前編
『私が恋をしない言い訳』『私が新しい恋にあと一歩踏み出せない言い訳』の続編になります。前作をお読み頂いた方が、話の流れが分かりやすいかと思います、宜しければお願い致します。
※7/2一部加筆修正しました。
―――人生って、何が起こるか分からない。
1年以上も付き合っていた彼氏が、別れたと言っていた元カノと実はずっと続いていたり、知らぬ間にその相手と子供が出来て籍を入れていたり。
もう恋愛はこりごり、お一人様として身の丈に合った慎ましやかな幸せを大事にして行こうと思っていたら、職場の10近い年下の男の子に好意を持たれていたり。
白石 由香、34歳独身事務職、地方商社勤務。
このたび、9年ぶりに彼氏が出来ました。
私の彼氏、廣澤 哲也25歳は、同じ会社同じ部署の後輩でもある。
前の恋から9年のブランクがあり、だいぶ年下、その上社内恋愛。彼から予想外の愛の告白を受けた時は随分思い悩み、答えを出すのに1ヶ月もかかってしまった。
そもそも私が勤める建築資材卸売りの地方商社に、彼が新入社員として入って来た当時から知っていたと言っても、親しくなったのはごく最近のこと。彼の気持ちの本気度が分からず、もしただの親近感の延長とか、興味本位から言ってくれたのなら、今更終わりの見える実りのない恋なんてしたくない、というのが私の偽らざる本音だった。
でも彼は私が思うよりもはるかに真面目な気持ちで、結構前から私を好きでいてくれたらしい。私が告白の返事を保留しさんざん待たせたにも関わらず、誠実な姿勢で接し続けてくれた彼の言葉は、ずっと恋愛に憶病になってた私の頑なな心を解きほぐしてくれた。
最終的に付き合う最後の一押しになった出来事が、営業社員である彼の外回り中の営業車での事故ということもあり、はじめはどうなることやらと思ったけれど、付き合い始めて2ヶ月と少し、私達は思ったより順調に付き合いを続けている。
カップルになって初めてのイベント、クリスマスはお互いに年末に向けて業務に追われ残業続きで、結局家に帰ってから買って帰ったフライドチキンとケーキを二人で食べただけになってしまった。でも私にとって誰かとクリスマスを一緒に過ごすこと自体10年ぶりだったから、それだけでも十分嬉しかった。
クリスマス明けにはすぐに仕事納めになり、年末年始休暇に入った。彼はここが地元だけど私の実家はここから新幹線と在来線を二つ乗り継いで2時間半かかる距離。両親には前々から休暇に入ったらすぐに実家に帰省すると伝えていたため、27日に仕事納めで翌28日には実家に向かった。
……え?彼を両親に紹介しないのかって?
まだ付き合い始めたばかりだし、彼が凄く若いこともあって私達の付き合いのことは友達の絵里子以外には誰にも言っていないし、今のところ言うつもりもない。だって30代に入ってからずっと私はもう恋愛しないと思う、結婚しないと思う、って周囲に言い続けて来て、親も「まぁ、今の時代それもいいかもね」と受け入れてくれていたのだ。久々に彼氏が出来たなんていっても、どれくらい私達の関係が続くかも分からないし、未来のことは何も見えないのに、変に期待を持たせてぬか喜びをさせたくない。
私達は真面目なお付き合いをしているけど、決して結婚前提と言う訳ではないのだ。
前途多望の彼に自分の年齢を盾にして、結婚を迫るなんてことはしたくないし、元々結婚も出産も諦めていた私だ、彼との付き合いはそういうことから切り離して、人生のボーナスステージのようなものだと思うようにしている。今はただ、少しでも長く彼と一緒に過ごして行けたらそれだけで幸せだ。
「―――由香、お母さんお雑煮を器に盛るから、おせちの残り冷蔵庫から出して来て頂戴」
「はーい」
母に言われ私はキッチンに入り、冷蔵庫から3段のお重を取り出し、食卓に運んでいく。食卓には新聞を広げていた父が、料理が運ばれて来たのを見て新聞を畳んだ。
今日は1月2日。
普段よりも遅めに起きだして来た私に合わせて、母がお雑煮を作り、昨日食べたおせちの残りと一緒に朝食と昼食を兼ねるごはんを親子3人で食べるところだ。
会社ではそれなりの勤続年数が経ち、いわゆるお局さん的な立ち位置として上司からも後輩達からもしっかり者として認識されている私だけど、実家に帰るとただのいち娘としての感覚に逆戻りしてしまう。料理や掃除を率先して手伝わないといけないと思いつつも、ついつい母が家事をしてくれるのに甘えてしまうのだ。
母お手製のお雑煮とおせちの残りが食卓に並び、母も席についたところで、3人で「いただきます」と食べ始める。薄口しょうゆとだしの薫るつゆを一口すすると、母の味だ、とほっとする。
その時、リビングからつけていたテレビのワイドショーの音声がダイニングにも流れ込んで来た。
『朝ドラ女優、共演俳優と電撃元日婚』
『実力派シンガー、売り出し中アイドルと熱愛』
『お茶の間人気お笑いタレント、ついに長年の恋人とゴール』
新年早々そんなおめでたい話題がぞくぞくとテレビに映し出され、大々的に取り上げられる。
「あらやだ、あの俳優さん、ドラマで夫婦役やってたけど、実際に結婚したのね」
母がテレビを見ながら、手を頬にあて呟いた。何気なく母が反応した芸能人の結婚話に、料理に手をつけようとしていた私の手が止まる。
「あの俳優、去年別の女優と噂になってなかったか?」
「そうねぇ……しかも結構年齢差あるのね、6歳差ですって!」
父と母が、テレビの芸能ニュースに感想を言い合う間、何とも気まずい思いが私の中を渦巻く。過去の私の手痛い失恋のことも、30代に入ってからの私のスタンスも承知している二人は、直接私に「誰か良い人いないの?」なんて聞いて来ることはもうない。それでも二人が赤の他人のおめでたいニュースに反応するたびに、私の中で何とも言えない申し訳なさと、やるせなさが広がるのだ。
私は一人娘なので、私が結婚もせず子供も産まないということは、両親は孫を一人も持てないことになる。
昔から婿を取って欲しいとか、墓を継いでいって欲しいとか、保守的なことは一切言って来なかった二人だから、私が結婚を諦めたと言った時もそれを受け入れてくれたし、こんな年齢になっても独り身のままの私を少し離れた距離から温かく見守ってくれている。
