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後編

※7/2一部加筆修正しました。

 

 いくら女性のお医者さんが診察してくれると言っても、産婦人科というのはあまり診られて気分のいい場所ではない。妊娠やお腹の中の赤ちゃんの成長具合を確認に行く目的以外で行く場合は、特に。


 30代に入って、年に一度は乳がんや子宮頸がんのチェックを受けた方が良いとは聞いているけれど、正直他人にデリケートな部分を見られるのも触れられるのも嫌だし、実際に大きな病気が見つかる可能性への潜在的な恐怖から二の足を踏んでしまう、私のような感想を抱く女性は多いと思う。


 私も今回の生理前の前兆痛が仕事に支障をきたすレベルまで行かなければ、絶対に自分から足を運んだりはしなかっただろう。もしかしたら、昨日廣澤さんが病院行くのかと聞いてこなかったら、自分の中でやっぱりやめた、となっていたかもしれない。


 「白石さん、どうぞお入り下さい」

 「あ、はい!……じゃあ、行ってくるね」


 名前を呼ばれ、立ち上がり横に座っていた廣澤さんに声を掛ける。

 

 土曜日の産婦人科の待合室は、思った以上にたくさんの人が呼ばれる順番を待っている。やはり平日働いていて、病院に行けず土曜日に来る人は多いのだろう。もちろんほぼ女性だけで、男性は廣澤さんのほかにはもう一組夫婦で来ている人の旦那さんくらいしかいない。


 私達も夫婦と思われているのかな……でもこの年齢差だし、とても夫婦になんて見えないよね。


 私は一人もやもやとそんなことを考えながら、診察室の方に向かう。入る前にもう一度待合室を振り返り、女性だらけの空間に一人取り残され居心地悪そうにしている廣澤さんに、申し訳ない気持ちになった。


 やっぱり、病院の近くのカフェとか本屋さんで時間を潰してもらって、終わってから連絡するように気を遣ってあげるべきだったかな。


 でも私と目が合うと、彼は大丈夫だよ、と言うかのように笑ってくれた。それが診察室に入ることを、ほんの少し躊躇していた私の背中を押してくれた。


 私が診察室に入ると、奥に女性のお医者さんがいて、その前の丸椅子に座るように看護助手の女性が促してくれる。


 「―――白石さん、ですね。今日はどうされました?」

 「それが、この数ヶ月、生理前の1週間くらい前兆痛がひどくて……実際の生理の時はそうでもないんですけど、昨日と一昨日は下腹部の痛み以外にも気持ちも悪くなって」

 「そうですか、生理は一定の間隔で来ますか?」

 「毎月来るんですけど、早まったり、遅くなったりあまり間隔は均一じゃありません。あと、20代の頃に一時期来なかった時期もあります」


 私が受付で渡されて事前に書いた問診票を見ながら、その女性医師は一つ一つ確認をして行く。


 「そうですか、生理の経血の量はどうですか?」

 「普通よりちょっと多いくらいだと思います。最初の3日間は多いんですけど、4日目からはぐっと減ります。痛みも、最初の2日くらいで治まります」

 「そうですか……白石さんは、現在34歳ですか、妊娠されたことは……ないようですね。じゃあ、ちょっと念のため子宮の中も見てみましょうね」


 そう言葉を区切ったお医者さんは、診察室内のパーテーションで仕切られているさらに奥の部分に移動するように私に指示した。


 奥の空間に入ると、大きな医療機械とモニターがあり、また座席の部分が可動するようになっている医療用の椅子型の診察台があった。診察台のすぐ前もカーテンで仕切られ、四方をぐるりと囲まれている。


 「下着も含めて、下に着ている物を全部脱いで、腰掛けてお待ち下さいね。すぐに先生も来られますから」


 また先ほどの看護助手の人に、空間の端にあるカゴに脱衣した衣服を置くのだと説明され、私は息を呑む。


 仕切られている空間とはいえ、人の気配がする場所で履いているものを全て取り去るというのは、ひどく抵抗のある行為だ。私は意を決して服を脱ぎ、用意されていたブランケットで下腹部を隠しながら医療用チェアに腰を掛けた。数分後、カーテンの奥にさっきのお医者さんがやって来て「椅子を傾けますね」と声を掛けられる。


 ウィーン……という機械音と共に、診察台が体を斜めに倒すように傾き、座席部分が足を広げる形で二つに分離して行く。椅子が稼動するにつれ緊張が増していく。


 「ちょっと違和感あるかもしれませんが、器械入れて行きますねー」


 その言葉と共に、カーテンの奥から細長い器械が出て来て、私のデリケートな部分に差し入れられる。それと同時に斜め上に設置されているモニターに、白黒の画像が映し出された。


 モニターの中には完全に黒い部分と、なにか灰がかった部分とがあってそれがぼんやりと私の子宮と思われる形を表している。


 「……妊娠は、今のところされてないようですねー……うーん……」

 「そうですか……」

 

 分かっていても、落胆を隠せなかった。


 子供のことは考えない、と常に自分に言い聞かせているのに、もし赤ちゃんが宿っていたら、何もかもが変わって来るのかな、とほんの数パーセント期待していた自分がいたことに気付いた。


 「……腫瘍がありますね」

 「……えっ」


 医師の言葉に、私は声を失った。


 「まだ良性の物か、悪性の物かなんとも言えませんが、生理痛が酷くなっている原因の一つはこれでしょうね」

 「……そ、そうですか……」

 

 腫瘍、と聞いて頭が真っ白になった。その瞬間、自分に起こっていることがとても非現実的なことのように思えて、お医者さんのそのあとの説明も頭に入って来なくなった。


 たぶん、良性の腫瘍があることは珍しくないので、むやみに心配しないで下さい、というようなことを言われていた気がする。


 「今日の所は、痛みを和らげる薬と、精神の緊張を緩和させる薬を出しておきますから、また来週に検査結果を聞きにいらして下さい」


 そうお医者さんは最後に私に告げ、診察は終わった。


 服を元に戻して、待合室に戻ると廣澤さんが笑顔で迎えてくれた。その表情に少し、ほっとして泣きそうになる。なんだかんだ言って、付き添ってくれて心強い。


 「大丈夫だった?」

 「う、うん、やっぱりちょっと、ただの生理不順みたい」


 私はあえて詳しくは説明しなかった。


 支払いをした時に、受付の人に検査結果をいつ聞きに来れますか?と聞かれた。


 「次の木曜日には検査結果が出ていますから、来られますか?」

 「木曜日……」


 出来れば早めに聞きたい、でも平日は仕事がある。木曜日、と考えて私はハッとした。来週の木曜日はたしか、廣澤さんが本社に泊りがけの研修に行く日だ。


 廣澤さんがいない日なら、半休を使って病院に検査結果を聞きに来たとしても、彼に知られずにすむだろう。今はコンプライアンスに厳しくなっているから、有休の申請に細かい申請理由を聞かれることも無いし、消化することもよほどの締め日に重なっていなければ受理されるはず。


 廣澤さんが病院に付き添ってくれて、有り難かったのに、診察内容を伝えるのは躊躇われた。まして、腫瘍が良性か悪性かの結果をあとから聞きに来なければならないことも。


 まだ付き合って日も浅い年下の恋人にこんな重いことを伝えて、ドン引きされる姿を想像したら、怖くて仕方なかったのだ。



 ―――私の子宮の中に腫瘍があるんだ……悪性だったら、ガンって言うこと?


