彼の幸福
この世界が乙女ゲームであると私が気付いたのは、私が8歳の時だった。
高熱で寝込んでいた時、ふっとここではない、別の世界の記憶が流れ込んできたのだ。
かつての『私』は、どこにでもいる乙女ゲームが大好きな普通の女子高生だった。
私が死ぬ前最後にプレイしたのが、『君が僕の唯一』、略して『君僕』という乙女ゲーム。
そしてこの世界こそ、『君僕』の世界だったのである。
しかも、この世界の『私』、「アリア・フィリア」という人物は、ゲームの中で主人公と敵対する悪役令嬢だった。
『君僕』はファンタジーの世界が舞台の乙女ゲームだ。
貴族たちが通う、剣と魔法を学ぶ学園に入学した主人公は、そこに通う貴族子息たちと心を通わせ、彼らと恋を育んでいく。
その障害として立ちふさがるのが私、アリア・フィリアである。
誰のルートに入ろうが、アリアは相手の婚約者として主人公の邪魔をする。
高位貴族であるアリアは、大した魔力を持っていなかった。
父も母も、年の離れた兄でさえ、強い魔力を持っているにも関わらず、である。
とりあえず学園に入ったのはいいものの、どうしても両親や兄のように魔法を扱うことができない。
そんな中、強力な魔法を扱い、自分の婚約者の心を奪う主人公を、アリアは許せなかった。
だからアリアは、実家の権力を使いつつ、主人公を徹底的に苛め抜く。
そして主人公がエンドを迎えた場合、断罪されるのだ。
断罪の仕方はどのルートかで様々だけれど、一番マシなもので廃嫡、最悪なものになると無残に殺される。
そしてその最悪なルートこそが、ヤンデレキャラと呼ばれるルカ・オルタリアのルートである。
銀髪の髪に夕暮れ色の瞳を持つ彼は、メインヒーローと同程度の人気を誇っていた。
彼の人気の理由は、彼の神秘的な美しさに加えて、もう一つある。
このゲームの中で、彼は唯一2パターンのハッピーエンドルートがあるのである。
通常のハッピーエンドの場合、主人公の邪魔をしてきた私は、彼に今までの報復として殺されるが、それを主人公が知ることはない。
ルカは主人公の前では優しく振る舞い、その裏に隠された冷酷な部分を見せることはしなかった。
しかし、もう一つのハッピーエンドーーーそれをハッピーエンドと呼んでいいのかと言う議論がいくつも交わされ、通称メリバエンドと呼ばれるようになったーーーの場合、彼は私を、そして、主人公の友人たちをも主人公の目の前で殺し、笑うのだ。
血に染まった死体を前にして呆然とする主人公に、彼はにっこりと笑う。
そして、血まみれのその腕で主人公を抱きしめ、歌うように唱えていた。
やっとこれで2人きり。
君に出会えてよかった、と。
その、恐ろしくも美しいスチルを、私ははっきりと覚えている。
ここまで恐ろしいエンドはルカだけだが、他のルートであっても油断ができない。ゲームの中のアリアは、死なずとも決して幸せな未来を歩めてはいなかった。
だから私は、記憶を思い出した8歳の頃から、『ゲームの中のアリア』にならないよう努力をしてきた。
前世の記憶を持っていれば、見えてくるものもある。
魔力が少ない自分を疎んでいると思っていた家族たちは、不器用ながらもきちんと愛情を持って接してくれていた。
魔力の量を気にするアリアを気遣って、遠慮してしまっていただけなのだ。
ゲームの中のアリアは、その家族からの優しさに気づけなかったのだろう。
だから魔法を使えない自分に劣等感を持ってしまった。
対する私はといえば、家族という強い味方を得ることができた。
無理して魔法を使おうとしなくてもいい、と言われたし、気楽なものである。
しかし、身を守る術はあるべきだと考えた私は、父様に頼んで剣術を習い始めた。
全力で回避するつもりではあるけれど、破滅のルートを進んでしまう可能性がなくなったわけではない。
幸いアリアの身体能力は高く、年を経るにつれ剣術の腕は上がっていった。
それを見た父様が、私をゲームの舞台となる学園に入学させることを決めてしまったことは、誤算といえば誤算だったけれど。
本当は魔力を持たない、平民や社会の低い貴族令嬢の通う学園に通うつもりだったのに、父様はやっぱり自分の母校に娘を入学させたかったらしい。
それだけ剣術を扱えるなら十分ついていけるはずだ、と得意げに笑って、教師として学園に在籍している兄には泣いて喜ばれた。
そんな状況で、違う学園に通いたいなどと言い出すことができるだろうか。
少なくとも私はできなかったから、小さなため息とともに私は学園への入学を決めた。
ただ、学園に入った私を待っていたのは、辛い現実だったのである。
「…あ、アリア様…!えと、ごきげんよう…!」
「…えぇ、ごきげんようリリィ様」
目があっただけでビクッと肩を跳ね、おどおどと話しかけてきたその少女に向かい、私は笑顔を貼り付けて挨拶を返した。
彼女は私の笑顔を見て、怯えたように顔を伏せ、そっと一緒にいた男子生徒の後ろへ隠れた。
私の笑顔が怖いってか、失礼な。
いちいち私を苛立たせるこの少女こそ、ゲームの主人公、リリィ・ヴィヴィッドである。
肌は真っ白、唇は売れたリンゴのようで、頬は淡く色づいている。
緩やかにウェーブのかかったピンクブロンドの髪と、つぶらなサファイアブルーの瞳を持つ彼女は、誰がどう見ても美少女だった。
彼女のそばに立つ男子生徒は、アル・ユースラント。
この国の第2王子にして、ゲームのメインヒーローである。
アル様はめんどくさそうに私とリリィ様の間を交互に見つめ、どうにかしろ、と私に口パクで伝えてきた。
ヘタレか、と心の中に浮かんだ率直な感想を即座に打ち消し、私は肩をすくめた。
ご自分でどうぞ、という意思表示である。
アル様は覚えてろよ、とでもいうように私をにらみつけ、自分の腕にしがみつくリリィ様にそっと声をかけた。
「…あー、リリィ嬢?ここは人の目もある、腕を放してくれると助かるんだが」
「あっ、ごめんなさいアル…!その、私、怖くて…」
リリィ様はそう小さく言った後、ちらりと私の方を見た。
さも私に傷つけられているんですと言わんばかりのその態度に、私はため息しか出ない。
アル様はここは場所を離れた方が穏便に済むと思ったらしい。
私をちらりとみてから、リリィ様の腕を引いて、ゆっくりと去っていった。
今話題の平民上がりと国内有数の大貴族である私、そして麗しの第2王子という3人の集まりに注目し、集まり始めていたギャラリーも、アル様とリリィ様が去っていくと段々とその数を減らしていった。
その中から、いつも親しくしてくれている友人たちが私の側に寄ってくる。
皆一様に私を心配そうに見つめていて、
それだけで心が和んだ。
「大丈夫ですか?アリア様」
「あの子は一体なにがしたいのかしら。アリア様とお会いするたびにあんな態度をとって」
「なにか私が気にくわないことをしてしまったのかしらね…」
「そんな、アリア様は…」
「君があの子を虐めているから、だろう?」
気遣ってくれる友人の声を遮って、冷たい声が辺りに響いた。
ぎくり、と顔が強張るのを感じる。
恐る恐る顔を上げると、私の正面、リリィ様たちが去っていった方向から、1人の男子生徒が歩いてきているのが見えた。
廊下の中央を堂々と歩いてくる彼は、無表情のままじっと私を見つめている。
ルカ様、と、私の友人の1人が呆然と呟いた。
震えだしそうになる身体をおさえつけるようにぎゅっと手のひらを握り、私は淑女の礼をとる。
「ごきげんよう、ルカ様」
「…君にそう呼ばれたくはないな」