でも本当は、娘の花嫁姿も、孫の一人も見たかったんだろうな……。親不孝な娘で、本当にごめんね。
遅めの朝食後、両親と3人で近所の氏神様のところに毎年恒例の初詣に行く。まだ20代の頃はその後にさらに大きな神社にお参りに行くか、地元の大型ショッピングモールや百貨店に行って初売りセールの買い物をしていたけれど、最近は人込みに揉まれることを考えるとうんざりしてしまい、もっぱらだらけた寝正月といった感じになってしまう。
今年も例にもれず、氏神様のところから真っ直ぐ実家に帰り、両親と一緒にレンタルビデオ店で借りて来た映画でも見ようかな、と思っていた矢先だった。
実家の玄関に入り、バッグの中身を取り出そうとして、自分のスマートフォンの着信ランプが点滅していることに気付いた。
ディスプレイを見てみると、ラインメッセージが入っていた。
『甥っ子の風邪がうつったようです』
そのメッセージのすぐ後には、マスクをして今にもくしゃみをしそうな顔を浮かべた、私の年下の恋人、廣澤さんの自撮り写真が一緒に貼られていた。
一昨日の夜から昨日にかけて、新年に切り替わる瞬間に電話で「あけましておめでとうございます」を言って以来の連絡だった。その時はいつもと変わらない様子だったのに。
たしか、大みそかと元日だけ実家に泊まるって言ってた。お兄さん家族とお姉さん夫婦が来るから自分の寝泊まりするスペースがないからって。お兄さん夫婦にはもう、5歳と3歳の甥っ子と姪っ子がいるとも言ってたな。だから風邪はその子達から貰ったのかもしれない。写真の背景はいつもの彼の部屋の壁、ということはもう自分のアパートに戻っているのかな。
『風邪大丈夫?どんな症状があるの?熱は?』
私が、昔使っていた当時のまま残されている自室に入り、メッセージを返すとすぐに既読になる。そして待つこと十数分、返信が来た。
『体がだるくて、背骨が痛いです。あと鼻水が止まらない。熱はこんな感じ』
メッセージに添えられた、体温計の画像には38度2分の表示。
「38度2分……けっこう高いな。インフルエンザじゃないといいけど……」
少なくとも病院は4日以降にならないとやっていないだろうし、最近は24時間営業のスーパーもコンビニもあるとはいえ、一人暮らしの彼には大変だろう。かと言って実家に戻ったらいいかと言えば、小さい子がいるなら体を十分休められないかもしれない。5日には早速仕事始めだし……。
……食欲はあるのかな、水分ちゃんととれているかな。吐き気とかもあるのかしら。
考えている内にだんだん心配が増して来た。
時計を見ると、午後2時27分。今から、帰り支度をして在来線を乗り継いで、新幹線に乗ったとして、着くのは6時か7時くらい……。
両親には明日の午後に帰る、って言ってるし、今日の夕ご飯は母の得意料理で私の好物のナスの田楽に、メバルの煮つけにするってお母さん言ってたな……。
私は魔法使いじゃないし、今日帰っても、明日帰っても、廣澤さんの風邪の症状が私の看病で劇的に良くなるなんてことはない。
それに「急に帰る」なんて言ったら、二人とも変に思うだろうし、寂しがるだろう……そんなに離れてる距離ではないとは言え、盆と正月くらいしか帰省しない一人娘だし。
……あああ、でも……。
数秒迷った末、弾かれたように私は自室を飛び出し、リビングのソファで寛いでいる両親の目の前に走り寄った。
「……お父さんお母さん、ごめんなさい!どうしても大事な用事が出来たから、今から帰るね!!」
30分で荷物を速攻でまとめて、驚きつつも車を出してくれたお父さんに駅まで送ってもらい、その駅の売店で申し訳程度の会社用お土産を買い、在来線に乗り込む。普段は特急列車なんて使わないのに、今日はあえて特急券を買い、少しでも早く辿り着けるように、電車内でも一番早い新幹線の時刻を調べて、乗り継ぎ駅の駅構内をキャリーケースをガタガタ音をさせながら駆け抜ける。ああ、ヒールなんて履くんじゃなかった、なんで機動性重視の格好しなかったんだろう。いくら廣澤さんに会いに行くって言っても、看病に行くんだからおしゃれ着なんて着ている場合じゃないのに。
何とか、最短の乗り継ぎ新幹線に乗り込み、自由席に座りやっと人心地つく。
体温計の画像をもらった後、何か食べるものはあるのかと尋ねるメッセージを送ったが、寝てしまっているのか既読にはなったけど返信はない。
向こうに着いたらとりあえず、ドラッグストアに寄って、市販の風邪薬と栄養ドリンクを買って、水分補給用のスポーツドリンクも買わなきゃ、あ、でもインフルエンザなら風邪薬じゃ駄目だよね。また廣澤さんのアパートに着いたら熱を計らせてもらおう。それと食欲がどれだけあるか分からないから、とりあえずおうどんと、卵と、ねぎと、すだちを買って、消化にいいもの作ってあげなきゃ……。
新幹線の中で、一人ぶつぶつ言いながら、私は一分一秒でも早く目的地に辿り着いてくれないかな、と祈っていた。
トンネルの合間の外の景色は、トンネルを抜ける度に夕暮れの赤から薄暗い藍に変わって行っていた。
―――重くて運びづらいキャリーケースを抱えながらも、何とか予定していたものを全部買い込み、私は約三時間かけて廣澤さんのアパートに辿り着いた。
たくさんの荷物を抱えつつ、何とか階段を昇り、彼の部屋の前まで進む。
……ピンポーン……
一度呼び鈴を押してみる。しかし、反応はない。
……寝てるのかな?そもそも、体調が悪いのに、呼び鈴になんて反応出来ないかも知れない。
私はほんの少し逡巡して、自分のハンドバッグの中を探った。
取り出したのは合鍵だ。付き合い始めて2回目に私の家に彼が来た時に、彼が私の部屋の合鍵が欲しいと言って来たのだ。そしてちゃっかり用意していた自分の部屋の合鍵を―――その時はまだ一度も行ったことがなかったのに―――強引に押し付けて来たのだ。今のところ、使う機会はなかったけれど……。
「……ごめんなさい、お邪魔します」
一言、誰にでもなく詫びて、私は合鍵を鍵穴に差し入れた。
「……廣澤さーん?」
恐る恐る開けた玄関ドアから見えた室内は、一つも明かりが灯っておらず、すでに日が暮れたために中の様子が全然窺い知れない。外の明かりが入り、かろうじて見える玄関を見回すと、営業用の革靴があるだけで、彼が普段使いにしているスニーカーすらなかった。
……いない?