 そしたら手術するの?手術するって子宮取っちゃうの?まだ私子供産んでないのに。


 それにそれに私の年齢でガンになったら進行が速いんじゃない?え、それって私死んじゃうってこと?

 

 まだお医者さんは良性とも悪性とも分からないから不安にならないで下さいって言ってたけど、そんなの無理、やっぱり怖いよ。仕事だってどうなっちゃうの?手術して長期療養とかになっちゃったら、仕事続けられるの?


 まだ確かな結果が出たわけでもないのに、私の中で色んな疑問、不安が渦巻いて来る。


 そのおかげで、廣澤さんと行ったショッピングモールで映画館に入り、今話題の超大作と言われる映画を見ていても内容は一つも入って来なかった。


 「―――由香さん?なんかボーっとしてるね?どうしたの?」


 映画の後のショッピングモール内のフードコートで昼食をとっていた時、廣澤さんに顔を覗き込まれ、私ははっと我に返った。


 「!ごめん、ごめん!何話してたっけ?」

 「だから……さっきの映画、めっちゃ良かったよねって。グラフィックも凄かったけど、スタントアクションも実際にやったんだって、見てて俺めっちゃドキドキした!」

 「そ、そうだね……」



 ごめんね、映画の内容ほとんど入って来なかったんだ。

 

 今日見た映画は、アメリカで大ヒットのアクションムービーで、廣澤さんのリクエストだ。私が普段見ている映画とはジャンルが違うので、私にはストーリーが正直さっぱり理解出来なかった。

 

 でも興奮冷めやらぬ様子の廣澤さんを興醒めさせたくなくて、一生懸命相槌を打つ。


 「由香さん……何か、ちょっと今日いつもとテンション違うね。病院で何か気になること言われた?」

 「そ、そんなこと……」

 

 心の中を見透かされたようで、私はドキッとした。廣澤さんはたまに、変に鋭い時がある。


 「あれ、哲也じゃん!」


 ふいに私の背後から掛けられた声に、廣澤さんは顔を上げた。


 「健吾、康太!」


 振り返ると、廣澤さんと同い年くらいの男性二人組が私達のテーブルの後ろに立っていた。その手にはさっき廣澤さんと一緒に見た映画のパンフレットが握られている。


 「久しぶり!高校の同窓会以来?」

 「久しぶりだなー!そうそう、お互い地元にいるのに全然会わないなぁ。今日お前もあの映画見たの?」

 「そうそう!めっちゃ良かったよな!」


 高校の同級生らしいその男性達に、廣澤さんは表情を明るくして席を立ち彼らの側に歩み寄った。私はというと、その様子をただただ馬鹿みたいに口を開けて見ていた。


 「哲也はえーっと……今日は、お姉さんと一緒?」

 「……」


 その友達の一言に、がっくりきてしまう自分がいるのを否定出来なかった。


 お姉さん……そうだよね、とても彼女には見えないよね。10近くも年離れてるおばさんですから……。


 若い廣澤さんと会っている時も、私は特別若作りなんてしていなかった。最初は気になったけど結局若い子のファッションを真似しても、自分の顔と服がミスマッチになることは分かり切っていたし、彼が若いからといってそれに何もかも合わせるのも、大人の女としてどうなのかな、と思ったからだ。……まぁ、そりゃあ廣澤さんと並んだらお姉さんと弟感半端ないけど……。


 「えーっと……その」


 私が何と言うべきか言いよどんでいた時、


 「違う、由香さんは彼女!俺の彼女!」


 と大きく否定する廣澤さんの声がして、びっくりしてしまった。


 「……えっ……あ、そ、そうなんだ!すみません、彼女さん!」


 廣澤さんの言葉に一瞬固まったその男の子達は、慌てて取り繕うように、頭を下げて来た。


 「い、いえいえいえ、全然大丈夫です」


 頭を下げられ、私も慌てて手を横に振り、大丈夫だと伝える。年齢差にそう見えてしまうのは仕方ないし、素直な反応をした彼らを責める訳にもいかない。


 軽く自己紹介だけして、その同級生二人はそそくさと去って行った。その様子に廣澤さんは何だか不満そうに見えた。


 私はその様子に苦笑いしつつも、同級生にはっきりと否定してくれた彼の態度が嬉しかった。


 

 家に帰って夜ベッドに入る前、私は寝る前に飲んで下さいと処方された、精神の緊張を緩和させる漢方薬を開け、口の中に水で流しこんだ。


 「……何?薬?」


 先にベッドに入っていた廣澤さんは、私の様子が気になったのか起き出して来た。


 「あ、うん。寝る前に飲んで下さいって」


 私は水の入ったコップを食卓に置いて、廣澤さんの方に歩み寄った。


 「ふーん……」


 廣澤さんは鼻を鳴らし、けだるそうな仕草で自分のお腹を掻く仕草をした。そして私の腕を掴むと、少し強い力で私をベッドに引っ張って行き、座らせた。


 耳と髪の間に手を差し込まれ、そのまま顔を近付けて来る。唇が触れ合ったと思ったら、廣澤さんの体重を感じそのままベッドに倒される。彼の手が私のパジャマのボタンを一つずつ外すために下に下がって行く。


 ああ、今日はするんだな、と思った。


 一緒に過ごしていて、2日連続しなかったのは初めてだった。


 本当は、今朝の産婦人科での検査のことがまだ私の中で残っていて、あまりそういう気分にはなれなかったのだけど、一昨日に応じたのに結果的に拒否されたことの方が未だ引っかかっていて、ここで拒否したら今度は求めてもらえなくなるんじゃないかという恐れが、胸の中にもたげて来た。だから、私も彼の背に手を回した。