不愉快そうに顔を歪めて、ルカ様はピタリと私の目の前で足を止めた。
夕暮れ色の瞳がじっと私を見つめる。
「君はリリィを虐めていると聞いた」
「まさか。そんな事実はございませんわ」
「リリィが嘘をついているとでも?」
「誤解なさっているのかもしれませんわ」
じっと、私たちは見つめあった。
ものすごくそらしたいけれど、そらしたら負けな気もする。
しばらくそうしていると、ルカ様はぎゅっと顔をしかめて、私の横を通り過ぎていった。
すれ違いざま、覚悟しておいて、と不穏な言葉を残して。
はぁ、と息を吐き出すと、一気に肩の力が抜けた。
自分が思っている以上に緊張していたらしい。
「…よくやるな、ルカも」
「アル様」
「先ほどはやってくれたな、アリア」
言いながらアル様は私を窓際へと呼び、自分は壁に背を預けた。
少しここで話していこうということらしい。
私は側にいたくれた友人達に先に行くように声をかけると、アル様の横の壁にほんの少しもたれかかる。
それをみたアルは意外そうに私を見つめたけれど、それは無視する。
令嬢としてはあまり行儀がよくないことだけど、立て続けに2人も厄介な存在を相手にして、疲れているのだ。見逃してほしい。
アル様はそんな私の様子を見て、小さく苦笑を浮かべながら、
「…リリィ嬢はお前に虐められたとまた俺に言ってきた。虐めてるのか?」
「ルカ様にも言いましたが、断じてそんなことはございませんわ」
「まぁ、そうだろうな。一応の確認だ」
お前そんなことするようなやつでもないよな、となんでもないことのように言うアル様に、ほんの少し嬉しく感じる。
メインヒーローであるアル様とは、もう随分昔からの友人である。
記憶を思い出す前の5歳の頃に顔合わせをして、それから何やかんやで友情を育んできた。
おそらくアル様と会わされたのは、彼との婚約を視野に入れてのことだったのだろうけど、誰がわざわざ破滅への道に飛び込むものか。
今では気の置けない友人というやつであり、アル様とほぼ同時期に出会った他の攻略対象者達とも、ゲームの展開とは異なり仲のいい幼馴染という関係を築けていた。
ルカ様以外は、という注がつくけれど。
ルカ様はアル様と仲が良いし、私と話す機会も何度かあった。
しかし、私は徹底的に彼とは距離を置いた。
彼を見るたび頭をよぎる、狂気に染まった彼の笑顔。
悪役になるつもりもないから、復讐のために、と彼に殺されることはないだろうけど、主人公がヤンデレルートに入ってしまったら終わりである。
彼は自分と主人公の周りにいる全員を殺すだろう。
アル様や他の攻略対象が心配だけれど、その場合は私が出来る限りのことをして彼らを守ろうとは思っている。
ルカ様も標的の反撃は気にするだろうけれど、標的外の1モブからの反撃など想定はしていないだろう。
それにルカ様の目的は主人公と自分の周りから全ての人を排除すること。
それなら逃げに徹し、もう二度とあの2人の前に姿を現さないようにすれば、彼ら全員を助けることもできるかもしれない。
その為にも、自分自身がルカの標的になるわけにはいかなかった。
学園に入った私は、主人公であるリリィ嬢を避け続けた。
別段それは難しいことではなく、最初の数ヶ月はうまくいっていたように思う。
リリィ嬢も私のことなんて目もくれず、攻略対象者達と順調にイベントをこなしているように見えた。
その的確さと彼女の様子から、おそらく彼女も前世の記憶持ちなのだろうとおもったけど、私に関わらなければ彼女が前世持ちだろうがなんだろうがなんでもよかった。
本命は決めていないのか、攻略対象全員とイベントをこなしていることが、気になってはいたけれど。
しかし、しばらくして、リリィがまるで私に虐められているかのように振る舞うようになったのだ。
あからさまに怯えた態度、私を見る恐怖に彩られた瞳。
私を知らない周囲は当然誤解をしたけれど、アル様や、ルカ様以外の攻略対象者は、意外なことに私を信じてくれていた。
アリアがそんな小難しいことをするはずがない、と自慢げに言った男には、笑顔で肘鉄を打ち込んでおいた。
とまぁそれはおいておくにしても、彼らの反応が予想外だったのはリリィ嬢であるだろう。
私の悪口をそれとなく吹き込めば吹き込むほど、彼らは彼女に疑いの目を向け始めたのだから。
なぜそこまで彼らが私を信じてくれるのかはわからないけど、嬉しいことに変わりはない。
ただ、攻略対象者の中で唯一彼女の言うことを信じたのが、あのルカ様なのである。
ルカ様とはただの顔見知り程度の仲だから、そんな私よりもリリィのことを信じるのは当然としても、今日のようにいちいち私を攻撃してくるのが辛い。
どうしても彼の狂ったスチルを思い出してしまって、身が竦んでしまうのだ。
ルカ様の敵にだけはなりたくなかったのに。
いつか本当に命を狙われるかもしれないと思うと、心が沈んだ。
「…やりすぎじゃないかと俺たちからも言っているんだがな、ルカには」
「やりすぎ?…あぁ、私に対してですか。ルカ様は相当リリィさんを慕われているのですね」
「あー…まぁ、なぁ」
歯切れの悪そうにそう言うアルに、私は小さく首を傾げた。
何かおかしなことでも言っただろうか。
ルカがリリィを好きなのは、一目瞭然だろうに。
何かを言たいのに言い出せない、そんな様子で悩んでいるアル様をじっとみていると、
「あれ〜、アルにアリア?こんなところでなにしてんの」
「わ、カナタ様!?…ノワール様、ダレン様まで」
「やぁ、アリア」
「様付けじゃなくてもいいっつってんのに、相変わらず律儀だなぁお前」
最初に声をかけてきたカナタ様が後ろから私にぎゅっと抱きついてくるのに抵抗しながら、一緒にやってきたお二人に目を向けると、ノワール様は朗らかに笑い、ダレン様は呆れたように呟いた。
「そうはいきませんわ。ノワール様もダレン様も私の先輩ですもの」
「他の奴にも様つけてんだろ。カナタに至っては年下じゃねぇか」
「まぁ、その通りですが…皆様のことを呼び捨てなんかにしたら、他のご令嬢方のご不興を買いますわ」
いいながらぐるりと彼らを見回す。
薄茶色の髪を後ろで括り、黄金色の瞳をした精悍な顔立ちをしたアル・ユースラント。
明るいピンク色の髪を無造作に跳ねさせ、少し気だるげな雰囲気を醸し出し、子供っぽい様子が可愛いと評判のカナタ・グラシア。
サラサラのブロンドの髪と雪のような白い肌を持ち、その優しさで多くの女生徒を虜にしているノワール・ディリアス。
物静かなノワール様と対照的に、真っ赤な髪とお揃いの真っ赤な瞳、そして引き締まった筋肉とその明るい表情が活発な印象を与える、ダレン・シェノアス。
彼らは我が学園の生徒会役員であり、彼らに生徒会顧問を務める私の兄と、風紀委員長を務めるルカを加えた6人こそが、ゲーム『君が僕の唯一』の攻略対象者である。
攻略対象者というだけあって、彼らの見目は美しく、生徒の中にはファンも多い。
そんな彼らを呼び捨てにしたら、私が高位貴族といっても、女生徒たちの反感を買うのはまず間違い無いだろう。
というか、彼らがこうして集まっているだけで注目を集めるのだ。できれば早急に散っていただきたい。
とりあえずカナタ様だけでも離れてくれないかな、と、私の身体の前に回されていたカナタ様の腕をポンポン、と叩くと、返ってギュッと抱きしめられた。
いや、離して欲しいのに。
いつものことだから慣れてはいるけれど、いい加減この抱きつきぐせは直して欲しい。
私とカナタ様の静かな攻防を見ながら、ダレン様はあきれた様子で腕を組み、