物音もせず、人の気配もしない室内に少し胸がざわつく。え、なんでいないの?体調が悪くて寝ているんじゃなかったの?
彼女がいない間に、彼氏が別の女の子に会っていて、突然押しかけて来た彼女と浮気相手が鉢合わせる。現実でも、ドラマでもよくあるパターンだ。
嫌な想像が頭を駆け巡り、しかも本人に連絡をとっているわけでもなく無断で勝手にやって来ている自分にハタと気付いた。渡されているとは言え、合鍵で本人が知らない時に自宅に入るなんて……。
……色々早まったのだろうか、一人で空回りして、何をしているのだろう。
急に冷静になり、私はこのまま中には入らず、廣澤さんにも帰って来ていることは知らせずに、自分のアパートに戻ろう、そう考え始めていた時―――。
「……由香さん?」
という、若い男の子の声が背後からして、私は飛び上がるくらい驚いた。
「ひ、廣澤さん……!」
私が振り返ると、ダウンジャケットにマスクをして、コンビニのビニール袋を下げた私の彼氏が立っていた。
「由香さん、帰って来たの?」
鼻声で話しにくそうにしながら、廣澤さんは近寄って来た。私の持っている買い物袋や、キャリーケースを見てから私の顔を覗き込んで来た。
「俺のために?」
「……え、と、……そう、風邪ひいたって聞いたから、消化のいいもの食べたほうが良いと思って……」
本人に部屋に忍び込もうとしていた場面を見られた上に、勝手に彼の行動を怪しんでいた私は恥ずかしさと後ろめたさを覚え、もごもごと言い訳めいたことを言った。もう既に自分の顔が赤くなってきているのが分かる。
廣澤さんは、私の様子に何かいたずらっ子のような目をして私の手から買い物袋を取り上げ、そのまま私を抱きしめた。
「すっげー嬉しい……ありがとう由香さん」
そう言って私をぎゅっと抱きしめた彼の体温は、やっぱりいつもよりも高かった。
「入って」と促され、中に入り電気が点けられた部屋を見ると、タオルやらカットソーやら靴下が床に雑に脱ぎ捨てられ、スポーツドリンクや空の水のペットボトルが散乱していた。前に来た時よりだいぶ散らかっている。それに、昼に食べたのかカップラーメンの容器が少し中身が入った状態でリビングテーブルに残っていた。
部屋に入った途端、廣澤さんの匂いに包まれる。が、嫌な気持ちはまったくなく、むしろ最近馴染んで来たその匂いが何とも言えない安心感を与えてくれる。
私の荷物を部屋の端まで持って行ってくれた廣澤さんは、そのままベッドに腰掛ける。そして私に手招きをする。
遠慮がちに横に腰掛けると、当たり前のようにそのまま私をベッドに押し倒し、甘えるように私の胸に頭を押し付けて来た。ぐりぐりと小さな子供のように頭を押し付けられ、くすぐったくて笑いそうになる。いつもより体温が高いせいか、汗の匂いと廣澤さん自身の匂いが強くなって、より存在感を増す。
私の胸から頭を上げた彼が、今度は私の頭の後ろに手を差し入れ、自分の方に引き寄せる。マスクをとろうとした彼の手を、私は押し止めた。
「……キスは駄目。風邪うつったら困るもの。……えっちも今日はしない」
私が言うと、彼は「えー……」と心底残念そうな声を上げ、恨めし気な目で私を見ながら、私のすぐ横に倒れ込んだ。
「……あー生殺しだ。つらい……」
そう唸った彼は、私の手を探りあてるように握りしめ、首だけを私に向けた。
「……でも来てくれて、マジで嬉しい」
そう言われて、私も胸がいっぱいになった。
素直なとこ、可愛いとこ、甘えんぼなとこ、年下の彼氏を持つ醍醐味を噛みしめながら、なおも往生際悪く私の腰からお尻あたりを撫でて来る彼に、困惑してしまう。
付き合う前に私が心配していた色々なことの大半―――例えば30代のすっぴんを見られること、休日の服装とか、知っている芸能人や歌手の世代ギャップ。若いゆえに経済的にも頼って来るんじゃ、という懸念。そもそもすぐに私に飽きて、若い恋人にあっさりと乗り換えられるかも、というような不安は付き合っているこの期間で杞憂だったと知った。それでもまだまだ完全にこの若い恋人に心を開けているかというと、まだ予防線を張ってしまっている自分を否定出来ない。とは言え、彼との付き合いは当初の予想よりもはるかに私を精神的に満たしてくれ、誰かに必要とされる幸せを日々噛みしめていた。
そんな彼との付き合いで、困っていることがただ一つ。
これは、彼が若いから、仕方ないことなのかな、とは思うのだけど……会うたびに体を求められるのは、少し、30代も半ばになった女には困る。
私の生理期間を除けば、どちらかの家で二人きりになると、彼は必ずしたがるのだ。
もちろんちゃんと避妊はしてくれるし、変なプレイを強要されることもなく、ごくごく普通の恋人同士のセックスである。9年のブランクがあったとはいえ、私も一人の女性として、好きな相手に求められることはとても嬉しい。ただ、その頻度が多くて、時々愛されているからなのか、欲望のはけ口にされているのか、分からなくなる時があるのだ。
特に数年前から私は、生理の前の1週間に生理の前兆痛とも言える腹痛に悩まされており、実際の生理の時よりも体調が悪い。仕事中は何とか鎮痛剤で誤魔化しているのだけれど、それは年々悪化してきており、もうすぐ生理が来るなという時期は、本音を言うと一人で部屋に閉じ籠っていたいくらいなのだ。
でもそういう女性のデリケートな体調の変化は、彼には分らないらしい。生理になっている時に出来ない、というのは一般的な感覚として理解出来るみたいだが、その前、排卵の時期なども体調が悪くなるということは全然ピンと来ないようだ。じゃあ私が説明すればいいじゃないか、と思われるだろうが、彼氏とは言えこんなに若い異性に自分の生理周期について詳しく説明するのは気が引けるし、何より、そのことを説明して逆に彼に全く求められなくなったらどうしよう、という思いが過ぎって、結局体調が悪くても応じてしまう状況が続いていた。