 ―――いつもより、ちょっと今日は粘着質なセックスだな、と思った。


 私が果てそうになると、焦らして来る。それを何度も繰り返され、体力的にも私はしんどくなって来る。


 それに、いつもよりキスの回数も多い気がする。


 「……由香さん、俺のこと好き?」


 私の中に入り込みながら、彼は少し上がった息で尋ねて来た。


 最中に、なんてことを聞いて来るんだろう、と私は思った。


 そんなの、好きに決まってる。私が好きじゃない相手と、こんなこと出来ると思ってるんだろうか。


 「……好きよ」


 状況が状況だけに、気恥ずかしさを覚えながら、私は仕方なく小さな声で答えた。


 「……もっかい言って」

 「……好き、です」

 「もっと」


 何度もせがまれ、彼の動作が激しくなるにつれて、私の理性も飛んで行く。最後は、「好き」を連呼しながら、彼にしがみ付いていた。


 いつの間にか、私は涙を流していた。それは彼が私の頬を拭う仕草で気付いた。心配そうに私を覗き込むその顔に、また泣けて来た。


 「……由香さん」

 「……好きだよ、哲也くん」


 私が涙まじりの掠れ声で言うと、廣澤さんはとても嬉しそうな顔をして、「うん」と頷き、私に顔を近付けて来た。優しい感触が唇に触れて来て、私は目を閉じた。


 どうしよう、怖い。……どんどん、引き込まれて、さらに好きになってしまう。この温もりを離したくなくなってしまう。いつか来る別れを、受け入れられなくなってしまう。


 あなたに、溺れてしまいそう……。


 ギュッと抱きしめられながら、私は彼の胸に顔を埋めて、また涙を流した。




 「あー、研修、だるいなぁ」


 事後の、けだるさの残るベッドの上で、私を抱きしめながら彼はぼやいた。


 「木曜からの本社研修のこと?でもすごいじゃん、普通は入社5年目以上の社員が対象なんだよ」


 私は答えながら、少し顔を上げて彼の顔を覗き込んだ。やることをやって満足した様子の彼の顔は、何だかいつもより幼く見える。


 彼が来週の木曜と金曜にかけて本社で受ける研修とは、フォローアップ研修と呼ばれ、入社して数年経った営業社員を対象にした昇格させるための研修だ。前年の売り上げ達成率を見て、本社人事部で対象者を選別し、将来の幹部候補としての育成を図るのだ。通常入社5年目から10年目までの社員が対象になることが多いが、入社3年目の廣澤さんが呼ばれるのは異例の速さだと言っていいだろう。もしかしたら、彼の教育係だった32歳で係長職に就いている松田さんと同じくらいのスピードで出世して行くかもしれない。


 「そうだけど……うーん、同期もいないし、研修のあとの飲み会で先輩達に飲まされるかと思ったら気が重いよ」

 「いつも率先して飲み会を盛り上げてる人が何言ってんの」

 

 彼の珍しい愚痴に、思わずくすくすと笑いが漏れた。


 「それは仕事モードだからキャラが違うんだよ」

 「じゃあ研修の時も仕事モードでいたらいいじゃない」

 「そりゃいるけど……飲み会が長引いたら由香さんに電話も出来ない」

 「そこ?」


 私はさらに声に出して笑ってしまう。何か、彼の甘える言動に、今日一日わだかまっていた不安が取り除かれて行く気がした。これはさっき飲んだ漢方の効果なのかな。


 「……そう言えば、由香さんと付き合って3ヶ月になるのにまだ一回も旅行とか行ってないね」

 「……そうだね」

 「今度、どっか行こうよ。温泉とか……俺車出すし」

 「右折で事故らないでね」

 「それ言わないでよ」


 彼は付き合い始める直前に取引先に行く途中、営業車で接触事故を起こしている。そのことを私がからかうと、憮然とした表情で口を尖らせた。


 「内風呂のある温泉でさ、二人でまったり温泉入って……」

 「いいねぇ」


 私のアパートも、廣澤さんのアパートも、単身者用の部屋なのでお風呂のバスタブは狭く、とても二人で入れるスペースはない。温泉で二人だけでゆっくり浸かるというのは、何とも贅沢な響きに聞こえた。


 「あ、でも俺一緒に入ったら興奮して、由香さん襲っちゃうかも」

 「……何言ってんの!」


 いつも襲ってるくせに、とは言わなかった。


 翌日が日曜日で休日ということもあって、私達は夜中遅くまでお喋りをしていた。


 

 ―――週が明けて月曜から水曜は、あっという間に過ぎて行った。


 「白石さん、今日確か午後休とってましたよね」

 

 私の横の席の畑山さんが、私に問い掛けて来た。


 「そうなの、ごめんね」

 「何か予定があるんですかー?」

 「えっと、ええ、まぁね。申し訳ないんだけど、今日の午後、急ぎのものだけ対応してもらえる?残りは明日自分でやるから」


 畑山さんに悪気はないのだろう。ただ最近は有休を申請するのに、申請理由を深く追及するのはコンプライアンスに反すると社内的にご法度になりつつある。私も個人の事情をペラペラ話す気はない。

 

 私が言葉を濁し、引継ぎを頼むと、彼女は任せて下さい!とにっこり笑った。


 自分の荷物をまとめて事務所を出る直前に、綺麗に整頓されている廣澤さんのデスクを無意識に見た。今日は彼は本社に泊りがけの研修に出掛けているから終日いない。私が半休を取っていることも彼は知らない。何となく後ろめたさがありつつ、彼に知られずに検査結果を聞きに行けることにホッとした。


 会社を出て、電車で土曜に行った産婦人科に向かう。予約は午後3時。今は1時過ぎだから十分間に合う。


 平日の産婦人科の待合室は、土曜日の午前中に比べて人がまばらで、がらんとしていた。


 予約をしていることもあり、待たされることはほとんどないだろう。いよいよ検査結果を聞かされるのだと思うと、いやが上にも緊張が高まって来る。


 「白石さん、どうぞ」


 予想通り、待合室のソファにかけて数分もしない内に名前が呼ばれた。




 「―――安心して下さい。腫瘍は良性です」


 その女性医師の言葉に、一気に力が抜けた気がした。


 「本当ですか」

 「ええ、今以上大きくならないようなら、特に命にかかわることもありませんし、今すぐ除去をする必要もありません。……ただ」

 「……た、ただ?」


 意味深なところで言葉を切られ、私の緊張は再び高まった。


 「今後、お子さんの予定はありますか?」

 「……え?」

 「今回の筋腫は、子宮の内側に出来ている腫瘍ですので、場合によっては不妊の原因にもなります。ご年齢のこともありますし、パートナーの方と話し合われて、お子さんを望まれるなら早い段階で取り組まれる方が良いかと思います」


 先生の言葉に、私はすぐに返事を出せなかった。


 不妊の原因、と聞いてとっくに諦めているはずの出産なのに、胸がざわざわするのを止められなかった。妊娠はする予定はないけど、現実的に妊娠の可能性が無くなって平気な訳じゃない。


 パートナーと話し合われて、と言われても、まだ付き合って3ヶ月の10も若い男の子をパートナーだなんて言っても良いのだろうか。


 困惑し押し黙った私の様子に、その女性医師は今すぐの妊娠を望まないようだと判断したらしい。


 「……今のところご予定がないようなら、生理痛の緩和のためにもピルを処方しましょうか」

 「……ピル?」

 「低用量ピルです。少量の女性ホルモンが含まれていて避妊以外にも、月経の時期の調整やPMSの軽減も期待出来ます。今すぐお子さんを望まれるということでなければ、ピルを飲むことで体調を安定させることをお勧めします。飲むのを止めればまた妊娠も可能ですので」


