはずの人が落ちているのかもしれない。イタチごっこではないか。だからそんな事言っていたらキリがないだろう。”
そうキリがないのだ。
キリがないという事はそれだけの可能性があるという事だ。
可能性は希望である。
故にそれだけの可能性があるという事はそれだけの希望が残されているという事だ。
それほどの可能性を、希望を私で終わらせてしまうほど私に価値などあったのだろうか?
その先の全ての可能性を潰してしまう事が許されるほど私は何か出来るのだろうか?
その可能性にはさらに先の可能性もあるのだ。
ならばさらにその先も、そのもっと先もずっとあるのだ。
その無限の可能性を希望を全て殺してしまうほど、殺してしまう事が許されるほど有り余る能力が、その可能性が私にあるのだろうか?
そんなわけないだろう。
可能性は私にとって絶望だ。
それほどの重責を私は背負えない。
それを成せるだけの能力は私には無い。
例え成せても、きっと他の可能性であればより良くより良くとそんな思想に苛まれる。
例え失敗したとしても、結果が私より悲惨でも私に賭けるより、希望に無限の可能性に賭ける方がずっと有意義であったのではないか。
私が殺した
私が潰した
私が壊した
ならば私は何もしない方がいい、そこにいない方がいい、
そんな抗えぬ魔物が私に取り憑く。
可能性は希望だ。
しかしそれは私にとって絶望だ。
そんな魔物だ。
可能性という魔物である。