お姉ちゃんのメインイベント
私の目に止まったものから想像を膨らませて書きました。
一週間前にお母さんから聞いたのだけど、明日の土曜日は妹が通う幼稚園のイベントがあるので区民ホールにお出かけするとのこと。そのイベントというのは、地元の幼稚園に通っているお友達とお父さんお母さんと一緒にクラシック音楽を聴くもの。私も同じ幼稚園に通っていたから知っている。毎年行われる恒例行事だ。
兄弟姉妹が卒園してからその芸術鑑賞祭に参加することはない。だけど、今回は姉の私もこのイベントが気になって仕方がない。だって、お母さんから一緒に来てほしいって言われたから。ちょっとした仕事だけど私にやってほしいことがあるらしいの。なんだろう。お母さんは、会場に行けば分かると言っているけれど、気になって仕方がない。
金曜日の夜になって、晩御飯を食べて、お風呂にも入った。宿題も完璧に終わらせてある。明日は芸術鑑賞会以外は予定がない。私は壁にかかっている時計を見た。短い針が9の字の上にある。もう寝る時間だ。妹の弥生は一足先にもう寝ている。
私はどうしても明日の芸術鑑賞祭での私の仕事が気になる。このままでは寝られそうにないので、思い切ってお母さんに聞いてみた。
「お母さん、明日は何のお仕事があるの?」
「あれ? 神奈には話をしてなかったけ」
「うん。何も聞いてないよ。ねえ、何をするの?」
「大したことないわよ。音楽を演奏してくれた人に、ありがとうって花束を渡すだけよ。コンサートが終わってオーケストラの人――曲を演奏してくれた人たちね――が挨拶をするんだけど、その挨拶の流れの中で、神奈がステージにいる偉い人に花束を渡すのよ。それだけ」
言われてみれば、私が幼稚園の時も、演奏が終わった時にそんなシーンがあったような気がする。紅ちゃんのお姉さんが白髪のおじさんに花束を渡していたような・・・。桜子ちゃんのお姉さんだったかもしれないけど。でも私は一所懸命に拍手をしていたからよく覚えてないなあ。そもそも花束を手渡すのってあったかなあ。
なんかピンとこないけど、そんなものかもしれない。洗い物をしているお母さんはニコニコしながら手を拭き、「心配ないから、もう今日は寝なさい」とニコニコ顔のまま私の頭をなでた。
食器洗い洗剤の匂いがまじったお母さんの手は、水で少し濡れていて冷たいけれど温かい。きっと心配することなんてないんだわ。だってお母さんが心配しなくていいって言ってるんだもの。
翌日の日曜日。お母さんと一緒に区民ホールに出かける。ちょっと花粉が飛んでいて鼻がムズムズするけれど、おおむね好調。芸術鑑賞祭の後にホールの近くのレストランで食事をするのを今朝初めて聞いて、テンションも上がる。
受付で係の人から「神奈ちゃんね。今日はよろしくね」と声をかけられ、首から関係者と書かれたネームプレートをかけられる。「関係者だって、お母さん」と振り向いた先にはニコニコしたお母さんがいた。
妹の弥生はもう席に着いているようだ。お母さんと私は園児らの後ろの席でコンサートを聴いた。
オーケストラの演奏ってすごい。私が幼稚園の時はなんとも思わなかったけれど、改めて聴いてみると迫力がある。テレビのCMとかで聴いたことがある曲なのもいい。テレビと違って本物は違うなあなどと、もう幼稚園児の感性とは違うんだと自分に言い聞かせる。
ホールを包む音楽に聞き惚れていたら、受付の時にネームプレートをかけてくれた人が耳元で、「神奈ちゃん、そろそろお願いね」と言って、私を連れに来た。左に座っているお母さんをちらっと見たら、ニコニコ顔で左手を小さく振っていた。
「もうすぐ最後の曲になるから説明するね」と係の人は、しゃがんで私と目線を合わせた。手には小さな花束を持っている。「私が合図をしたら、そこの舞台袖からステージの真ん中まで歩いて行ってください。合図した時には、指揮をしている黒い服を着た人が、客席に向かって挨拶をしています。神奈ちゃんが歩いて行ったら気がついてくれるから、神奈ちゃんはその人の前まで行って、お辞儀をしながらその花束を渡してください」と笑顔で説明された。
「分かった? できる? 大丈夫だよね?」と念を押してくる。
「分かった」と少し小さな声で返事した。確かに簡単な仕事だけど、お母さんや妹たちが見ているステージの真ん中まで歩いていけるかな。ちゃんと花束を渡せるかな。どのおじさんに渡すのか迷っちゃうことはないと思うけど、みんな黒い服を着ているからなあ。誰に渡すのか顔も見えないし不安だ。どうして私なんだろう。私じゃなくてもいいのに。足が震えてきた。気がつけば心臓の音が自分のじゃないような音を立てている。舞台袖にいると客席にいる人にまで聞こえそうだ。オーケストラの楽器より大きな音で鳴っているような気がする。