 ―――次の月経が始まったその日から、毎日なるべく同じ時間帯に1錠ずつ飲んで下さい。2日以上飲み忘れたら服用を止めて、また次の月経のタイミングから始めて下さい。


 私にピルを渡してくれた看護助手の女性は、そう飲み方を説明した。そしてその帰り道、下腹部に痛みを感じ駅のトイレに行くと、遅れていた生理が始まっていた。


 


 ―――金曜日の夜10時過ぎ、キャリーケースもスーツ姿なのもそのままに、研修先の本社から廣澤さんはまっすぐ私の家に帰って来た。


 「ただいま由香さん」


 そう言って玄関で出迎えた私を、ギュッと抱きしめた彼。


 「おかえりなさい」


 私の家に来て、当たり前に「ただいま」と言ってくれたことに私は嬉しさを禁じえず、くすぐったく思いながらギュッと抱きしめ返した。


 そう言えば、昨日の夜は電話くれると言ってたのに、結局連絡がなかった。やっぱり他の先輩社員に飲まされているのかな、と私もあえてメッセージは入れなかった。


 「俺がいない間、会社で何かあった?」

 「ううん、何もないよ?どうして?」


 昨日も今日も特に彼がいないことで、彼の担当の得意先から問い合わせがあることはなかったはずだ。要領のいい彼はちゃんと自分の出張の前に仕事のめどをつけていたし、引継ぎもばっちりだった。


 「由香さんには何かあった?」


 続けて質問して来た彼に、まるで心の中を見透かされたようでびっくりした。彼の表情は思いの外真面目で、適当に聞いているようには見えない。でもその意図は読めない。


 「そ、そうね……あ、昨日生理が始まったかな」

 「そうなんだー……そろそろかなって思ってたけど、残念」


 生理が始まって1週間禁欲生活になると知った彼は、大げさにがっかりした。その仕草に私は拍子抜けして、笑ってしまう。なんだ、特に深い意味は無かったのか。


 「たった1週間じゃん」

 「そうだけど……あーつらい」


 つらいと言いつつ何だかおどけてる様子に見える彼に、私はここ最近張り詰めている緊張の糸がほぐれて来る。やっぱり側に誰かがいてくれるっていいな、安心する。


 私が笑顔になったのに気を良くしたのか、彼はお土産だというマグロの佃煮を取り出して来た。全然お洒落なものじゃないけど、二人で晩酌をするのに丁度いいものを彼は選んだようだ。


 彼が荷物を奥に運び入れて、部屋着に着替え始めたのを見て、私は冷蔵庫から彼用のビールと作っておいた筑前煮を取り出した。筑前煮をレンジで温めて、枝豆とお土産の佃煮を一緒に食卓に出す。


 「ごはんもいる?」

 「欲しい」


 夜ごはん、途中で食べて来なかったのかなと思いながら、今出したもの以外でおかずになるものがないかもう一度冷蔵庫を探る。


 「そう言えばさ、昨日、高校の友達から連絡あって」

 「この前会った子?」

 「違う、もっと仲良かったやつ。今県外で働いてる」

 「うん、その子が?」


 私は冷蔵庫から、さらに豆腐を取り出し、刻み葱と鰹節をかけ冷ややっこにしてから出した。


 「なんか、付き合って半年の彼女との間に子供が出来たから、結婚することになったって」


 彼の向かいの椅子に腰掛けようとしていた私は、動きを止めた。子供、という単語に敏感に反応した自分が分かった。


 「そ、そうなんだー」


 お茶を取りに行く振りをして、私は座りかけていた食卓の椅子からもう一度キッチンに戻った。


 「なんか避妊失敗しちゃったんだって。まだ結婚とか全然考えてなかったからちょー焦ったって言ってたよ」

 「へ、へぇーそうなんだ」

 

 動揺している顔を見られるのも、こんな話題を口にしている彼の表情がどんな顔なのかも見たくない私は、戸棚を探す振りで背を向けたまま相槌を打つ。


 「でも出来婚ってなんかダサいよね」

 「……え?」


 その言葉に、思わず私は振り返った。

 

 「いや、だって避妊失敗するのもダサいけど、結婚のタイミングを自分で決められないのってすげぇダサいじゃん?」


 そう、何食わぬ顔をして言った彼に、私は言葉を返せなかった。


 心臓がいやに忙しく鼓動を打ち始める。


 彼の言葉には何か意味があるの?ただ友達の話をしているだけ?


 今は子供も結婚も考えてないよ、というアピール?それとも友達に同情してるの?逃げ道をなくして仕方なく結婚する友達を憐れんでるの?


 「……由香さん?」

 「あ、ご、ごめん。ボーっとしてた。そ、そうだね、でも今時珍しくないよね、出来婚って。私の元カレも出来婚だったよ」


 思わず動揺してポロリと零れた言葉に、彼の表情がみるみるうちに不機嫌になるのが分かった。


 「ふーん……前の、由香さんを裏切って元カノと出来婚したっていう男だよね」

 「そ、そう」

 「男なんてみんな同じだと思ってる?」

 「そ、そんなこと言ってないよ」


 急に突っかかって来た彼に、私は動揺を深め視線を逸らす。さらに機嫌を悪くした様子の彼は、その後無言でご飯とビールをかきこみ、お風呂に入った。どう見てもへそを曲げている彼の様子に、私は困惑するしかなかった。


 「……それ、何の薬?」


 お風呂から戻って来た彼に、丁度ピルを飲む瞬間を見られ、私は思わずピルケースをサッとバッグに戻した。


 「あ、い、痛み止め、生理の」

 「こんな時間に飲むの?前の薬と同じやつ?」

 「ち、違うやつだけど、そんな感じ」

 