今はまだ付き合いたてだし、彼も若いからで、こんな状況がずっと続くわけじゃなし。いつか自然に回数も減って行くものだし、今は求められるうちが華だと思うようにしよう。
―――実際に体調も悪い彼は、今日の所は断念してくれたようで、私が彼のためのおうどんを料理し始めると、自分のベッドで寝息を立て始めた。
おうどんが伸びてしまうな、と思いつつ寝入ってしまった彼を起こすのは忍びなく、私はなるべく物音を立てないようにしながら彼の着散らかした衣類を集め、洗濯機を回した。乾燥機にまでかけたタイミングで、一度目を覚ました彼が私が温め直したうどんを食べ、市販の風邪薬と栄養ドリンクを飲んだ。
風邪がうつったら困るから、今日は家に帰ってまた明日看病に来る、と言うと、少し寂しそうにしつつも彼も頷き、もう一度私をぎゅっと抱きしめ、「来てくれてありがとう」と言った。そして結局、最後ちゅっと一瞬だけ不意打ちでキスされた。
帰りのタクシーの中で、彼とのキスを反芻してしまった私は一人赤くなっていた。
付き合いだして以降、自分が思っているよりも急速に彼に惹かれてしまっていることを、改めて自覚する。
自分が好きだと思う人と、自分のことを好きだと言ってくれる人が揃うって、奇跡みたいなこと。
彼のことを好きになれて嬉しい、でも、少し怖い。
好きになれば好きになるほど、期待も増えて行く。要求も増していく。
1のことで喜べていたことが、10でも満足出来なくなって行く。
今は、こうやって二人で過ごせる時間だけで幸せ。
でも、いつか、確かな約束が欲しくなるのかな。彼の都合よりも、自分の都合が大事になって、彼の人生を自分の思い通りに書き換えたくなってしまうのかな。
そうなるのは、怖い。だって、彼には彼の人生の未来絵図があるはずだから。
―――年始休暇が明け、最初の一週間は年末の最後の一週間同様、目の回るような忙しさになる。
元々長期休暇を挟むために、通常業務をいつもよりもタイトなスケジュールでこなさなければならない、というのもあるが、建築資材を卸すこの会社も住宅関連業界に位置するのは間違いなく、最も入退去の多い時期である3、4月に向け、新築住宅やマンションの仕様変更なども頻繁に行われるため、見積もりを出す回数もぐんと跳ね上がる。それに加え、各建築資材メーカーが新価格を一斉に発表するのもこの時期に重なるため、私や同じ営業事務の後輩畑山さんが作成する販促資料、見積書、請求書の数は恐ろしい量になる。当然、毎日残業である。
所属する営業第一課のメンバーが、事務所に戻って来ては私達に新しい資料作成を依頼し、また分刻みで取引先回りに外出するのを横目で見ながら、私はこめかみを揉みほぐした。
……ああー駄目だ、パソコンを長時間睨み続けてるから、眼精疲労が半端ない。
「白石さーん、やってもやっても終わりませんねー」
横の席で畑山さんも大きく伸びをする。彼女が大きなあくびをすると、私にまで眠気が移って来る。
「……駄目ね、このまま続けても効率が悪いわ。ちょっとコーヒーブレイクしよう、畑山さん」
「いいですね!」
私が自分のデスクの引き出しから、スティックタイプのカフェラテを取り出すと、畑山さんも自分のデスクの奥に置いてあるカゴから、彼女お気に入りの紅茶のティーバッグを取り出した。それと得意先からお歳暮で頂いていたクッキーの残りをいくつか持って、私達は事務所の窓際にある休憩スペースに移動した。
このフロア内には別に休憩室があるが、そこは昼休憩で使用したり、営業さんが簡易ミーティングに使うことがあるので、小休憩にはいつも事務所内の一角にある休憩スペースを利用するのである。
「わー……いっぱいチラシ来てますねぇ」
畑山さんがクッキーを齧りながら、休憩スペースのテーブルの隅にまとめてある、取引先企業から営業社員達が持ち帰って来た新築住宅や新築マンションのチラシやカタログをペラペラとめくった。
うちのお得意様のほとんどが、建設会社や住宅メーカー、マンションデベロッパーだ。当然取引先からも、我が社の社員に住宅購入の協賛キャンペーンなどが持ち込まれて来ることが度々ある。一般の購入価格より、5%から10%ほどの割引があるのだ。数字だけ聞くと、大したことないように思えるが、数千万円の買い物の10%割引となると大きな金額だ。
「そうねぇ、やっぱり住宅メーカーさんも新年で価格下げてるとこけっこうあるのねぇ……」
何とはなしに見ていると、畑山さんが一枚のチラシを引っ張り出して来た。
「白石さん、これこれ!結構いい場所ですよ!1LDKで……1,860万円!月々払い、5,2000円から、ですって!私の今の家賃とあんまり変わりませんよ!」
「へぇー……どれどれ、ほんとだ。ボーナス払いなし、35年ローン……わぁ、私の35年後って……70歳!?」
35年後の未来を想像して、正直ゾッとした。
でも今のままお一人様だということを考えると、このまま家賃を払い続けるよりも、いっそのこと買ってしまうほうがいい?子供もいないこと考えたら、1LDKで十分な広さ、それに場所も今住んでいる大浜よりもさらに会社に近いし、市内中心地にも電車一本で行ける……。
思わず真剣に考えてぶつぶつ言っている私に、突然私達が見ているそのチラシをさっと誰かに取り上げられてしまった。
「へぇー……本当にいい場所ですね。でも俺は、1LDKは狭いと思うなぁ。将来子供のこととか考えたら、最低でも3LDKはないと……ほら、この3,920万円とか良さそうですよ。高層階だけど、一番上じゃないから夏もそんなに暑くならないだろうし」
「ひ、廣澤さん……」
いつのまに帰って来ていたの?
いきなり話に入って来たその若手営業マンに、私は口の端をひくつかせた。
今のって……深い意味はないよね?