そうだ! 練習しておこう。学校の先生は、慣れないことをするのに不安だったら、自然に体が動くようになるまで練習すればいいって言ってた。
ステージの中央までは何歩くらいだろう。20歩、いや15歩くらいかな。練習するのにいい場所はないかなと探していたら、舞台袖から楽屋までの道が良さげに見えた。
「15歩進んで、おじさんの前に立つ。そしてお辞儀をしながら花束を渡す」と言いながら、三回ほど通路を往復する。「まだ不安だなあ」とつぶやいて、さらに三往復。歩いてお辞儀して花束、歩いてお辞儀して花束、歩いてお辞儀して花束ーー」。
係の人が「神奈ちゃーん、もうすぐだよ。もう舞台袖で待っていて」と声をかける。「はい」と少し上気した声で答えると、自分を励ますように胸を張って係の人のところまで小走りで向かった。
舞台袖にいると、やっぱり緊張してくる。落ち着こうと、周りをきょろきょろしてみる。もうアンコールの曲が演奏されていると係の人は言っていた。ちょうど、壁に貼ってある演奏曲リストを見つけた。アンコールは1曲だけで、リヒャルト・シュトラウスの「ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」という曲らしい。どうやら演奏されているこの曲で最後のようだ。
唐突に音が大きく鳴り響き、最後の曲の演奏が終わった。客席から拍手の割れんばかりの音が溢れんばかりに鳴り響く。
そしてセレモニー。指揮者がタクトを楽譜台に静かに置いて、徐に客席の方を向く。深いお辞儀とともに拍手の音が再び大きくなった。拍手はどちらかといえば子どもたちよりも保護者らから聞こえてくる。子供たちはかわいい拍手とクリアイエローの歓声を贈る。
指揮者がステージ中央の客席前に降りてくる。
「さあ今よ」係の人が私の背中をポンと叩いて合図する。
「はい」としか言えなかった。舞台袖から指揮者の黒い服がよく見える。何歩、歩くんだっけ。頭が真っ白で分からない。でも、あのおじさんの前まで行けばいいんだよね。
「よし」と心の中で呟いて右足を前に出す。なんか自分の足じゃない感じ。どうして意識しないと前に進めないのだろう。学校から家に帰るときは、足なんて勝手に動くのに。なぜ今は歩くことがこんなにむずかしいのだろう。私はなにか悪いことしたのかなあ。
右足で踏ん張ってから左足を前に出す。練習をしておいてよかった。なんとか前に進めそうだ。でも前に歩いているのだけど、全然おじさんに近づかない。おじさんが離れていってるの? そんなことないか。そんなことないはず。
胸に抱えた花束の匂いが鼻をくすぐる。背中を流れる汗が肌をくすぐる。
歩数なんて数えられない。とにかくおじさんの前まで歩くことに集中した。舞台袖で大きな拍手にびっくりしたけど、今の私には聞こえない。私が変な歩き方をしてるから、しらけちゃったのかな。お母さんや弥生は笑っているんじゃないかしら。うーん、私、前に進め! あの黒い服の前まで。
黒い服のおじさんは私を見ている。私は見られている。おじさんの笑顔は私を応援しているかのよう。ようし、おじさんだけを見て歩こう。あと5歩くらいだろう。5歩なんてあっという間だ。よしあと3歩。2歩。1歩。おじさんの前まで来た。えーと、そうだ。まずお辞儀。そして花束を渡すのだった。
おじさんは少し腰を低くして花束を受け取ってくれた。その花束を客席の方に向けた。その動作につられて私は右向け右で客席に体を向けた。
「うわっ。まぶしい」
スポットライトの光が私に向かって投げられている。光のカーテンの後ろの客席は全然見えない。お母さんや弥生が座っているのだろうけど、まったく見えない。拍手の音だけが光のカーテンを突き抜けて私の耳に届いてくる。
おじさんが誰も見えない客席にお辞儀をしたので、私も少し遅れてお辞儀をした。誰もいない(いるはずだけど)場所に向かってお辞儀をするのは不思議な感覚だ。
拍手が鳴り止まない。光と光の向こうから聞こえてくる音が私を包む。この拍手は私に送られているものかなあ。いや違う。どう考えても指揮者のおじさんに向けられているものだ。お母さんは神奈のこと見ているかなあ。
「ありがとう。お嬢ちゃん」とおじさんが私に小さく言った。私は緊張して何も言葉が出なかったけど、代わりに軽く頭を下げた。拍手の音はずっと続いている。私に向けられた拍手のように聞こえる。「勘違いだけどね」と心の中の私が注意する。「主演女優になった気分」と小さく呟いた。誰にも聞こえない声で。なんだか楽しくなってきた。