「いや、お前が呼び捨てダメだっていうなら、あいつはどうなんだよ」
「リリィ嬢、だろ。仮にも令嬢をあいつ呼ばわりは良くないよ、ダレン」
「ノワールの言う通りだが…俺たちもさっきまで彼女の話をしてたんだ。やっぱり、彼女の評判は良くないか?」
「まぁ元が元だが、最近特になぁ…」
「アリアを貶める下賎な平民、俺たちを誘惑する悪女とかって言われてるのは聞いたことある〜」
「それはまぁ、すごいな…」
私に引き剥がされないようにしながら、カナタ様はいつもと変わらぬ口調でそう告げた。
他の3人は苦笑いといった表情で、口をつぐむ。
学園内は貴賎を問わない。
そのルールはもちろんあるが、それはお互いがそうした平等な関係を了承した場合に限る。
例えばアル様は、年下であり身分も低いカナタ様に呼び捨てにされているが、それが許容されているのはアル様がそれを望んだからだ。
身分が上の者の名を敬意を持って呼ばないことは、本来ならば不敬に当たる。
にも関わらず、リリィ様はアル様たちの許可なく彼らの名を気安く呼び、まるで親しい友人のように振舞っていた。
リリィ様に気を許していた最初の頃は、彼らもそれを許していたらしい。
許可を与えはしなかったけれど、咎めることもしなかったそうだ。
しかし、彼女が私に対する態度を変えたことで、彼女に対する不信感も芽生え始めたらしく。
名前を呼ばれるのも、その頃から少し不快というか、呼ばれたくはないと思うようになったそうだ。
今では彼女に時折それとなく注意もしているが、彼女は聞く耳を持たないのだといっていた。
完全に攻略に失敗しているのではないだろうか、これ。
なんだか私がそのキッカケになってしまっている気がすることに罪悪感は湧く。
けれど、彼女が望むゲームのとおりに私が悪役になったなら、彼女の幸せと引き換えに私が不幸になるのだ。
私だって穏やかな生活をしていたいし。
それに、それほどまで私を信じてくれるこの友人たちを裏切りたくはなかった。
平和で、大切な日常。
今の私が守りたいもの。
「…あぁ、アリア。お前たちも、こんなところにいたのか」
「…お兄様?」
「ここではエル先生、だけどな」
そう小さく笑って、私の頭をポンポンと撫でてくれたのは、私の兄。
現在この学園で数学の講師をしている、最後の攻略対象者である。
緩く癖のついた黒髪に、透き通るような緑の瞳。
さすが攻略対象者というのか、他のメンバーより華やかさにはかけるものの、年上らしい大人の余裕と、たまに見せる無邪気な笑顔は、女子生徒からの人気を集めているらしい。
兄は生徒会顧問を務めている上、私と同様にアル様たちとは幼い頃から交流がある。
そのため、アル様たちとは気の置けない仲で、本当の兄弟のように仲が良い。
今だって肩を組んでくるダレン様を窘めながら、楽しそうに笑っていた。
微笑ましいなぁと私がその様子をぼんやりと眺めていると、
「あ、そうだアリア」
「はい?」
「これ、リリィ嬢から預かったんだけど、なにかわかるか?」
「リリィ様から…?」
不思議そうな顔をしながら兄が差し出してきたのは、一枚の白い紙。
首を傾げながらそれを受け取った私は、そこに書かれた内容に息を呑んだ。
私と一緒に紙を覗き込んだカナタ様は、
「えぇ〜、なにこれ?なんかの文字?」
「俺もそう思ったんだけどなぁ。見たことないだろ、こんな文字」
「たしかに…見覚えがありませんね」
「どっかの国の文字じゃねぇのか?」
「いや…この辺りの国の文字だったら一通り学んだが、こんな文字見たことないぞ」
「アルも知らないのか…じゃあ文字ではないのかもなぁ。アリア、なにかわかる….、アリア?」
「あ、いえ…イタズラですかね?」
平静を装って、顔を覗き込んできた兄に向かって首を傾げた。
兄はじっとそんな私を見つめた後、そうか、と呟く。
「リリィ嬢の手の込んだ嫌がらせってとこか…」
「あいつもよくやるねぇ」
呆れたようにそう言って、カナタ様が私の肩に顎を置いた。
甘えるように擦り寄ってくるカナタ様の頭を撫でる。
気にするな、と私の頭を撫でながら微笑んだ兄に笑い返して、手に持った紙切れをポケットにしまった。
彼らが知らない文字だと呼んだそれは、日本語だった。
この世界に来てはじめて目にしたその文字は、どこか懐かしくて、胸が痛む。
【君僕】は日本で発売されたゲームだったし、彼女の言動から彼女にも前世の記憶があることはわかっていた。
彼女、リリィ嬢がわざわざ日本語でこのメッセージを私に宛てたのは、私以外の誰にもこの内容を知られたくなかったからだろう。
もしかしたら私が前世の記憶持ちであることの確認も含んでいるのかもしれない。
『今日の18:00、奥の森で。
何の話かはわかるでしょう?1人で来て。貴女にはその責任がある』
責任。
その言葉が、ひどく重く私の中にのしかかってくる。
ストーリーを歪めた私。
そんなつもりはなかった。けれど私の行動が、彼女の幸せを奪ってしまっているのだとしたら。
いつかの、私をじっと睨みつけていたリリィ嬢の顔が頭に浮かぶ。
ぎゅっと手のひらを握りしめたポケットの中で、紙がぐしゃりと音をたてた。
なにが、おこったの。
目の前の光景を信じることができずに、私はただ呆然としていた。
約束の18:00。
学園の奥にある森を訪れた私は、ルカ様を引き連れたリリィ嬢と対面した。
彼女は私との話を彼に聞かれたくはないのか、ルカ様を声が聞こえない範囲に遠ざけて、予想通り私をなじった。
悪役のくせに、私がヒロインなのに。
なんで思い通りにいかないの、なんで彼らはあなたのそばにいるの。
私はずっと黙って彼女の言葉を聞いていたが、彼女はそんな私の態度にもイラついたのか、とうとう彼らの目の前から消えなさいと要求してきた。
それが正しい道なのだと、そうすれば彼らは私のものになるはずだと、そういって。
たしかにそれはそうなのかもしれない。
ゲーム通りの、【正しい】展開。
それでも私は許せなかった。
彼らをただのキャラクターとしかみず、逆ハーなんていうただ自分の幸せしか考えてない彼女のために、私が身を引くなんて、そんなバカなこと。
大切な幼馴染たちなのだ。
前世を思い出し、混乱して泣く私のそばにいてくれた。
家族との仲がなかなかうまくいっていない時でも、私が諦めずにいられたのは、彼らが支えてくれていたからである。
ぜっったい言葉には出さないけど、彼らには心から幸せになってほしいと思っていた。
だから、私は彼女を認めることが出来ない。
彼女が選んだのは逆ハールート。
ただ一人を選ぶならまだしも、誰もを選ぶくせに誰も選ばないそのルートはきっと優しい彼らを苦しめる。
彼らがそれでもいいというなら私はおとなしく身を引くつもりだけれど、それなら私の目の前で正々堂々と彼らを落としてみせるぐらいのことをしてほしいものである。
だから私は彼女にそう伝えた。
身を引くつもりはさらさらない。彼らが欲しいなら、私から奪ってみせなさいと。
案の定逆上した彼女は、なんと魔法で私を攻撃しようとしてきた。
学園内での魔法の行使は禁じられているにも関わらず、である。
咄嗟のことに反応できず、思わず目を閉じ、衝撃に備えた私は、いつまでたっても訪れない痛みに、おそるおそる目を開けた。
すると、私の目の前に背を向けて立っていたのは、青白い魔法陣に照らされたルカ様の姿。
彼女の魔法を彼が弾いたのだということは、その魔法陣を見てわかった。
守ってくれた?あれほど嫌っていた私を?