「あーそうですよねぇ、いくら家賃が勿体ないって言っても、1LDKなんて買っちゃったら婚期が遠のいちゃう!それより、彼氏に3LDKとか見せて、子供は何人欲しいか、とか聞く方がアピールになりますね!ありがとうございます廣澤さん!」
「いえいえ」
自分と自分の彼氏へのアドバイスだと都合よく解釈した畑山さんが、両手をぽんっと叩いて首を可愛らしく傾げながらお礼を言った。そのお礼を言われた本人は、何か意味ありげな微笑みを私に向けて来た。
「白石さん、マンション買うんですか?」
「……見てるだけよ」
私が憮然とした表情で言うと、彼は「ふーん、そうですかぁ」とまたわざとらしく言って、改めてそのチラシを眺めた。
付き合い始めて3ヶ月目になる私達だけど、会社の人達には誰一人私達の関係を打ち明けてはいない。
あえて大っぴらに言うものでもない、という思いと、知られて変に気を遣われても仕事がやりにくい、というのがその主な理由だ。
もちろん、年齢差もあるし、いわゆるお局ポジションの私が、社内でも将来有望で人気な若手営業マンに手をつけたという構図は、実際は彼からのアプローチが先だったとしても世間体的にもあまり見栄えが良くない。
ただでさえ社内恋愛というのは、後ろめたさや背徳感を感じさせるものなのに、私の微妙な年齢も拍車をかけて、廣澤さんが無駄に好奇の視線を浴びたり責任をとれよとプレッシャーを掛けられるのも忍びない。
……ただ。ただである。
私達は特に会社には隠しておく、もしくは自然に知られるのに任せる、といった自分達の意向について話したことは無いのである。
何となく暗黙の了解的に、社内ではこれまでと同じ態度でお互い接する、プライベートの話は勤務中はしない、ということに落ち着いてしまっている。
私に関しては、おそらく支社内のほぼ全員が、すでに枯れ切った恋愛も結婚も無縁のお一人様という認識で通っているようで、恋人がいるか、なんて話題も、ましてや出会いの場に行かないのかとかいう話も一切振られることは無い。
でも現在25歳の廣澤さんは、恋愛適齢期真っ只中で、見た目も中身も爽やかな好青年で知られる若手ホープ、しかも大学時代の彼女とは1年目で別れ、それ以来ずっとフリーだと思われている。もしこの会社内で結婚したい男性ランキングなんてものがあったら上位10位以内どころか3以内にも入ってしまうかもしれない。
そんな青年が本当に私の彼氏なのか、と時々自分でも疑いたくなるけど―――それは置いておいて、問題は廣澤さんは未だに、新しい彼女がいることすら社内で公表していないのである。
その相手が私だなんて言う必要はないけど、普通彼女が出来たら恋人がいることくらい言うものじゃない?
ただでさえ、彼の仲の良い先輩営業社員、松田係長や、柳さんにしょっちゅう合コンに数合わせで呼ばれてるのに。たしか、私と付き合い始めてからも2回は松田係長に無理やり連れて行かれてた。それだって、もう彼女がいるって言えば、断れたんじゃないの?
公表したいわけじゃない、公表したいわけじゃないけど……、まるで正式な彼女ではないと言われているみたいで、彼に恋愛話が振られる度に私は複雑な気持ちになる。
やっぱり10近くも若い男の子と付き合ったって、結婚になんて結びつくわけないなぁ、と私は人知れずため息を吐いた。
―――その日は体調が悪かった。例の生理直前の前兆痛と、そのせいで過敏になっている神経が私の気分の悪さをいや増しにしていた。
「白石さん、この資料作成今日中にお願いします」
私は未処理トレーに入れられた、資料案を見て、あれ、と思った。そして、それを入れた営業社員の顔を確認した。
「……柳さん、このたたき台、自分で作成しました?」
私が尋ねると、明らかに柳さんは動揺して目を宙に泳がせた。
「もちろん、自分で作りましたよ」
「……おかしいですね、このテンプレート、廣澤さんがよく使うやつ。柳さんも使うようになったんですか?」
「……そ、そう、廣澤さんに教えてもらって……」
「そうなんですね、どうりで最近柳さんのたたき台間違いが少ないなぁって思いました。この前までは入れている価格も全然でたらめで、商品素材の説明もいつも間違っていたのに、最近直すところがなくて楽だなぁ、柳さんもちゃんとたたき台作ってくれるようになったんだなぁって思ってたんですよ」
「い、いやぁ、白石さんにばかり負担かけちゃ悪いからね……」
そう言って居心地の悪そうな手を後頭部にやった柳さんに、私はにっこり微笑んだ。そしてすぅっと息を大きく吸った。
「それで後輩にやらせてちゃ元も子もないでしょ!!!」
私の雷が事務所内に響き渡った。
「これ、作成者の社員番号廣澤さんのじゃないですか!廣澤さんのIDでわざわざログインして作ったってことです!?違うでしょ!!何後輩に自分の仕事押し付けてるんですか!!!」
「あ、い、いや、その」
私に詰められ、柳さんは一気にしどろもどろになる。
そこに、丁度外回りから帰って来た廣澤さんが事務所に入って来た。
「し、白石さん!?柳さん……あちゃー」
私が掴み掛らんばかりに詰め寄って、たたき台を突き付けている場面を見て、廣澤さんは片手で顔を覆った。
「あちゃー、じゃないですよっ!!廣澤さんも、いくら先輩に頼まれたからって、ほいほい引き受けないで下さい!自分だってたくさん担当取引先抱えてるのに!!」
「……すみません」
私の剣幕に、苦笑いになる廣澤さんと、私の矛先が変わったのを良いことに、こっそり外回りに出掛けて逃げてしまおうとしている柳さん。そうは問屋が卸さないわよ。
「柳さん、この資料案は却下です!ちゃんと自分で作成した資料案を持って来て下さい!!」
「そんな!明日には必要なのに!」
「今日の夕方までにたたき台を貰えれば、何とか今日中に作りますから」
「でも俺、これからアポがあって外に出なきゃいけないから、作ってる暇ないんだよー!今日だけ、今日だけ廣澤さんに作ってもらったのを元に起こしてよ」
「自分の担当する企業に人に作ってもらった資料を出すんですか!?それでよく商談なんて出来ますね!!」
「頼むよー白石さん!」
私に両手を合わせてお願いする柳さん、確かに今回は時間がないようだ。でも、これが癖になって廣澤さんを安易に頼られても困る。
「駄目です!!」
断固として突っぱねた私と、弱り切っている先輩社員の姿を見て、見かねた廣澤さんが間に入って来た。