 嘘は言ってない。詳しく説明していないだけで。


 私の返事にまた「ふーん……」と言った彼は、私の横を通り過ぎて、濡れた髪をタオルで乾かしながらベッドに向かった。


 「寝る前にドライヤーで乾かしてね」

 「分かってる」


 そう返事をしながらも、彼はそのままベッドに背中から倒れ込む。その少し反抗的な態度に、私も少しむっとなる。


 「ねぇ、ちょっと……」


 枕やふとんが濡れちゃう、と抗議しようとした私が彼の肩に手を掛けようとすると、それを拒否するかのように彼は寝返りを打ち、私に背を向けてしまった。


 『パートナーの方とも話し合われて』


 ふいに、昨日のお医者さんの言葉が蘇って来た。


 こんな、子供っぽいことをする相手をパートナーだなんて、とても言えない。


 友達の出来婚を笑ったりする彼に、子供のことなんて、相談出来るわけない。


 将来子供が出来にくくなるかもしれないし、もう年齢的にも早くないから、子供が欲しい、だなんて。


 結婚の覚悟も出来ていない相手に、私達の将来どうする?なんて話題に出せる訳がない。


 彼はとても若いのだ。性欲が制御出来ないくらい。私が元カレの名前を出しただけでへそを曲げるくらい。


 やっぱり彼との結婚とか、子供とか、考えられるはずない。私の病気のことも言えるはずない。若い彼には重すぎる。


 話したら最後、きっと怖気づいてドン引いて今みたいに背中を向けられてしまう。手を、離されてしまう。


 背中を向けたままの彼に、私はそれ以上何も声を掛けることが出来ず、仕方なく背中を向け合うように横になる。


 何の反応も返さず、言葉も発さない彼に、だんだん胸が苦しくなって来て、私は声を殺して泣いた。しかし、私が泣いていることにも彼は気付かないのか、研修の疲れからか、すぐに後ろから寝息が聞こえて来た。



 それから1週間は、何となく気まずい雰囲気が残っていて、職場でもついよそよそしい態度にお互いなってしまった。しかし私達の関係を知る人は誰もいないので、私達が親しく話していようが、事務的な会話のみに終始していようが、気に留める人は誰もいない。


 特に営業は月末忙しく、私の方が早くに仕事が終わるものだから、帰るタイミングが重なることもなかった。


 家で晩酌に合うおつまみを作って待っていても、何日も私の家の鍵が不意打ちで開けられることも無い。


 彼と付き合い始めて、隙を見るとすぐに私の家に上がり込んでいた彼が急に来なくなると、自分の自由な時間がぐっと増えたのに、気分は常に上の空で今期一番好きなドラマをリアルタイムで見ていても、内容に入り込めない。気が付くと、時計と玄関ドアを見比べてばかりいる。


 そして時計が0時を指して、ああ、今日も来ないんだな、と悟ると気持ちが沈んだまま一人で悠々と使えるベッドに向かうのだ。一人で寝るベッドは、窮屈さがない代わりに、温かさが足りない。


 どうして急に家に寄らなくなったのか、怖くて聞けなかった。今日は来る?というメッセージの一つも送れなかった。


 いつの間にか、追われる恋愛ではなく、追う恋愛になっていることが苦しく、彼に自分の気持ちを示せば示すほど膨らんでいく期待と不安が逃げ道を失って行くようで、怖かった。


 最初の2ヶ月みたいに、ただ彼との触れ合いを楽しんで、人生のボーナスステージなんだと実際の生活と切り離して気持ちを切り替えられたらいいのに。


 いつの間にか、オンとオフの境目が自分でも分からなくなって来ている。


 このままじゃ駄目だ。こんな風に精神的に不安定なままだと、自分でこの関係を壊してしまう。


 結婚とか、子供とか、いらないって考えてたんじゃない。ただ、少しでも長く彼と一緒にいたいんじゃないの?


 そうやって自問自答するのに、自分自身からすっきりした返事が返って来ない。


 結婚も、出産も諦めきれていない自分がいるのだ。


 廣澤さんに今すぐ側に来て、ギュッとして欲しい。「大丈夫だよ」って言って欲しい。


 ……ねぇ、私達、どこに向かってるのかな……?




 そんな風に不安定な気持ちを持て余しながら、何とか迎えた週末金曜の夜に、彼はいつも通り着替えや歯ブラシなど、泊まる準備を詰め込んだリュックを持ってやって来た。


 「あー今週疲れたー!もう連日9時10時になってほんとしんどかったー!!」


 私の部屋のソファにだらしなく寝そべって伸びをした、彼のその普段通りの自然な仕草に、私はあっけに取られてしまった。


 この一週間悶々と考えていた自分が馬鹿らしく思えてくるくらい、彼の態度は普通だった。


 私が作ったカレーを、カレー皿二杯分ぺろっと平らげてしまって、今は上機嫌でビールを飲みながらテレビのバラエティ番組を見て笑っている。


 私が横のソファに座ると、私の肩に自分の頭をのせて体重を預けて来る。「重たいよ」と言ってもお構いなしに全力で甘えて来る彼に、昨日までの私の悩みは何だったのかと思えて来る。


 本当に普通。至っていつも通り。


 この感じだと、ビールを飲んで眠くなった彼を私がお風呂に入るように急き立てて、上がって来て頭がすっきりした彼にベッドに連れ込まれる、といういつものパターンになりそうだ。


 私の生理が終わったことは彼も分かっているだろうし、彼のリュックの中にコンドームの箱がちゃっかりあったのも見えていたし。


 これが私達の日常なんだ、と思うと元のパターンに戻ることに安心する自分と、何だか消化しきれない自分がいるのも感じていた。


 このパターンをずっと続けていく先には、どんな未来が待っているんだろう……?


 案の定、ビールでご機嫌な彼は、私がお風呂から上がった時にはソファの上でうたた寝をしていて、気持ち良さそうに口を開けて寝息を立てていた。


 予想通りの彼に苦笑し、私は自分のバッグの中からピルケースを取り出した。


 なるべく毎日一定の時間に飲んで下さい、と言われている。飲み始めた最初の日が遅い夜ご飯の後に飲んだため、ずっとお風呂上りに飲む、というのが私のタイミングになっていた。


 彼が寝ている内に飲んでしまおう、と彼に声を掛ける前にキッチンに水を取りに行く。そしてキッチンから水の入ったグラスを取って戻って来て、いつの間にか起きだして来た彼が食卓の上に置いていたピルケースを寝ぼけ眼で見つめていたのを見て、思わず「わっ!」と声を出してしまった。


 「廣澤さん、起きたの?」

 「……うん……由香さん、これ、まだ飲んでるの?」

 

 まだ頭がすっきりしていないのか、質問なのか独り言なのか分からないぼんやりした口調で聞いて来た彼に、私は何となく変な緊張を感じながらも、平静を装って頷いた。


 「う、うん、そう」

 「生理終わったんじゃなかったっけ……?まだお腹痛いの?」

 「えっと、処方された期間分は飲んだ方がいいかなって」

 「……ふーん……こんな小さい薬で効くの?」


 そう呟きながら彼は大きくあくびをした後、自分のリュックから着替えを取り出した。そしてそのまま浴室に頭を掻きながら入って行った。


 私はその様子にドキドキしながら、彼が浴室に入ってシャワーの音が聞こえ始めると、ピルを一つ取り出し飲んだ後すぐにピルケースを再び自分のバッグの奥深くに仕舞い込んだ。