彼は安心感から力が抜けてヘタリ込む私をチラリと見た後、驚いて固まっているリリィ嬢の目の前へとつかつかと歩いていき、
どこからか取り出した白銀のナイフを、ふりあげて、ふりあげて?
「お前は見るな」
「…アル様?」
突如かかった声とともに、私の視界は闇に覆われた。
いつのまにか私の背後に来ていたアル様が、私の目をその掌で覆ったのだ。
彼の声は優しく気遣わしげで、私はそっと、私の目を覆う彼の手に触れる。
「…アル?」
「他の奴らもきてる。…隠しといてやるから、さっさとしろ。ルカ」
「ずるい、なぁ。優しくて」
微かに、ルカ様が笑った気配がした。
その直後に響く、彼女の小さな叫び声と、うめき声。
もういいでしょ、というルカ様の声と共に私の視界は開かれたが、彼女の姿はどこにもなかった。
その美しい顔を赤黒いナニカで汚したルカ様は、しゃがんだ膝の上に両腕を置いて、私の目をじっと見ていた。
「…ルカ、さま?」
「うん。…俺がこわい?」
当たり前だ。
あのゲームのスチルを知っていて、その上こんなことまであって、怖がらない人がいるだろうか。
それなのに私が彼の問いに頷けないのは、彼が不安げに私を見つめているからだ。
ユラユラ揺れる夕暮れ色の瞳。
何も言えないまま、そのオレンジに魅入られていると、ぽん、と私の頭に掌が乗った。
「…ルカはな、お前の為にリリィ嬢のそばにいたんだよ。リリィ嬢の違和感にも、真っ先に気づいてた。彼女がお前を目の敵にしてるのもな。」
「…なんでです?」
「うん?」
「私、ルカ様を避けていました。ルカ様がアル様たちといるときも。なのに、」
「優しかったよ。アリア、君は」
ポツポツとこぼした私の言葉を遮って、アル様はそういった。
私から視線はそらさないまま、立てた片腕に頭を預け、
「確かにアルたちよりかは距離を感じていたけど、俺が1人でいる時はアルたちに言って俺を誘わせてたでしょ。俺を避けてるくせに、俺にも優しくして。最初は何がしたいんだって思ったけど」
そこで言葉を切り、彼は小さく微笑んだ。
彼が私に笑顔を向けるなんて、いつぶりだろうか。
ドキリと心臓が小さく音を立てる。
「ずっと嬉しかったんだ。アリアのお陰で俺は1人じゃなくなった。…アルたちとも仲良くなれたしね」
ねぇアル?
そうルカ様が問いかけると、アル様は彼なりの照れ隠しなのか、まぁなとぶっきらぼうに言い返した。
ルカ様はくすくすと笑って、夕暮れ色の瞳を嬉しそうに細める。
「だから、リリィ嬢が君に対して何か企んでるって気づいた時、何かしたいなって思ったんだ。それをアルたちに話したら協力してくれるっていうから、俺はリリィ嬢のそばに居て、ずっと様子を見てたってわけ」
「その、リリィ様は、」
「気絶させて別の場所に転移させてる。生きてるから安心して?ちょっと暴れるから怪我させちゃったけど、ちゃんと無事だよ」
安心させるように笑ったルカ様は、そう言いながら顔についていた血を拭った。
後ろにいたアル様を見上げると、ルカ様の言葉を肯定するように、頷いてくれる。
良かった、と息をついた私は、ずっと私の背を支えてくれていたアル様に寄りかかった。
「…あなたが殺してしまったかと、思いました、ルカ様」
「うん」
「私は…」
「アリアぁぁぁぁあ!」
「…カナタ様!?」
「ちょ、くっ…!」
叫び声とともに、ぎゅっと私の首に誰かが抱きついてくる。
倒れそうになる私の体を、咄嗟にアレン様が踏ん張って支えてくれた。
ルカ様を押しのけて飛び込んできたのは、カナタ様だった。
どうして、と思いながら顔を上げると、ちょうどダレン様とノワール様が転移してきたところだった。
ダレン様はカナタ様を呆れたように見ながら、ノワール様は微笑みながら私たちに近づいてくる。
「おつかれさま、みんな」
「おいカナタ、いつまでくっついてるんだ」
「だって疲れたんだもーん。これくらいの癒しはあってもいいと思わな〜い?」
言いながら、カナタ様はスリスリと私の肩に頭を押し付けた。
ふわふわの髪の毛が顔に当たって少しくすぐったいが、何と言ってもかわいい。
ポンポンとその癖っ毛を撫でながら、私はダレン様とノワール様を見上げた。
「お二人はどうしてここに?」
「報告だよ、ほーこく」
「報告?」
「うん。リリィ嬢の実家、大分悪どいこともやっていたみたいでね。それに加えて、リリィ嬢自身の不敬罪とか、まぁその他色々。僕らの仕事はその証拠固めってとこだったんだけど、それがやっと終わったんだ〜」
「どうだった、あいつらは」
「知識だけはあったみたいだな。割とうまくやってたが、まぁ大丈夫だろ。証拠は固めた」
「すべて宰相閣下に奏上済みです。刑罰は確定していませんが、国外追放ぐらいにはなるのではないでしょうか」
「上出来だ、よくやった」
そう言ってニヤリと笑い、アル様が右の拳を掲げると、ダレン様、ノワール様が小さく笑いながら同じく右の拳を上げて、コツンと打ち鳴らした。
ガキだねぇと呆れたようにつぶやくカナタ様も、私に抱きつきながら拳をかかげ、アル様と拳を合わせる。
近くで見ていたルカ様も、アル様たちに誘われて、戸惑いながらも嬉しそうに全員と拳を合わせていく。
彼らがこんなに仲の良さそうにしているのは、ゲームの中にもなかった展開だ。
ゲームの中ではいつだってどこか寂しそうにして、主人公という存在に依存すらしてしまったルカ様も、晴れやかに笑っている。
それがどこか嬉しくて、私の顔も自然と綻んだ。
すると、緊張が緩んだのか、途端にどっと疲れが襲ってくる。
抱きついてくれているカナタ様と、支えてくれているアル様の温かさに包まれながら、少しぼんやりとしていると、
「…疲れた?寝てていいよ、アリア」
「ルカ様…」
「眠れないなら寝かせてあげる。ほらカナタ、ちょっとどいて」
「えぇ〜」
文句をいうカナタ様をまぁまぁとなだめながら、ルカ様は私の額に触れた。
ブツブツと何かを唱えたと思うと、ルカ様の指から温かな何かが私の中に流れ込み、私の瞼は自然と落ちていく。
最後に見えたのは、優しげな夕暮れの瞳。
うつらうつらと夢心地の中、私は呟いた。
「…ぜんぶ、わるいゆめだったのかもしれません」
「うん?」
「あなたが、わたしたちを、ころす、あのみらいも」
「…うん」
優しく頷く彼に、これだけは言わなくてはと言葉を紡ぐ。
「こわがって、ごめんなさい。でもこれで、」
「…分かったから、早くおやすみ。謝るくらいなら、起きたら俺とも仲良くしてね」
そっと、ルカ様の手がもうほとんど閉じきったまぶたに添えられる。
そうして、心地いい微睡みの中、私は意識を失った。
「…眠ったか」
「うん。エルは?」
「予定通り保健室で待機してる。送っても問題ないはずだ」
「そう」
アルのその言葉に頷いて、ルカは一度パンと両手のひらを合わせた。
すると、アリアにはを中心に地面に青白い魔法陣が浮かび、
「とべ」
そうルカがつぶやくと同時に、彼女の姿が掻き消えた。青白い魔力の粒が空に舞う。
転移魔法だ、今頃アリアは学園の保健室で、彼女の兄に保護されただろう。
ぼんやりと空を見上げていると、ノワールが心配そうに、
「…ルカ?」
「ん」
「疲れた?」
「…んー。でもま、あと一仕事残ってるし」
ぐーっと腕を伸ばすと、それだけで少し楽になった気がする。
ふぅ、と一息ついて、
「それじゃあ、後始末といきますか」
そういうと、ルカは再び両手をパン、と合わせた。
ルカの目の前の地面に現れたのは、先ほどと同じ青白い魔法陣。