「白石さん、俺達営業同士はお互いに資料案だけでなく、商談も代行することもあります。商品知識が入ってさえいれば、誰が作ったかなんて関係ないんです。だから、今回は俺が作ったやつでどうにか進めてくれませんか?」
「廣澤さん……!そうやってあなたが簡単に請け負うから、柳さんは全然反省しないんでしょ!!先輩だからって甘やかさないで!!」
「白石さん!!……営業の仕事のことは事務職のあなたがとやかく言うことじゃないです。作成者が俺の名前のままで修正していなかったのは俺のミスですが、俺達はチームワークのつもりですから、白石さんは白石さんの仕事をして下さい」
「……!!」
いつになく強い口調で言われ、私は唇を噛みしめた。廣澤さんが事務職を侮ってる訳じゃないとは分かってる。でも、そうやって立場が上なのを理由に押さえつけられてしまうのは我慢がならなかった。
「……っ、分かりました、これで最後にして下さい」
私はそれだけ言うと、自分の席に座り、その資料案を手元に持ってくるとカチャカチャとキーボードを鳴らし作業を始めた。私の横の畑山さんがさっきから私や廣澤さん達の様子を、心配そうに見ている。柳さんは気まずそうにしつつ、「じゃあ、宜しく」と言って外出して行った。
廣澤さんは私が作業を開始したことを認めると、そのまま自分の席に戻り、自分も事務作業に取り掛かり始めた。一度深いため息を吐いて、うるさげにネクタイを緩めた様子を視界の端に捉えると、途端に涙が溢れそうになった。堪らず一度席を立ち、トイレに駆け込む。個室に入り、しゃがみ込むと私は声を殺して泣いた。下腹部の痛みも増して、頭までくらくらして来ていた。
「―――由香さん、まだ怒ってる?」
「……怒ってない」
レンジで温めたお弁当を二人で食べているが、私の口数が少ないことに廣澤さんが途方に暮れたように私の顔を覗き込んだ。
あの言い争いの後、彼の態度は私がトイレから事務所に戻るといつも通りに戻っていて、まるで私だけがあのやりとりを引きずっているようだった。彼からもいつも通り見積書作成依頼があり、私も不機嫌な態度で仕事を続けるわけにもいかず、表面上はいつも通りに仕事をこなした。
私も廣澤さんも残業し、8時過ぎに会社を出るタイミングが重なった。私としては今日は一人で帰りたかったのに、廣澤さんは当たり前のように会社から駅に着くまでの道でいつも通り手を握って来て、さも当然のように私の家の最寄り駅大浜駅で降りて、今日は遅いからお弁当屋さんで夕食を買おうと提案して来たのだ。
今日はまだ木曜の週半ばだから彼は私の家に泊まっても結局、着替えに朝に一度自宅に帰らないといけない。その手間を考えたら最初から自分の家に帰ればいいのにと思う。
私があまり箸の進まない焼き魚定食弁当を結局残し、彼の食べ終えた唐揚げ弁当の空き箱と一緒に片付けると、彼は私の部屋のソファに移動しテレビを見ながら買って来たビールを飲み始めた。これもいつもの光景、だけどなんか今日はイラっとする。
彼氏とは言え、会社の後輩なのに態度がでか過ぎやしないか?と普段は思わない文句まで浮かんでくる。
……ああ、駄目だ。やっぱり今日は、生理周期のせいで体調が最悪みたい。
「由香さん、おいでよ」
まだ片付けをしている私を、いつもの調子で呼んで来る廣澤さん。私が返事をしないでいると、近寄って来て私の体を後ろから抱きしめて来た。
「機嫌直して、由香さん」
そう言いながら服の中に手を伸ばして来る彼に、困惑する。やっぱり今日もするの……?
「……会社で冷たいこと言ってごめんね」
「……」
後ろから回された腕に私は両手を添えて俯いた。不機嫌な顔は見られたくなかった。
「柳さん、あの人、口はうまいから直接の交渉は上手なんだけど、資料作ったり、資料使って説明するのが苦手でさ。数字が頭に入らないみたい」
「……知ってる。いつも数字直してあげてるもの」
「柳さん、今月売り上げ目標達成厳しいんだよ。口先で誤魔化してたのが、主要取引先の人の反感買ったみたいで。それで今度こそ詳細な資料作って来いって言われたみたいでさ、俺に手伝ってくれないかって言って来て。俺も自分の担当があるから、余裕はないけど、やっぱ皆で売り上げ目標達成しないと意味ないからさ」
「……うん」
「でも、由香さんの言う通り、もう簡単には請け負わないから」
「……分かった」
キスをされ、そのまま私はベッドの方に誘導される。ベッドに押し倒されると、覆いかぶさって来た廣澤さんは角度を変えながら何度もキスをして来た。舌を絡め合わせる深いキスをされ、彼の手が私の体の表面を探るように動くたびに、ぞくりと何とも言えない感覚が走る。そして撫でるように私の下腹部に手を当てて来た。
「……お腹痛いの?」
「……え?」
「……今日、事務所にいる間、何度もお腹をさすってたでしょ。顔色も悪かったし」
気付いてくれたんだ、ということに驚いて、廣澤さんを瞬きしながら見つめた。あんな言い争いをした後でも私のことを心配して気に掛けてくれていたのかと思うと、現金なもので苛々していたのが緩和され、胸の奥がきゅうっとなって来る。
「……大丈夫よ」
私がそう言って廣澤さんに自分からキスをすると、彼は私の体をギュウッと抱きしめた。そしてしばらくその体勢のまま動かなくなった。
「廣澤さん……?」
「……由香さんって、俺のこと、全然拒まないよね」
「……え?」
「………なんかこれじゃ、ただのセフレみたい」
「………え」
耳元でぼそりと言われた言葉に驚いて、私は思わず体ごと起こし、彼の顔を見つめた。廣澤さんはばつの悪そうな、真剣な表情で私を見つめていた。
「………今、なんて言ったの?」
「……ごめん、今日はそういう気分じゃなくなったから、俺は帰るよ。……明日も仕事だし」
やや固い口調で一方的に言った彼は、私から体を離しベッドから降りると、椅子に掛けてあった自分のスーツのジャケットと営業カバンを取り上げる。私が呆然としているのをそのままに、本当に私の家から出て行ってしまった。
あとに残された私は、突然のことに何が起こったのか理解できず、そのままベッドの上で同じ体勢のまま固まっていた。しかし、出て行ってしまってから十分以上経っても戻ってこない彼に、理由は分からないがセックスを初めて拒まれたこと、それだけじゃなく朝まで一緒に部屋で過ごすことも拒否されたことに気付いた。
何なの急に……?私、何かした?……そりゃ、夕方の仕事のことでは多少腹が立っていたけど、最初にセックスしたがったのはそっちだったじゃない……!?それをセフレってなに……!?!?