 飲んでいる薬がピルだということは、彼には言いたくなかった。


 もし彼がそのことを知って、私のことを避妊しなくても気軽にセックスの出来る相手だと扱うようになったら、という心配があったからだ。


 付き合いだして以来、彼女として私のことを彼は大事にしてくれてると思う。でも時々、10も年下の彼の若さ、幼さに戸惑うことがある。


 すぐにセックスしたがること、ちょっと注意すると拗ねるとこ、気軽に友達の結婚の話を私に振って来ること。


 彼はまだ自分のことで精一杯なのだ。私の年齢とか、体調のこととか、ましてや将来の不安とか背負いきれるはずない。私にも、年上としてのプライドがあることも。


 10も下の彼に自分が妊娠が難しくなる年齢だからとか、世間体的に結婚しているのが当たり前の年齢だからという理由で結婚して欲しいなんて言いたくない。でもだからといって、セックスだけのドライな関係を楽しみましょうなんて気にはとてもなれないし、付き合っている以上ちゃんと彼女として気遣って大切にして欲しい。絶対に欲望のはけ口として都合のいい相手だなんて扱われたくないのだ。だから私がピルを飲んでいて、妊娠する可能性が0の間でも、ちゃんと男の人の責任として彼に避妊して欲しい。


 自分でも面倒くさい性格だな、と思う。うじうじして一人で悩む癖は、年齢をどれだけ重ねても治らない。それでも、こんな私を好きだと言って欲しいのだ。


 また一人思い悩みながらベッドで横になっていると、お風呂から上がって来た彼が私の横に寝そべって来た。背中に腕を回され、引き寄せられる。


 軽く口にキスをされ、これがいつもの合図、というかのように彼の手が私のパジャマの中に入って来るのかと思ったら、そんなことはなかった。キスの後、あっさり私の体を離した彼は、少し距離を置くように寝返りを打ち、そのまま眠り始めた。


 え……何?いつものパターンじゃないの?私の生理終わってるってこと、分かってるよね?そんなに疲れてるの……?


 私自身すごいしたかった訳じゃない。期待してた訳じゃない。でも、いつもの行動パターンと違うというのは、胸をざわつかせるものだ。


 困惑して、彼の背中に自分の体を寄せてみる。でも、彼は背を向けたまま、私に振り向いてはくれなかった。


 一人分のベッドに二人で寝ていると、彼の体温が伝わって来て温かい。でも、今日は私の心まで温かくならない。


 付き合って3ヶ月が過ぎ、何かが変わり始めている私達の関係に、言い表せない不安が少しずつ私の中に降り積もって行く。


 私は自分の体を押し付けるように、彼のお腹に自分の腕を回して広い背中をギュッと抱きしめた。



 ―――翌朝、物音がして私は目が覚めた。


 寝ぼけ眼でスマートフォンの時刻を確認すると、まだ午前8:43。土曜日はいつも、彼は10時過ぎまで寝てるのにおかしいな、と思った。


 「廣澤さん?」


 私が起きだして、物音のするダイニングの方に行くと、食卓の上に私のバッグの中身が広げられていた。その食卓の前には、私の呼び掛けに固まっている彼がいた。


 「な、何してるの?」


 ギョッとして一瞬で目が覚めた私は、彼に詰め寄った。食卓には、私の鍵やらパスケース、コスメ、財布が散らばっている。その中には、昨日バッグの奥深くにしまったピルケースもあった。


 「……由香さん」


 私が起きだして来たことに彼自身驚いたのか、ばつが悪そうに私から目を逸らした。


 いくら何でも、この行動は異常だ。おかしすぎる。


 「何やってるの……まさか、私の財布からお金とろうなんてしてないわよね?」

 「まさか!そんなことしないよ……!」

 「じゃあ、何だって私のバッグの中身を探ったりしてるの!?見たいものがあるなら、直接言ってくれたらそれで済むのに、こんなこそこそ……!」

 

 彼への不信感が一気に募って行って、語気が荒くなって行く。彼の意味不明な行動に、頭がパニックになっていた。


 「ごめん……!ほんとに違う、金なんてとろうとしてない!でも、由香さんが飲んでいる薬がどうしても気になって……!」

 「薬……!?」


 私に言い募られ、やけっぱちのように言った彼がピルケースを指さした。その瞬間、私は胸の奥を見透かされたようでドクン、と鼓動が大きく跳ねた。


 「……これ、ピルだよね……なんでこんなの飲んでるの?俺、いつもちゃんと避妊してるじゃん」

 「……そ、それは、病院で処方されたから……」

 「前に一緒に病院に行った時はそんなこと言ってなかったよね。いつから飲んでるの?俺と付き合い始めた最初の頃から?なんで教えてくれなかったの?」


 最初に問い詰めていたのは私の方だったのに、何故か今は私が彼に追い詰められているような気になって来る。


 「そんなに俺、信用なかった……?それとも、俺との子供が出来るのそんなに嫌だったの?」

 「……え?」

 「絶対妊娠しないから俺とのセックス拒まなかったの?体調悪い時でも?」


 唐突に突き付けられた、予想もしない質問に私は言葉を失った。私が絶句したのを見て、彼は苛々と不貞腐れたように椅子に座った。


 「由香さんが体調悪い時でも、無理して応じてくれてたの、俺分かってたよ……。ほんとはもっと、由香さんの体調気遣ってあげたいのに、一緒にいると……好きだからやっぱり由香さんに触りたくて、止められなくて。もっと俺のこと見て欲しくて、むきになってた」

 

 恥じ入るように彼は顔を俯けて、声を震わせながら言った。


 「……俺、由香さんがどんな時でも俺の言いなりになるのが、不安だったよ。全部、流されてるみたいで、本気にされてないみたいで……。元々俺が一方的に由香さんを好きになって、半ば強引に付き合うことOKさせたようなもんだったから、どれだけ由香さんが俺のこと好きでいてくれるのかも分からないし、何か悩んでそうな時も何も言ってくれないし。……やっぱ俺が10も年下で、ガキだから相手にされてないのかなって」

 

 そうやって、悔しそうに顔を歪ませて、私から視線を逸らしながら話す彼は何だか泣きそうだった。思いもよらない彼の告白に私は呆然と立ち尽くしていた。


 「ねぇ、由香さん、俺は由香さんの彼氏だよね?そんなに俺頼りない?悩みや愚痴の一つも言えないくらい?俺がわがままを言うから仕方なしに付き合ってくれてるの?」

 「……そんな、違うよ……」

 「じゃあなんでいつも、俺のこと廣澤さんっていつまでも名字呼びするの?二人きりの時でも、絶対に名前で呼ばないじゃん。会社でうっかり出るのが嫌だから?俺はバレてもいいって思ってんのに、由香さんはまるでいつも別れた後のことを気にしてるみたいだ」


 それは事実だった。私は二人きりの時でも、彼のことを名字で呼び続けている。癖にならないように。別れた後も、ただの同僚にきれいに戻れるように、自分の気持ちにずっと予防線を張っていた。自然にしているつもりだったけどそれを、彼に勘づかれていたんだ。