ルカがもう一度パン、と両手を打ち鳴らし、陣が一際大きく輝いたと思うと、次の瞬間には魔法陣の中心に、うずくまる女性が現れた。
リリィである。
彼女はだらだらと血の流れる腕を抑えながら、きっ、と目の前に立つルカを睨みあげていた。
ルカはリリィの視線などものともせずに、ただ冷たく彼女を見下ろしている。
険悪な空気が流れる中、最初に口を開いたのはリリィだった。
「…結局アンタもあの女のものだったってわけ?」
「もちろん。君に惹かれたことなどただの一度もないよ」
即答するルカに、リリィはぎり、と歯を食いしばり、
「あんたら全員、なんなのよ!?あんなやつただのバグじゃない!ヒロインはこの私、あんなやつなんかじゃないわ!」
「…ヒロイン、ねぇ」
嘲るように叫ぶリリィを見下ろしながら、ポツリとルカは呟いた。
そして、
「君が望んだのは、この世界だろう?」
「…なっ、」
パチン、とルカが指を鳴らすと、空中に光る画面のようなものが現れた。
そしてそれは、次々と華やかな静止画を映し出していく。
その中に描かれていたのは、まさにリリィが望んだ世界。
自分が『ヒロイン』として多くの男性に愛される、乙女ゲームの世界だった。
「なんで、ルカが、これを…」
呆然と呟くリリィは、ハッと何かに気づいたように目を見開き、
「まさか、ルカも転生者なの…?」
「残念、はずれ。僕は生粋の『ルカ・オルタリア』だよ」
「おいルカ、転生者ってのはなんだ」
「リリィとかアリアみたいな人ってこと。前に説明したでしょ、ダレン」
「…ちょっと静かにしてましょうね、ダレン。今大事なとこですから」
「な、おいノワール!」
「カナタ、ちょっと手伝ってくれませんか。このバカ、邪魔なんで」
「えぇ〜とばっちり〜」
「話をいちいち止められるよりもいいと思いません?」
「…それはそうかも」
口を塞がれ、もがもがともがくダレンを笑顔で抑えつけながら、ノワールとカナタは少し離れたところに下がっていった。
アルはルカの隣で呆れたようにため息をつき、呆然と画面を見つめるリリィを眺める。
学園で、少なくはない男生徒の憧れの的だった面影は今はなく、虚ろな目でルカの出した画面を眺めるリリィはどこか空恐ろしかった。
「…うそよ、だって転生者でもなきゃ、これを知ってるはずないじゃない!」
「全部君が教えてくれたんだけどねぇ」
そういったルカがパチン、と指を鳴らすと、空中に浮かんでいたスクリーンは掻き消えた。
リリィはルカの言葉を理解できていないかのように、のろのろと彼に視線を戻す。
「…私が、おしえた?」
「そう。君の知識にはなかった?『ルカ・オルタリアは人の心が読める』。だからこそ俺は1人だった。それは知ってたんだろう?」
「…でも、ルカのその力は人のうそや感情がなんとなくわかるとか、その程度のはずよ。こんな私の記憶まで読み取るなんて、そんなこと…」
「それは俺が望まなかった時の話。望めばその人の思考、記憶まで読み取れる。断片的にだけどね」
「私の記憶をみたのは、貴方の意思というわけ…?」
「その通り。どうして俺がそんなことしたのが不思議?」
その問いかけに、リリィは小さくうなずいた。
ルカは冷たく笑いながら、
「…君が、俺の母上を見殺しにしたからだよ。覚えてない?」
「…私が?」
「もう何年まえになるかな、俺の母上は俺と街に出ているとき、侍従に騙されて毒殺された。
君はその近くにいて、しかも侍従が差し出した水に毒が入っていること、わかっていただろう?」
「…それはっ!」
ルカは今でも覚えている。
街の雑踏に疲れた母が、信頼する侍従から差し出された水を飲み、苦しみもがいて死んだ時のことを。
ルカの力は普段制御しているが、それは精神面に大きく作用される。
母親が急に苦しみもがき出す姿に動揺したルカは、当然その制御を失った。
途端に流れ込む人々の感情。
恐怖、戸惑い、不安、好奇。
その中に、確かな『喜び』があった。
倒れ臥す母に駆け寄りながら、その感情に耳をすますと、聞こえてきたのは意外なことに幼い少女の声だった。
『…うん、ちょっと可哀想だけど、イベントが無事に終わってよかった。これがないと、『寂しがりやのルカ』は生まれないものね』
よかった?
自分の母親が苦しんでいるのに。もう、目を覚まさないかもしれないのに。
必死に母に呼びかけながら、どうしたのかと群がる群衆へと目を向ける。
その中に見つけた、やけに冷静にこの光景を眺めている、自分と同じ年頃の少女。
イベントがなんなのかなどはその時は分からなかったが、その少女が自分の母親の死を喜んだことは、はっきりと理解できた。
「忘れもしなかったさ、母上の死を喜んだやつのことなんて。でも、ただ最初は知りたかったんだけなんだよ、なんで平民である君が母上の死を喜んだのか」
ルカがリリィと再会したのは、学園の入学記念パーティーである。
在校生と、入学を間近に控えた新入生たちの全員が参加するそのパーティーの中で、ルカは幼い頃に見たあの少女を見つけた。
そっと近付き、バレないように彼女の記憶を覗き込んで、そして。
「…驚いたよ、君がこの世界をゲームと同一視してるだなんて。気でも狂ってるのかと思った。でも君のシナリオには、アリアがいたからね。見過ごせなかった」
「記憶をみたルカは俺たちに相談してくれてな。最初は半信半疑だったんだが、お前の行動を見ているうちにそうも言ってられなくなった」
ルカの言葉を引き継いだアルは、淡々とそこからの経緯をリリィに説明した。
ルカ、アル、ダレン、ノワール、カナタに加え、アリアの兄であるエルにもリリィの記憶を伝えたこと。
全員はじめは信じておらず、リリィを信頼しかけていたが、リリィがアリアをそれとなく貶めようとし始めたあたりで、ルカの話を信じるようになったこと。
そこから彼らは裏で団結し、リリィの排除を計画した。
決してアリアが傷つかないように、彼女を裏切ることのないように。
「…それで、私をはめたのね」
「はめたとは人聞きの悪い。君が勝手に自滅したんだ」
諦めたようにつぶやくリリィに、ルカが顔を歪めて吐き捨てた。
それを見たアルは、表情を変えないまま、どうする、とルカに小さく呼びかけた。
ルカはなにが、と答えながら、アルの方を見ようとしない。
信じられない、などと俯きながらブツブツと呟いているリリィをみつめている。
「…彼女を罰する証拠はある。アリアの前から消すことはできるだろうな」
「そうだろうね」
「だが、俺は…この場の罪は、見逃すつもりだ」
「…へぇ?」
「お前の好きにすればいい」
「…とことんアルは俺に甘いね」
そう小さく笑うと、ルカの右手に小さな魔法陣が生まれた。
その魔法陣は、淡く光りながら、氷の剣を形作っていく。
その光に顔を上げたリリィは、ゆっくりと近づいてくるルカと、彼に握られた氷の剣に目を見開き、怯えたような声を漏らした。
ルカから逃げようと後ずさりをして、しかし地面に輝く魔法陣の外には出られないことに気づき絶望に色を染めた。
やめて、こないで、こんなはずじゃ。
リリィの叫び声も無視して、ルカはリリィに近づいていく。
「いやよ、私そんなに悪いことしてないじゃな…、ぐっ!」
「わめくな」
「ひっ…!」
ルカは片足でリリィの肩を押し、押し倒した。
その上に馬乗りになり、彼女の首元ギリギリに氷の剣をそえる。
その鋭さに怯え、少女は息を呑んだ。
「…お前は母上を救えたね。あの頃の俺にとって、母上がどれほどの存在か知ってたのに」
耳にかけられたルカの銀色の髪が、さらりと落ちる。
ルカ・オルタリアは高位貴族の生まれだ。
しかし、貴族の血は半分だけ。