混乱しながら、ベッドの上で寝がえりを打つ。また下腹部と、頭が痛くなって来て、めまいまでして来た。訳も分からず突き放されたことに、急激に悲しさが込み上げて来る。
さっきまで抱きしめられていたのに、突然放り出されて言いようのない不安が広がり、気付けば小さい子供のようにしゃくり上げて泣いていた。
―――翌金曜日、彼の態度の急変に夜中よく眠れなかった私の体調は、さらに悪化していた。
朝からいつもよりも多めに痛み止めを飲み、何とか誤魔化しているが、パソコンを見ているだけでめまいと吐き気に襲われていた。
しかし、今日は重要な業務の社内締めの日でもあり、休むことはおろか、残業を回避することも難しそうだ。
パソコンに向かい数字を打ち込んでいる間も頭が重く、私は片手で頭を支えるようにデスクに肩ひじをつきながら作業を続けていた。いつもよりも注意力も落ちているのか、気づかぬうちに知らない書類作成依頼も未処理トレーに溜まって行っている。
「……白石さん?大丈夫ですか?顔色悪いですけど」
だから自分の顔のすぐ横で、廣澤さんが心配そうに覗き込んでいるのも、声を掛けられるまで気付かなかった。
「……わっ!ひ、廣澤さん……何ですか?」
「いや、体調悪そうだから、大丈夫ですかって」
その顔と顔の距離が、いつもの会社でのそれよりも近く、私は条件反射で体を仰け反らせ、廣澤さんから離れてしまう。
「だ、大丈夫です!ちょっと寝不足なだけで……!」
「寝不足?昨日眠れなかったの?」
「あ、ちょっと、遅くまでテレビ見てて……」
なおも質問を重ねて来る廣澤さんに、私はとっさにしょうもない嘘をついてしまう。でもさすがに、あなたが帰って泣いてたから、なんて本人に、しかも業務時間中に言える訳ない。
廣澤さんは「ふーん……そうなんですね」と呟き、やや探るような視線を私に向けたが、すぐに自分の持っていた書類に目を落とした。
「白石さん、昨日作って頂いたこの見積もりなんですけど、一か所間違っているところがあるので、修正して再発行して頂いていいですか?」
そう渡された書類は昨日言い争いをした後に気が立っている状況で作成した見積書だった。よく見ると、確かに会社名に誤字があった。
ああ、もう集中力が欠けるとこれだ……本当体調管理って大事。
「分かりました。すぐに修正します」
私はその、いつもはしないつまらないミスに自分で苛々しながら、了承した。その書類を受け取る時に盗み見た彼の表情はどこか呆れているようで、冷たいまなざしに昨日の苦い感覚が再び蘇るようだった。
急いで昨日保存していたデータを引っ張り出し、修正をしながら私は社内恋愛の欠点をつくづく実感していた。
相手が目の前にいるせいで、その表情や言動にいちいち振り回されてしまう。例え会いたくない気分でも、仕事だから何事もないかのように接しないといけない。
相手が何をしているのか把握出来る代わりに、プライベートと仕事の線引きがしにくくなる。
こんなんじゃ駄目、もう20代の女の子じゃないんだから、いちいち恋愛になんて神経かき乱されちゃ駄目。
私は自分を叱咤しながら、何とか仕事を続けた。
―――ご飯でも食べれば少しは体調も回復するかもと思っていたが、逆だった。昼食を思うように食べられず、無理に体に入れたせいで気持ち悪さが増してしまった。
これは本当にまずいな、最低限の今日の締めの分だけやって、今日は早退させてもらおうかな。
しかし、私の体調不良に気付いてくれたのは廣澤さんだけだったらしく、続々と営業社員達から新たな書類作成依頼が溜まって行く。やってもやっても追いつかないし、減らない……。
「―――白石さん、本当に顔色悪いですよ」
また気付けば、目の前に私を心配そうに覗き込む廣澤さんの顔が間近にあった。今度は逃げられないように、頬に手を当てられている。
「廣澤さん……」
いつの間に、外回りから帰って来たんだろう、と私はその時ぼんやりと考えていた。……駄目だ、頭まで回らなくなって来ている。
「今日締めの報告書はもう出来てるんですよね?……すみません!今、白石さんに作成依頼している資料で、急ぎのものありますか?」
廣澤さんが私のデスク上の未処理トレーと処理済みトレーを見比べながら、事務所内にいる営業社員に呼び掛けた。
数人が急ぎと答えるが、それ以外は週明けでもいいと反応がある。
「畑山さん、すみませんけど、急ぎのやつ受け取ってもらえます?俺も自分のは自分で仕上げちゃうんで」
「……え、あ、はい分かりました」
そして私の未処理トレーから急ぎでと返事のあったもののいくつかを、私の隣の席の後輩、畑山さんに回した。
「あ、だ、大丈夫よ、私ちょっと集中力が落ちてただけなの。自分でやれるから」
私が取り上げられた書類を再度回収しようとして立ち上がると、くらり、とめまいがした。しかし何とか踏みとどまって畑山さんに向き直る。畑山さんも私の顔色を見て、眉をひそめた。
「……ほんとだ、白石さん、顔色悪いですよ」
「大丈夫」
私が無理に作り笑いを畑山さんにしようとすると、廣澤さんの不機嫌な声が遮った。
「白石さん、仕事が続けられる顔色じゃありませんよ」
「でも、終業まであとちょっとだし」
「……由香さん」
ついに廣澤さんの表情が、今まで見たことがないほど険しくなった。名前で呼ばれ、びく、と私は体を反らす。
「ちょっと休憩室で横になっていて下さい。割り振りのめどが立ったら、また確認するんで。……ちょっと白石さんを休憩室に連れて行きます」
そう言うと、廣澤さんは私の体を有無を言わさず抱き上げた。他の社員らがあっけに取られて注目を浴びる中で、廣澤さんは気にした様子もなく私を抱えたまま事務所を出て、同じフロアの休憩室へ移動する。私はと言うと、その廣澤さんの大胆な行動に驚き言葉も発せず、あまりの恥ずかしさに硬直していた。
廣澤さんは休憩室に入るなり、私を椅子に座らせ、その壁際に別の椅子を並べ始めた。簡易的なベッド変わりらしい。
「今割り振った仕事が白石さん抜きでもいけそうなら、そのまま白石さんは上がれるように課長に報告しておくから、それまではここで横になって休んでて下さい」
「ちょ、ちょっと廣澤さん!こんな大げさなことしなくても、私ちゃんと自分の体調のことは自分で判断出来たのに。それに、事務所内で名前呼びするなんて、誰になんて思われるか……」
「俺、前にも言ったよ?俺は別に付き合ってることバレてもいいし、どんな風に思われても構わないよ」
「構わないって……」
ちょっと怒ったような様子で言った彼の真意が読めず、私は絶句して彼を見つめた。廣澤さんは私の顔を、両手で挟んで覗き込んだ。
「……由香さん、俺は由香さんの彼氏じゃないの?」
「……彼氏です」