 私が自分が傷つかないために彼と一線を引いていたことが、逆に彼を傷つけていたんだと今初めて知った。


 私のバッグを荒らすような行為は決して褒められたことじゃないけど、彼だって不安だったんだなということは、まるで迷子の子供のような表情から理解出来た。


 「ごめん……」

 「それは、何のごめん?俺の気持ちに応えられなくてごめんのごめん?嫌々付き合ってごめんのごめん?」

 

 椅子から立ち上がった彼が、私の方に大股で歩み寄って来て、私の両肩をぐっと掴んだ。その仕草に、思わず体がすくんだ。彼の剣幕に怖くなって、涙が溢れて来た。


 「違う……違うよ……」

 「どう違うの?」

 

 泣き出した私を責め立てる彼の目も潤んで見えた。堪え切れなくなった私は、それ以上立っていられず、床に膝を着いた。その私を彼は大きな体で拘束するように強く抱きしめた。その強い力にもがくように、私は声を絞り出した。


 「……逆なの。付き合い始めて、どんどん哲也くんに惹かれて行く自分がいて、自分の気持ちに歯止めが利かなくなって行くのが怖くて……素直な気持ちを伝えられなかった。セックスを拒まなかったのも、私も哲也くんが好きだから、拒んだら次は求めてもらえなくなるかもって不安だったの。いつも自分で自分の気持ちにブレーキかけてたの。これ以上は踏み込んじゃ駄目、のめりこんじゃ駄目って。だってこれ以上好きになったら、欲張ってその先の未来まで望んでしまいそうで……」

 「……未来?」


私は観念して頷いた。


 「……結婚とか、妊娠とか諦めてたはずだったのに、ただ一緒に楽しく過ごせればよかったのに、哲也くんを好きになればなるほど、膨らんでいく期待に応えて欲しくなって来る自分が怖かったの。哲也くんには哲也くんのペースがあるのに、私の都合だけじゃいけないのに、自分の年齢のこととか今更気になって来て、不安でどうしようもなくて……!」

 「それなら、なんでそれをそのまま言ってくれなかったの?俺、そんな大事なこと、流したりしないよ」

 「だって、友達が出来婚するって話をして来た時も、タイミングを自分で決められないなんてダサいって言ってたじゃない!」


 堪らなくなって、ヒステリー気味に声をひっくり返しながら叫んだ私に、哲也くんは慌てふためいた。


 「ご、ごめん……その時は、そんなに深く考えてなかった。まだ、俺達も付き合い始めたばかりだし、由香さんも結婚のタイミングを考えるところまでは行ってないだろうなって思い込んでて……!」

 「私の年齢で、結婚を意識せずに付き合うと思う!?考えないようにはしてたけど、最初から頭にあったし!!」


 もう私の癇癪玉は完全に弾け飛んでいて、自分でも言っていることが支離滅裂で滅茶苦茶だなって思った。


 「……じゃ、じゃあ、なんでピルなんて飲んでるの?俺との結婚を考えてたなら、子供が出来てもいいはずだよね?」

 「……飲み始めたのは……本当につい最近……先週からなの。木曜日に、産婦人科で検査結果を聞いて……私、子宮に良性の腫瘍があるみたい。……生理の前兆痛が年々酷くなって来ているのも、それが原因かもしれないって……。まだすぐ子供を作る予定が無いのなら、ピルで痛みを軽減することが出来ますよって処方されたの。……でも、言いたくなかったの……ピル飲んでることも……子宮筋腫があることも。だって……20代の哲也くんにはこんな話重すぎるじゃない」


 しゃくり上げながら話す私を宥めるように恐々と、哲也くんは私の背中を撫でた。


 「重くないよ、その時に全部話して欲しかったよ。……他には先生になんて言われたの?」

 「……っく……し、子宮筋腫が不妊の原因になることもあるから……年齢のことも考えれば……子供が欲しければすぐに取り組んだ方がいいって……」


 声を詰まらせながら、胸の中の息を全部吐き出すように、私は告白した。


 哲也くんのごくりと息を呑む様子が、俯いて顔を見ていなくても伝わって来た。



 ―――しばし重苦しい沈黙が流れ、哲也くんの大きく息を吐き出す音が聞こえた。


 

 「…………由香さんは、俺との子供、欲しい……?」


 ぽつりと小さな声で問われた言葉に、私は動きを止めた。


 正直に答えていいのか、分からなかった。躊躇していると、哲也くんの手のひらが私の濡れている頬に添えられ、顔を上げるように促した。


 ―――これ以上、自分の気持に嘘はつけなかった。



 「……ひっく……産めるものなら、産みたいぃ……っ」


 

 まるで、胸の奥に溜まっていた重い空気を吐き出すかのように、私は声を絞り出した。もう顔は涙でぐちゃぐちゃだった。


 「……そっか……」


 ため息交じりにそう言って、哲也くんはまた私をギュッと抱きしめた。私も無意識に彼の服の袖をギュッと固く握って、震える声でもう一度絞り出した。



 「……哲也くん、は?」



 哲也くんが鋭く息を呑む音が聞こえて、一瞬、間が空いた。



 「俺は…………正直、結婚も、子供も、今じゃないと思ってた……」



 ―――重苦しい息と共に正直に告げられた彼の固い声に、その瞬間、私は目の前が真っ暗になるような、真っ逆さまに落ちて行くような気がした。


 「……そ……っかぁ……そうだよね……まだ、早い、よね……」


 やっとそれだけ言うと、私は無理に笑おうとした。そして急速に自分の心がしぼんでいき、彼に対して自分の心を守るバリアを再び張り始めている自分に気付いていた。


 ……やっぱりそうだ。これが10の年齢差の結論だ。意を決して、自分の本音を曝け出してみたけれど、これが現実。20代の彼には、結婚も、子供のことも、まだまだ具体的に考えられることじゃないんだ。


 最初から、分かってたことじゃない。それを承知の上で、付き合ったんでしょ。馬鹿みたい……何を期待してたんだろう。


 「……うん、大丈夫。そう思ってた、私もまだ早いかなって……まだ、付き合って3ヶ月しか経ってないもんね。ちょっと……早すぎだよね」

 

 自分で自分に言い聞かせるように、宥めるように言いながら私は、彼から体を離した。どうにか笑おうとしたけど、それは出来なくて、代わりに顔を哲也くんから見えないように背けた。急速に冷えていく自分の気持ちを自覚しながら、努めて平静を装おうとしていた。ぐちゃぐちゃの顔を今は彼に見られたくない。トイレか、洗面所にでも行って少し気分を落ち着かせよう。さっきから思考が混乱し過ぎて、頭がキーンとさえなって来た。



