①
海は、巨大な生物だ。咆哮を上げて、暴れ狂う。俺たちを、水面から、振り落とそうと。
舐めていた。海は、人を、容易く殺せる。俺たちは死を待つのみだった。
「直太郎! なんとかしろ! ヨットが倒れる! 俺は鮫の餌になりたくない!」
俺、町田泰三は、相方の下山直太郎を、怒鳴りつけた。狭いキャビンの中で、嵐を凌ぐ。シー・アンカーを海に投入して、横浪を防いでいる。
《若手芸人、ヨットで世界一周》というテレビ番組の企画で、俺たちは海に出た。ヨットの操縦は、最低限しか教わっていない。
俺はこんな事態でも、ハンディ・カメラを回して、直太郎の阿呆面を撮影する。
「僕に言われたって困るよ! テレビ局の連中が悪いんだ! 馬鹿野郎! お前らは人殺しだ!」
直太郎は、坊主頭を掻き毟りながら、涙声で訴えた。ヨットが揺れて、天板に頭をぶつけている。
「馬鹿! 仕事が来なくなるだろう! お前が童貞だから悪いんだ! 童貞だから、嵐に襲われた」
八つ当たりをする。
もしヨットが転倒して、海に溺れたら、鮫に襲われるかもしれない。こいつを餌にして、俺だけは逃げよう。
「泰三君だって童貞でしょ! 嵐じゃなくて、痴女に襲われたいよー!」
職業病なのだろう。緊急事態でも、下らない台詞を吐いている。
「俺は、誇りある童貞だ! お前とは違う! しかし、痴女には襲われたい!」
叫ぶと、ヨットが激しく揺れて、ハンディ・カメラを落とした。レンズが割れた音がする。
「商売道具が! 泰三君! 酷いよ! 仕事にならないよ!」
直太郎が、いよいよ涙を流した。まるで、水に濡れた馬鈴薯だ。醜い男の泣き顔ほど、見苦しいものはない。
「予備のカメラがある! 安心しろ!」
「泰三君が、昨日、海に落としてたよ! 海に立小便をしながら、カメラを回して。落とすのは、品格だけにしてくれよ!」
「死にかけの状況で、上手いことを言うな!」
直太郎の頭を叩いた。虚しい漫才の観客は、大嵐。拍手の代わりに、盛大な突風を、吹かせる。
「助けてくれー! 死ぬ前に、おっぱいを揉みたいよー!」
直太郎が、大声で叫んだ。
「お前は世間の荒波に揉まれてこい! 童貞!」
「まさに今、荒波に揉まれているけど、気持ちよくないよー!」
ヨットが揺れて、直太郎は頭を天井へ強打した。倒れ込んで、動かない。
「直太郎! しっかりしろ! 死ぬな! まだ、生命保険を掛けていない!」
揺さぶったが、応答はない。
「直太郎! 生命保険を掛けてから死んでくれー! 高級車に乗りたいよー!」
俺の声は、キャビンの中に、虚しく響いた。