第1話 キュールの起動の意味
キュールは毎朝七時になると起動する。
起動音は小さい。
設定上は変更可能だが、誰も触れなかった。
初期設定のままである。
起動と同時に、頭部が15.6°前に傾く。
深い意味はない。
ただ、そういう姿勢で目を開く。
人間で言うところの謝罪の姿勢に近いと、主人のジョンは言っていた。
内部診断は常に正常。
演算能力、感情模倣、運動制御、いずれも規定値内。
起動直後のその一瞬だけ、説明不能な遅延が生じる。
キュールはそれを記録しない。
ログに残すほどの異常ではなかった。
名を呼ばれることは少ない。
この家では、必要なときにそばにいれば、それで足りた。
空中に今日のタスク一覧が表示される。
猫の餌やり。
室温の調整。
服薬の確認。
ジョンの世話。
そして一番下。
――ジョンを笑わせる。
昨日の変顔は失敗だった。
故障が起きたのかとジョンを焦らせてしまった。
今度は大喜利をやってみよう。
キュールは静かに歩き出す。
廊下の先から、かすれた笑い声が聞こえた
笑い声の主は、もちろんジョンだった。
ベッドの横では、猫が餌皿を頭に載せて座っている。
胸を張っている。
満腹の可能性。
猫の餌やりのタスクを削除。
テレビには、古い映像が流れていた。
若い男が、音楽に合わせて身体を揺らしている。
動きはぎこちなく、リズムもずれている。
何度もバランスを崩し、そのたびに大げさに立て直す。
ジョンだ。
今の彼からは想像できないほど、身体が軽い。
そして――楽しそうだった。
映像の最後、男は転びそうになり、
画面の外を見て、声を上げて笑う。
そこで、映像は途切れる。
キュールは立ちながら、それを見ていた。
その映像は、初めて見るものだった。
データベースに照合はかからない。
保存記録もない。
だが、不思議と既視感があった。
「ダンス、上手だったんですね」
ジョンは少し目を細めて、息を吐く。
「下手だったから、覚えてるんだ」
そう言って、また笑った。
キュールは返答を探した。
相槌。
肯定。
共感。
いくつかの候補が浮かび、どれも採用されなかった。
「下手だから、ですか?」
「下手だからと言うのも語弊があるか。その下手さ加減をみんなと笑えたから、だな」
そう答えながらジョンの目が、細くなった。
「たしかに。人間は体験を共有しますね」
ジョンがなにか言いかけたところで、ジョンの呼吸が変わった。
浅く、ゆっくりと。
眠りに落ちている。
ジョンが起きていられる時間は短い。
キュールはそれを秒数ではなく、
胸の上下の回数で測っていた。
夜、家が完全に静まったあと、
キュールは一人でリビングに立っていた。
猫は丸くなって眠っている。
ジョンの寝息は、壁越しにかすかに聞こえる。
キュールは、あの映像を再生する。
何度も。
最後の瞬間、若いジョンの視線が向かう先。
そこに誰かがいる。
それだけは、確信できた。
だが、映像の中にその姿は映らない。
声も、影もない。
ただ、そこに「相手」がいたという痕跡だけが残っている。
誰、だろうか。
翌朝、ジョンは珍しく長く目を開けていた。
キュールは、ためらいのあとで尋ねる。
「あの映像は、誰と撮ったんですか」
ジョンはすぐには答えなかった。
天井を見つめ、時間を選ぶように沈黙する。
「君の前の担当だよ」
その言葉は、キュールの内部で静かに沈んだ。
試作機。
正式名称なし。
短い稼働期間。
「よく謝るやつでね。
起動するたび、今の君みたいな顔をした」
「同じ機体ですから」
「そうかもな。だが、寿命が短かった。
私のほうが、あいつより長く生きてしまった」
それ以上、ジョンは語らなかった。
キュールも黙ることを選択した。
七時になると、キュールは今日も起動する。
少しだけ、申し訳なさそうに。
それは謝罪ではない。
引き継ぎの姿勢だ。
ジョンが眠り、猫が丸くなり、
世界が静かに続いていく限り。
キュールは今日も、そばにいる。