目と鼻の至近距離で見つめられ、それが会社のビルの中という後ろめたさもあり、鼓動が跳ねあがる。
「じゃあ、俺の前では強がらないでよ。辛いなら辛いってちゃんと言って、もっと俺を頼ってよ」
その言葉を聞いた途端、張り詰めていた私の緊張の糸が切れた気がした。
急に涙があふれて来て、視界があっという間に歪んだかと思うと、それを堪える間もなく次々に零れ落ちた。
最初自分が泣いているんだと分からなくて、何度も瞬きをして、それでもはっきりしない視界に耐え切れなくなって嗚咽が漏れた。
すると頭を抱きかかえられるように、二本の腕に引き寄せられた。
「……お化粧がついちゃうよ」
「……いいよ」
「……鼻水もついちゃう」
「……いいって」
業務時間中なのに、と後ろめたさを感じつつ、廣澤さんの背中に手を回す。すると、頭のてっぺんを撫でられ、じわじわと広がる安心感にますます涙が出て来る。ああ、駄目だ生理周期とはいえ、情緒不安定過ぎる。
「……ごめんなさい、大人しく休みます」
私は体を離し、自分のカーディガンの裾で涙と鼻水を拭った。汚いけど、ハンドタオルも持っていないんだから仕方ない。その様子を見て、廣澤さんは少し笑った。
「また課長に報告して、早退出来るか伝えに来るから。畑山さんに今日は頑張ってもらうから、由香さんは早めに帰って休んで。俺もなるべく早く仕事終わらせて、行くから」
「……ありがとう」
私が素直にお礼を言ったら、廣澤さんはまた私の頭のてっぺんに手をぽんと置いた。そしてそのまま手を私の後頭部を支えるように移動させ、一瞬だけの軽いキスをして来た。
「ちょっと、ここ会社……!」
「ごめん、じゃまた来るから」
パタン、と廣澤さんが閉めて行った休憩室の扉をぼうっと眺めながら、恥ずかしさと同時に何とも言えない安堵感が私を満たした。
昨日彼の口から、セフレみたい、という発言が出て来て、それがずっと棘のように私の胸に刺さったままだった。だんだんそれが彼の本音なのかな、とも思えて来て、不安になってた。情緒不安定だったのは生理周期のせいだけじゃない。その証拠に、今もまだ下腹部はずっと鈍い痛みが残っているのに、彼に優しくされたことで胸のむかつきは随分ましになった。精神的な不調が体にまで影響していたのだ。
困ったな。彼の言葉一つでこんなに上がったり下がったりするくらい、彼のことを好きになってしまってる。最初は彼からアプローチを受けて、大きすぎる年齢差に怖気づいて二の足を踏んでいたのに。今や翻弄されているのは私の方だ。
こんなんじゃ先が思いやられる。これじゃ駄目だ、大人の女は恋愛と日常生活を上手く切り離せるようにならなきゃ。
―――あの後、すぐに課長から伝言を預かった畑山さんが休憩室に来て、課長が本日締めの報告書の残りを見てくれること、どうしても急ぎの書類作成は畑山さんが受け持ってくれることを伝えに来てくれ、定時を前に私は退社することが出来た。
家に帰るまでの電車内で、廣澤さんから『7時には仕事終わらせてそっち行く。何か食べるものは買って行くから、今日は料理しなくていいよ』とメッセージが来ていた。忙しいのに私を気遣ってくれる彼に、また心のたがが緩みそうになった。
気遣ってくれる人がいるっていいなぁ。こうやって互いに体調が悪い時に、思いやり合ったり。……そうか、だから皆結婚したくなるのかな。
ふいに込み上げて来た想いに、自分でも動揺する。ああ駄目駄目、そこまで考えちゃ駄目。期待しちゃ駄目。
―――自宅のベッドで横になってると、鍵が開けられる微かな音が響き、誰かがドアを開けて入って来る気配がした。もちろん、彼だ。
「……由香さん、体調どう?」
コンビニの袋を下げて入って来た彼は、いつもの会社員のスーツ姿じゃなく、細身のジーンズにセーターというラフな格好だった。一度自宅に寄って着替えて来たのだろう、同時に持って来たリュックはいつも彼が下着や替えの靴下を入れているものだ。今日は私の家に泊まる予定のようだ。
「熱とかあるの?食欲ある?」
「熱はないの、風邪とかじゃないから。食欲は少し……」
私が起き上がってダイニングの方に歩いて行くと、彼は食卓に置いていたコンビニの袋の中身を取り出した。ほのかに湯気の上がる2つの大きなプラスチック容器とおにぎりがいくつか出て来た。どうやら買って来たのはおでんのようだ。
「お茶は俺が淹れるから、由香さんは座ってて」
「ありがとう」
勝手分かった様子で、廣澤さんは私のキッチンに入り、戸棚を開けてお茶の葉と急須を取り出し、電気ケトルに水をセットしスイッチを入れる。その自然な仕草が、たった3ヶ月の交際期間で彼が私のキッチンを触ることが違和感なく感じられるくらい、私にとって彼の存在が当たり前になったんだなぁと実感する。
お茶の急須と湯飲みを二人分持って来て、彼も食卓の椅子に腰掛けた。私の顔色を確認するように私の頬に触れ、正面から覗き込んで来る。少なくとも会社を出た時に比べて、体調はだいぶ良くなったと自分でも実感しているので、それは顔色にも表れているはずだ。
「帰り病院とか行った?」
「……ううん、帰る時はそんなこと思いつく余裕ないくらい早く家に帰りたかったから、行ってない。さっき調べたら土曜日でも午前中だけは開いてるとこあるみたいだから、明日行こうと思って」
「そっか。じゃあ俺も一緒に行くよ」
「え!」
彼の提案に、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。私のその反応に「何?」と彼は不審げな顔をした。
「……あ、だって、明日行くのって、産婦人科だし、男の人には行きにくい場所って言うか……」
「え……!……由香さん、まさか」
私の言葉にギョッとした反応を示し固まったその様子に、私は彼が私の思いもよらない方向で解釈をしたことを瞬時に悟った。
「あ……!ごめん、違う!たぶん、妊娠とかではなくて、生理不順って言うか、ただの生理前の体調不良だから!」
彼が考えた方の可能性をすぐに否定したのは、それに対しての彼の本音を見てしまうのが怖かったからだ。困惑して責任回避するような発言をされたらショックで仕方ないし、逆に喜んでくれてもそれが事実でないだけに辛い。不用意な発言で、今の私達の関係を崩したくはなかった。
私が即座に否定したことで、何か肩透かしを食らったような表情になった彼は、見ようによってはホッと胸を撫でおろしたようにも見える。私はあえて深く考えないように、それを無視した。
「そうなんだ……でも、俺付き添うよ。せっかくの休みだし午前中病院寄った後、由香さんの体調が大丈夫なら二人でどっか行こうよ」
そう言ってくれた彼に私も安心して、そうね、じゃあショッピングモールにでも行く?と今朝ポストに入っていたチラシを広げた。