 顔を俯かせて、彼から見えないようにしながら私は立ち上がろうとした。早く、早く一旦一人になりたい。



 ―――でも、出来なかった。彼に背中からまた抱きしめられていたからだ。



 「……由香さん、結婚して、ちゃんと籍入れて、子供作ろう」



 彼は小さな声でぽつりと呟いた。私は、彼が何を言ったのか、よく聞き取れなかった。いや、正確には頭がその言葉の意味を認識出来なかった。

 

 

 「………えっ」



 反射的に問い返した私に、彼は腕にさらに力を込めた。



 「……結婚しよう、結婚して、由香さん」


 

 私は呆然として、顔を思い切り上げて上から覗き込んでいる彼の表情を見つめた。その顔は決意に満ちたような、真剣そのものだった。



 「……えっ……なん、で……?だって、哲也くんのタイミングは今じゃないんでしょ?」


 

 震える声で、問い返した私に、彼は苦しそうに表情を歪めた。


 「……まだ早いかなって思ってたけど、俺だって由香さんの年齢を考えたら、真剣に考えなきゃって最初から思ってたよ。俺、告白した時に言ったよね、絶対大事にするって。……一人で不安にさせて、ほんとごめん。正直戸惑ってるし、実際ビビってる。俺……こんなにガキだし、余裕なさ過ぎて由香さんを疑って、かばんを勝手に見るくらい小さな男だけど、でも、由香さんを大事にして行きたいって気持ちだけは本当だから……由香さんを一生守って行きたいって思ってるから、決断しなきゃいけないのが今なら……それが俺のタイミングだよ」


 私の目を真っ直ぐ見ながら、ひどく神妙な様子で一つ一つ言葉を確認するように紡ぐ彼に、私は思考を停止させる。


 ……何?……何が起こってるの?


 私は背中から抱きしめられている彼の腕を一度外し、彼に向き直るように姿勢を変えた。今、どうしても聞かなきゃいけないことがあると思った。


 「……て、哲也くんは、本当にそれでいいの?今決めちゃっていいの?だって、だってさ……私はもうすぐ35歳の高齢出産の年齢だし、筋腫だって持ってる。結婚しても、子供、出来ないかもしれないんだよ?今でなくてもいつかは子供欲しいって思ってるんだよね?もし私が子供妊娠出来なかったら、哲也くんは子供を持てないことになるんだよ?結婚して数年経ってから、子供が出来ないから離婚して下さいなんて言われたら、私耐えられないよ」


 私は、最初に浮かんで来た疑問を、隠すことなく正面から彼にぶつけた。彼が自分が言っていることがどれだけ重いことなのか、本当に理解出来ているのか、心配だった。なんとなく雰囲気に呑まれて、流されて言ってるんじゃないかという不信感が、拭いきれなかった。


 

 「……そんなこと、言わないよ。俺が、由香さんを失いたくないんだよ。由香さんとの子供が出来たら、絶対嬉しいと思う。でも、それ以上に、俺のこの先の人生に由香さんにずっと側にいて欲しいんだよ」



 照れ臭そうに、泣きそうに、彼は言った。彼の顔は見たことがないくらい、真っ赤だった。


 

 「……俺と結婚してよ、由香さん。指輪も、おしゃれなレストランも今日は用意してないけど……ちゃんと大事にするから」



 涙声でそう言って、彼は私の両手をぎゅっと自分の手で握った。―――その瞬間、私の涙腺は完全に崩壊した。


 

 「……そんなのいいっ……指輪も、レストランもなくていい……!哲也くんがいてくれれば、それでいい……!!」



 私は不明瞭な声で叫んで、大声で泣いた。彼の胸にしがみ付いて、それこそ子供みたいにわんわん大泣きした。


 嬉しくて―――嬉しすぎて、現実に起こってることか信じられなくて、顔ももう文字通りぐちゃぐちゃになって泣いた。そこには年上の見栄も、プライドも何もなかった。


 そんな私を、彼も少し涙ぐんで鼻を赤くしながら、ギュッと強く抱きしめ、あやすように背中を何度も撫でてくれた。


 もう、どっちが年上で、年下なのか、結婚を申し込んでいるのか、申し込まれているのかも分からなかった。込み上げて来る感情が強すぎて、ただひたすら、言葉には言い表せない感動に打ち震えていた。



 「……由香さん、俺のこと好き?」


 私の嗚咽が少し治まった時点で、哲也くんはそっと私の耳にささやいた。私は哲也くんの胸に顔を埋めたま、何度も頷いた。


 「……好き……すごく好き」


 彼が嬉しそうに息を吸うのが聞こえた。


 「俺は……愛してるよ」


 


 


 ―――その後、何とか大泣きで腫れあがった顔を化粧で誤魔化し、彼の実家にばたばたと挨拶に行った。何もその日の内に行く必要はないんじゃないかと私も思ったんだけど、彼が籍を入れるなら3週間後に迫っていた私の誕生日に入れたいと、急に言い出したのだ。良い大人だけど流石に両家の両親に報告もせず籍を入れる訳に行かないと、駄目元で彼が彼の両親に連絡を入れると、その日二人とも夕方には在宅だから早速来なさいと言われたのだ。年齢のこともあり、急な訪問になったこともあり、何を言われるかとヒヤヒヤしながら向かった私だったが、予想よりもはるかに温かく将来の義両親は私を迎え入れてくれた。結婚についても、急な決定だったにも関わらず「熱愛なのねぇ」と拍子抜けするくらいあっさりと笑って了承してくれた。



 その翌日、今度は新幹線と在来線を乗り継いで私の両親のところにも挨拶に行った。自分の両親に比べて、当然彼はカチコチに緊張していたけれど、とっくに娘の結婚を諦めていた私の両親は彼が私より10も若いことに驚きつつも、彼に拝み倒さんばかりに感謝をして飛び上がって喜んでいた。今まで口には出さなかったけれど、どれだけ一人娘の私のことを二人が心配してくれていたのか思い知って、またそこで私は泣いてしまった。



 そして週明け、いつもよりも早く出社した私達は、朝礼が始まる前に課長の席の前に二人で並び、結婚の報告をした。社内に私達の関係を知る人も、勘繰る人すらいなかったものだから相当驚かれた。課長を前にして胸を張って堂々と報告をしてくれた彼が頼もしく、正直惚れ直してしまった。早速その日の朝礼で、私達の結婚が発表され、ほぼ全員が課長と同じように仰天しつつ、温かいお祝いの言葉と拍手で迎えられた。



 

 ―――本当に、人生って何が起こるか分からない。


 白石 由香、34歳独身事務職、地方商社勤務。


 35歳の誕生日を機に、廣澤 由香、既婚事務職、地方商社勤務になりました。


今作でこの二人のストーリーは一区切りと考えています。結婚した二人に実際に子供が出来るのかどうか、ご想像にお任せする方がリアリティがあって良いのかなぁ、と思います。最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。

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