ルカの母親は、ルカの父親に半ば強制的に妾にされ、ルカを宿した。
そうして産まれたルカはしかし、特異な銀色の髪と強力な魔力をもった特殊な子供だった。
父親や、彼の本妻は気味悪がり、もともと悪かったルカの母親とルカへの扱いは日に日に悪くなっていく。
そのくせルカの魔力は惜しかったのか、父は決して母とルカが平民に戻ることは許さなかった。
肩身の狭い貴族の屋敷で、異母兄弟たちや本妻にはいじめられ。
窮屈な世界の中、ルカの味方は正しく自分の母だけだったのだ。
「孤独な俺が好きだったんだろ、だから母上が邪魔だったんだろ。お前の『シナリオ』の中の俺は、孤独で哀れだったもんな」
「それ、はっ…!」
「アリアだったんだよ」
反論をしようとしたリリィの言葉を遮り、ルカはそう、ポツリと呟く。
「母上を亡くして、1人で。でも、アリアが…アリアたちが、俺に全部くれたんだ」
母が死んだあの日から、色褪せた世界の中でその頃のルカは生きていた。
母の死を望んだ者がいたこと、母の死に喜んだ少女の声。
それらが心の奥に沈んで、まるで呪いのようにルカの心を凍らせていく。
そんな日々の中、父に連れられていった王宮の茶会で、ルカはアリアたちに出会った。
会った瞬間に救われただなんて、そんな奇跡的な出会いではなかった。
ただ、声をかけてくれた。そばにいてくれた。
出会ったその日以降、当たり前のように、自分を友人と呼んで。
父や義母から嫌悪される自分を他の同世代は腫れ物のように扱ったのに、アリアたちは何の抵抗もなくルカのことを仲間と呼んだ。
アリア自身とは少し距離を感じていたけれど、ルカが1人でいる時、真っ先に気づいてくれるのは他でもないアリアで。
アルたちから、自分たちがルカに声をかけたきっかけもアリアが言い出したからだと聞いた時、胸に宿ったあの暖かさを、ルカは今でも覚えている。
それなのに。
「お前は母上だけじゃなく、アリアを、アリアたちを俺から奪おうとした。許せると思う?」
すっと目を細めたルカは、手に握った剣をゆっくりと振り上げた。
剣先はまっすぐリリィの心臓を狙っている。
あとはただ振り下ろすだけ。
それだけで、彼女は命を落とすだろう。
リリィは涙をダラダラと流し、可愛いともてはやされた顔を汚しながら泣き喚いた。
「死にたくない死にたくない死にたくない…!ルカっ、やめて…!」
「…そう呼ばれることも、本当はずっと不快だったよ」
吐き捨てたルカは、勢いよく剣を振り下ろし、そして。
「…あぁぁぁぁぁぁあ!」
ルカの剣は、正しくリリィの心臓を貫いた。
しかしリリィは息絶えず、絶叫をあげる。
彼女を貫く剣を中心に小さな魔法陣が現れると、それはクルクルと回転しながらリリィの身体に吸い込まれるように近づいていき、 その身体に触れるとより一層輝きを増した。
それと同時に、リリィの叫び声は苦痛の色を濃くして、彼女はまるで声を枯らすように声を上げ続ける。
その様子に驚き息を呑むアルたちを無視して、ルカはもう一度ぐっ、と力をこめた。
すると、魔法陣は完全にリリィの中へとその姿を消し、リリィも疲れ果てたように気を失った。
ルカはため息をついて、氷の剣をリリィから引き抜く。
血の付いていないそれは、ルカの一振りで魔力の粒となり虚空へと消えていった。
ルカがぼんやりとそれを眺めていると、
「…何をしたんだ、ルカ」
「…なんだと思う?」
話しかけてきたアルの方を見ると、アルはじっとルカの方を見つめていた。
殺すのはいいと言ったのに、あんな風に苦しめるのはダメなのだろうか。
探るようにじっと見つめてくるアルに小さく笑いながら、ルカはアルから空へと視線を戻した。
夕陽がそろそろ沈みきろうとしている。
見上げた夜空には、ポツポツと星が輝き始めていた。
「…魔力を封じたんだよ。これでもう何もできないでしょ」
「…良かったのか、それで」
「さぁ?良かったんじゃない?」
「…ルカ」
投げやりなルカの態度を見て、アルは咎めるようにルカの名前を呼んだ。
返事をせず、ぼんやりと空を見上げたままのルカ。
アルは苛立ったように、
「…俺は見逃すと言ったはずだ」
「…なに、アル王子は俺に人殺しをさせたかったの?」
小馬鹿にするように笑ったルカに、アルは声を荒げた。
「そんなはずないだろう…!」
「じゃあこれでいいでしょう?何か問題があるの?」
「…お前が納得していない」
「だから俺は…」
「そんな嘘が通じるとでも思っているのか」
低く告げられた言葉に、ルカはようやくアルの方を向いた。
アルは鋭い目つきでルカを睨んでいる。
ルカはその全てを見透かすような視線に耐えきれず、目をそらした。
気まずい沈黙が流れる。
それを打ち破ったのは、そばで見ていたノワールだった。
「…アル、それにルカも。疲れたでしょう」
「ノワール」
「ルカはアリアの様子を見に行ってきてはいかがですか?やっと普通に話せるようになったのです、積もる話もあるでしょう」
「え〜、俺も行きたい〜」
「カナタはいつもアリアにべったりしてるでしょう。リリィ嬢のことを校長にお話ししたり、すべきことはたくさんあるんです。あなたもですよ、ダレン」
「げ、俺もかよ」
「当たり前です。…それでいいでしょうか、アル」
「…あぁ。俺も付き合おう」
「それはありがたいですね」
ルカから視線を外したアルは、ダレンとカナタとともに転移していった。
転移する直前ちらりとルカの方を見たが、結局なにも言わずに去っていく。
最後に残ったノワールは、
「…アルはあなたのことを、とても大事に思ってるんですよ、あれでも」
「それは…」
「だから悔しいんでしょうね、ルカが隠し事をすることが」
「かくしごと…」
「我慢、しないでほしいんじゃないでしょうか。あなたは溜め込んでしまう人だから」
「…そう」
俯いてしまったルカに、ノワールは苦笑して、
「…すみません、責めているわけではないんです。今回彼女を殺さなかったのも、立派な行動だと思いますし」
「…うん」
「ただ、話して欲しかったんだと思います。憎いとか、辛いとか。そんな顔をするくらいなら」
「俺、そんな酷い顔してた?」
「えぇ。諦めたような顔を」
「そっか…」
つぶやいて、ルカは押し黙った。
そんな彼の様子を見て、ノワールは困ったように眉を下げ、ルカの頭に手を置いた。
そのまま頭を撫で、
「…話してほしいのは、私も、彼等も一緒ですからね」
「…ありがとう」
「はい。…あとはアリアに任せましょう」
そういって笑うと、ノワールはアルたちと同じように転移していった。
おそらく先ほども行っていた通り、一連の事件の後始末をしに行ってくれたのだろう。
ルカは消えていく、火花のような魔力の残滓を、しばらくの間ぼんやりと眺めていた。
私が目を覚ますと、目の前に広がるのは真っ白な天井だった。
学校の保健室だろうか、独特の薬の匂いがする。
起き上がろうとすると、自分の右手が誰かに握られていることに気づいた。
そろそろとそちらの方を見ていると、
「ルカ様…?」
「…アリア」
私の手を握りながら、ベッドに頭を伏せていたルカ様は、私の言葉にゆるゆると頭をあげた。
起こしてしまっただろうかと慌てて謝罪すると、ルカ様は起きてたよと小さく笑い、掴んだままだった私の右手にそっとほほを寄せた。
「いやあの、ルカ様!?」
「んー?」
「その、手を離してくださいな!」
「だーめ。このくらいいいでしょ、久しぶりなんだし」
そう言ったルカ様は、あったかいなぁと小さく呟いた。
ルカ様がこんな近くにいるのは随分久しぶりで、なんだかドキドキしてしまう。
けど、なんだろう。なんとなく、
「…あのあと、何かありましたか」
「…どうして?」
「なんとなく、ですけど」
「はは、そっか」
小さく笑ったルカ様は、そっと私の手を離した。
ゆっくりと身体を起こし、改めてルカ様に向き直る。
ルカ様はうつむいて、握り合わせた自身の両手をぼんやりと見つめているようだった。
しばらくの沈黙。
何か喋った方がいいのかと悩み始めたその時、ルカ様が口を開いた。
「…ねぇ、アリア」
「…はい」
「俺がこわい?」
「…ルカ様、」
「アリアの中の俺と、俺が同じだったらどうするの。いままで通り、俺はアリアとはいられない?」
夕焼け色の瞳が、私をじっと射抜く。
息を呑んだ。
そんな、私のゲームの記憶を知っているかのような言い方。
ルカ様はすっと顔を上げて、知ってるよ、と、そう呟く。
そうして説明してくれた。
自分には人の感情や記憶すら見る能力があることや、リリィ様の記憶を見、この世界のシナリオとも言えるものを知ったこと。
そして、私の記憶の中にも同じものがあることを知ってしまったことも。
ルカ様は勝手に記憶を見てごめん、と小さく謝って、
「…不思議だったんだ、小さい頃。アリアは俺に優しくしてくれるのに、俺に近寄ろうとしないから。だからどうしてもその理由を知りたくて、君の記憶を見たんだよ。そしたら君の恐怖の中心に、血に塗れた俺がいた」
「…申し訳、ありません」
「どうして?怖いよね、自分が死ぬ記憶なんて。それにアリアが俺に優しくしてくれたのは、恐怖もあっただろうけど、ただ純粋に俺を心配してくれたんだろ?」
「…私は、」
「…君は正しいよアリア。俺はきっと、あの通りひどいやつなんだ。笑って人を殺せて、…君たちには、ふさわしくない」
小さくそう呟くと、ルカ様は沈黙してしまった。
「…リリィ様に、何かしたのですか。何があったんですか」
そう問いかけると、ルカ様は顔を上げないまま、
「…殺してないよ。けど、殺すつもりだった。
でもその時、君たちの顔がよぎって」
「私たちの?」
「もしここであいつを殺したら、もう君たちといられないと思ったんだ」
絞り出すように、ルカ様は言う。
認めて欲しかったと、囁くような声で。
「…あんな『ルカ・オルタリア』じゃなくて。俺は、君たちのお陰で大丈夫なんだって、そう君に、君たちに。認めてもらいたかった」
「…そんな、」
とっくに認めてるだなんて、そんなことは言えなかった。
誰よりもきっと私が、ルカ様を『ゲームの中のルカ様』としてしか見れていなかったから。
アル様なも、カナタ様にもノワール様にもダレン様にも兄様にも、ゲームとは違うところがあることを、知っていたはずなのに。
自分ではない自分のせいで怯えられることは、なんて理不尽なのだろうと今更ながらに気づく。
ここまでルカ様を追い詰めてしまったのは、間違いなく私のせいだ。
罪悪感から目を伏せてしまった私に、ルカ様は悲しそうに顔を歪めた。
「…やっぱり俺は、ダメだなぁ」
「ルカ様?」
「君にそんな顔させて。…忘れて全部。こんな話をするつもりじゃなかったんだ」
ごめん、と小さく謝って、ルカ様は席を立った。
何も言えないまま彼を見上げると、エルを呼んでくると小さく微笑む。
くるりと踵を返して去っていこうとするルカ様の服の裾を、咄嗟に掴んだ。
行かせてはいけない気がしたのだ。
このまま彼を行かせてしまったら、彼はもう私たちの前から消えてしまう。そんな予感が。
少し怪訝そうな顔をして私の名前を呼ぶ彼に私は、
「…謝らないでください」
「アリア?」
顔をうつむかせながら、なんとか言葉をひねり出す。
何を伝えればいいのかなんて分からなかった。
ルカ様を追い詰めてしまった原因はおそらく私だ。
私にゲームの記憶なんてなければ、ゲームの中の『ルカ・オルタリア』なんて存在を知らなければ。もしかしたらルカ様はここまで悩まなかったかもしれないのに。
「私が、悪いじゃないですか。ルカ様を勝手に怖がって、怯えて。ルカ様はずっと、私を守ってくれていたのに」
「…それは君が優しかったからだよ。俺は君に恩返しをしたかっただけ」
「私そんな優しくありません。ルカ様が、勘違いしてらっしゃるのです」
「それでも俺は、嬉しかったから」
ルカ様がぽん、と私の頭に手を置いた。
そのまま宥めるように頭を撫でてくれる。
顔を上げると、ルカ様は優しく微笑んでいた。
胸がぎゅっと苦しくなる。
震えそうになる声を必死に抑えて、
「…ルカ様の方が、よっぽど優しいじゃないですか」
「ん?」
「申し訳ありません。私はずっと、何も気づかなかった」
言いながらポタリ、と涙が落ちる。
溢れたそれは、真っ白なシーツを小さく濡らした。
ルカ様を追い詰めていたことにも、ずっと守ってくれていたことにも、何も気づかなかった。
それが申し訳なくて、不甲斐なくて情けない。
自分が優しくないというこの人は、どれだけ優しいのだろう。
泣いてるのと、慌てたように問うてくるルカ様に小さく首を振り、必死に嗚咽をこらえた。
ルカ様はしゃがみこんで、私を心配そうに見上げてくる。
透き通るような夕暮れ色の瞳。
美しい人だと、改めてそう思う。
見た目だけじゃなくて、その心も。
ごめんなさいと謝ると、ルカ様はんーんと首を振って、
「俺が泣かせちゃってごめん。…ありがとう」
そういって、ルカ様はほんの少し嬉しそうにわらった。
この人は、どうしてこんなにも。
溢れそうになる涙を必死にこらえながら、
「ふさわしくないなんて、そんなこと言わないでください」
「…アリア」
「それをいうなら私の方です。私の方が自分勝手で身勝手な人間です。現実じゃない記憶をあてにして、あなたという人間を決めつけた」
「それは、仕方がないことだよ」
「仕方ないというなら、ルカ様だってそうです」
泣きながら、ルカ様にそう告げる。
もし私が、仕方がないという言葉で許されるのなら、
「…リリィ様を、結局傷つけなかったのでしょう?ならそれでいいじゃないですか」
「…それでも、あいつの死を願ったのは事実だ」
「それでもあなたは殺さなかった。それもまた事実です」
「でも俺は、」
「そばにいてください」
何か言い募ろうとしたルカ様の言葉を遮って、そういった。
目を見開く彼に、小さく笑みがこぼれる。
「身勝手だった私を許してくれるなら、ちゃんとあなたを知る機会をください。…そうすれば信じてくれますか?」
「しんじる?」
「あなたはあのルカ様じゃないこと、証明しますから」
お願いします。そう言って、私はぺこりと頭を下げた。
ルカ様はきっと断らない、それを知りながらこんなことをする私はずるい。
そう思うけれど、それでも今は許してほしい。
これだけがきっと、私ができる彼への精一杯の罪滅ぼし。
しばらくの間黙っていたルカ様は、
「…アリア」
「はい」
「抱きしめてもいい?」
「…え?わっ!?」
驚いて顔を上げる間もなく、ルカ様は私を抱きしめた。
騒がしくなる心臓の音が彼に聞こえていないことを願いながら、
「あの、ルカ様…?」
「…まいったなぁ…」
ルカ様はそう呟くと、それきり黙ってしまった。
どうしていいかわからずに、しばらくウロウロと視線を彷徨わせていたが、彼は私を離す様子がない。
私は諦めたようにため息をついて、ルカ様の背に両手を回した。
そっとその背に触れると、ルカ様はビクッと肩を小さく揺らしたが、拒まれはしなかったので少し安心する。
むしろ私を抱きしめる腕にぎゅっと力を込めたルカ様は、
「…ねぇ、アリア」
「はい?
「俺さ、…んー、やっぱいいや」
「え?」
「なんでもなーい」
そう言って笑い、私の肩にぐりぐりと頭を押し付けた。
顔を上げないルカ様の頭を撫でる。
しばらくそうしていたが、
「…ルカ様、あの、そろそろ離してくれません?」
「え〜?もうちょっとだけ。だめ?」
「…仕方ないですねぇ」
珍しく甘えてくるルカ様に負けて、私はそう答えた。
けれど本当は、それほど嫌ではない自分もいて。
どきりと高鳴った心臓の音に気づかないふりをしながら、私はルカ様の温かさに包まれていた。
トクトクと小さな鼓動の音が聞こえる。
自分を抱きしめる暖かさに、柄にもなく泣きたくなってしまった。
認められたかった。自分を友と呼んだ、大切な友人たちのそばに居てふさわしい自分になりたかった。
それはたしかな事実で、でもそれ以上にルカの頭を占めていたのは、己への恐怖。
リリィとアリアの中にいた、血に塗れた自分。
『ルカ・オルタリア』に殺された、アリアたちの無残な姿。
恐ろしかったのだ。
自分はあいつと同じじゃないと、アリアたちを傷つけたりなんかしないことを、おそらく自分自身が誰よりも証明したかった。
だからリリィは魔術を封じるだけにとどめた。
けれど、同時に気付いてしまった。
どう取り繕っても所詮自分はルカ・オルタリアであるということ。
人1人殺めることになんの抵抗感も抱かない、その残虐性に。
あのときリリィを殺さなかったのは、ただそばにアルたちがいたからだ。
彼女を憐れむ気持ちや罪悪感など、一欠片も抱かなかった。
彼らがいなければきっと自分は彼女を殺していたし、そうするだろうという確信があった。
結局自分は優しくなどなれない。
自分の望みのためならば人を殺すことすら厭わない、冷酷な人間なのだ。
それでも、と、ルカは思う。
それでも自分はそばに居たいと、幸せであればいいと思える人間たちを見つけた。
きっとそれは、あの『ルカ・オルタリア』にはできなかったこと。
他人の幸せを願う。それだけの優しさを自分に見つけられたことが、どれだけ嬉しかったかなんて。
そんな彼女たちもまた、自分がそばにいることを望んでくれるのなら。
「…ねぇ、アリア」
「はい?」
「俺さ、」
好きだよ、きっと。
その言葉を飲み込んで、なんでもないやと笑った。
そのままアリアの肩に頭を埋めると、アリアは慰めるように俺の頭を撫でた。
それだけで、満たされる。
けれど、俺がそれを彼女に伝えないのは、壊したくないものがあるからだ。
アリアを抱きしめたままやり取りをしていると、騒々しい足音が聞こえてきた。バタンという大きな音を立てながら扉が開かれ、
「…あぁぁぁぁあ離れろルカのバカァァァァァア!!」
「おっと」
「カナタ様!」
俺とアリアの間に割り込んできたカナタは、アリアに抱きつきながらきっと俺を睨み、
「何やってんの、何やってんの!?」
「え、ハグだけど?」
「そんなの見たらわかるよ!調子に乗らないでくれる!?」
「カナタだっていつもしてない?」
「俺はいいの!ルカはだめ!」
「え〜?」
「騒がしいですよ、カナタ。病室では静かにしなくては」
俺とカナタが言い合っていると、ノワールが部屋に入ってきた。
その後に続いたダレンは、俺と目が合うと嬉しそうに、
「…ちょっとは気ぃ抜けた顔してんなぁ、ルカ」
「ふふ、本当ですね。…安心しました」
「…ありがと」
優しく笑ったノワールは、俺の頭をぐしゃりと撫でたダレンとともにアリアのいるベッドに座った。
俺は壁際に下がり、場所を彼らに譲る。
アリアを心配していたらしい彼らは、アリアが元気であるのが分かるといつも通り談笑を始めた。
それをぼんやりと眺めていると、
「よう」
「アル」
部屋に入ってきたアルは、ちらりとアリアの方を見たあと、俺の隣にたち、壁に寄りかかった。
腕組みをしながらアリアたちを見つめるアルは、俺の方を見ないまま、
「落ち着いたか」
「…うん」
「カナタもあれで心配してたぞ」
「そうなの?」
「あぁ。お前とアリアの姿を見て吹っ飛んだみたいだけどな」
そう言ってアルは小さく笑った。
その顔はとても穏やかで、きっと自分も同じような顔をしているのだろう。
アルの視線の先をたどると、アリアがいた。
「…あのさ」
「なんだ」
「俺、多分アリアが好きだよ」
そう言うと、アルは少し驚いたように目を見開き、俺を見つめた。
目を合わせて、驚いた?と笑うと、アルは小さく笑って、
「…いや、そうか。良かったな」
「良かったってなに」
「素直になったじゃないか」
「うーわ偉そう。というか、分かってたの?」
「見ていれば分かる」
「嘘でしょ」
「割とわかりやすいぞ、お前は」
そう言ってアルは笑う。
笑って、また前を向いたアルは、きっとアリアを見つめながら、
「俺もだ」
「…うん」
「言わないけどな」
「どうして?」
「…多分お前と同じ理由だろうな」
俺の方を振り返ったアルと目が合う。
じっとお互いをさぐり合うように見つめて、それからどちらからともなくふは、と笑った。
楽しそうに笑いあうカナタたちを見つめ、
「…仲良いねぇ、俺ら」
「そうだな」
「もう少しさ、このままでいたいと思うんだ」
呟くようにそういうと、アルはそうだな、と小さく微笑んだ。
ちょうど、アリアが俺たちを呼ぶ声がする。
俺とアルは顔を見合わせてまた笑い、いつもの輪の中に加わっていった。
いつか誇れる自分になれた時、伝えたい想いはある。
けれど今は、もう少しだけ。
彼女と、彼女が出会わせてくれた彼らと共に在れる日々を大切にしていたい。
孤独でひとりぼっちなルカ・オルタリアはもういない。
今日も彼は明るい陽の下、得られた『仲間』と笑うのだ。
「…ルカ様?」
「んー?どうしたの?」
「いえ、少しぼーっとしてらっしゃったようなので」
「…んーん、なんでもないよ」
ただ幸せだと、そう思っていただけ。
心配そうに自分を見つめる彼女に笑うと、
安心したように笑い返してくれた。
それだけで、暖かななにかで心が満ちる。
君に、君たちに。出会えてよかった。
心の中でそう呟くと、良かったねと、自分とよく似た声が笑った気がした。