第9話 異なるタイプの、僕の好きな人
何だったんだろう、あの顔は。
憎しみや軽蔑を詰め込んだような顔。笑顔の仮面だけ被っていて、爪楊枝1本でも刺したら真っ黒い液体がどばどば出てきそうな、そんな顔をしていた。僕は良かれと思って、陽子から逃げる理由を正直に話しただけだった。でもそれが彼女を傷つけてしまったということだ。たぶん。
……陽子も嘘が嫌いだったのかもしれない。
ユイがフラッシュバックして、罪悪感は振ってからキャップを開けた炭酸飲料のように一気にせり上がってくる。
仮に陽子が純粋な気持ちで僕と仲良くしようと思ってくれていたのなら、僕がしたことは大変立派な裏切り行為だ。僕が過去されたことと同じ。そしてまた僕は何の罪もない人を裏切ったということになる。胸が重りをつるしたように重くなる。
ごめん――そのひとことだけでも伝えたい。そう思ってスマホを手に取って、ラインを開いたところで手は止まった。
「……ちがう」
違う。そうじゃない。だって、何のために謝るんだ?
もしも僕が、本当に陽子のことを思って行動するのなら、ラインで謝ることは違うんじゃないか。僕はどこか自分にために謝ろうとしているんじゃないか? そんな気がした。
「はあ」
スマホをベッドに放り投げ、大の字になって寝る。
本当の意味での罪滅ぼしは、もう関わらないことだ。
やっぱり再確認した。僕はこの定位置から出る訳にはいかないのだ。浮かれているとすぐにやらかすのだから。
仰向けになったまま大きく息を吸う。
それから倍以上の時間をかけて息を吐く。
陽子以外のことを考えようとする。一旦彼女の姿が見えなくなると間髪入れずに古川がやってきた。柔らかい口づけに瑞々しい口の音。胸がどきどきと高鳴りはじめて下半身がむくむくと膨れ上がっていく。これはいけないと思い、僕の思考は陽子のほうに戻ってしまう。
八方ふさがりだ。ふたり好きになるって超絶面倒なんだって思った。
******
地獄のような土日を越えて学校に来た。
陽子はまだいない。はあーーと無意識に漏れたため息は思っていたよりもずっと大きい。ホームルームまであと5分ほど。陽子はいつもギリギリ、もしくは遅刻して教室に入ってくるから、どちらにせよあと数分程度で顔を合わすことになる。
深呼吸をして、ゆっくり息を吐く。副交感神経を脳に感じてみる。
土日の間、今日の陽子をすっごく想像した。正確にいうと想像してしまっていた。僕の身体なのに、何度も考えるのをやめろって言ってるのに、全然言うことを聞いてくれないのだ。
もう嫌われたかなとか、日を跨げば切り替えてくれてるんじゃないかとか、案外笑顔で声を掛けてくるんじゃないかとか、休みなんじゃないかとか、なんであんなに怖い顔をしていたんだとか、僕のことをどう思ってるんだとか。
もう関わらないって決めたのに、頭のなかを陽子が占める割合は増していくばっかりだった。もう関わらないって決めたのに。だから、謝罪の言葉も伝えてないというのに。
教室の扉が勢いよく開いて跳ね返った。見覚えのある乱雑な開け方だ。僕は咄嗟に机上へ視線を落とす。しばらくして顔を上げると、もう陽子は席についていた。胸が熱い。そして脈がはやい。斜めうしろの角度から彼女を見ているだけで、僕の心臓は、呼吸は、身体は、制御が効かなくなっている。
恋って本当、何様なんだ。
1時間目、2時間目と時が過ぎた。陽子からのアクションはない。こちらには目もくれない。これでいいんだという自分と、せめてひと目でも見てくれればいいのにという自分が、永遠にトスを続けてボールを譲り合う。
3時間目にようやく目が合って、笑顔でピースをしてきた。と思いきや、昼休みになると彼女はとうとう話しかけに来た。
「赤ペンもってるかあ?」
「持ってる」
赤ペンを渡すとすたすた歩いて教室から去っていく。
会話は以上。結局赤ペンは戻ってこないまま帰りのホームルームを終え、下校の時刻を迎えた。赤ペンを返してくるかもしれないから、いつもより時間をかけて帰り支度をする。カバンの中を確認しているふりをして視界の端っこで彼女を待つ。
するとぼんやりした彼女の像が近づいてきて、
「バイバイ」
陽子が机2個分先で手を振っていた。唖然としてしまった僕がようやく手を上げたときには、もう彼女は同級生に比べて丈の長いスカートを翻して向こうを向いてしまい、そのまま教室を出ていった。
なんなんだよ! 傷ついてないのかよ! なんなんだよ! 心の底に湧きあがってきた喜びの泉を勢いでひたすらに沈める。
彼女が心の底から傷ついていないのならそれでいい。僕は小さなスキップを踏んで教室を出る。
問題は何ひとつ解決していない。それでもいいやって割り切っていた。考えれば考えるほど気分はマイナスになっていく気がするから、今日ぐらいは考えないでおこう。
帰ったら何をしようか。
……そうだ、本を読もう。ここ最近ブックホリックから遠ざかっていた。まずは古川から借りていた小説をいい加減読み切ろう。それから、今日帰りに本屋にでも寄って書い足すんだ。
どこの書店で、どのジャンルとどのジャンルを、何冊買っていくか、それをすべて考え終わる頃にいつもよりあっという間に駅へ着いた。汗に張りついたインナーがちゃんと歩いてきたことを証明していた。ホームまで下りて適当なところで電車を待った。
何気なく線路を挟んだ向かいのホームに目をやると、女の子が友達同士肩を寄せて話していた。なんでもないはずのその光景が、視線をそらした瞬間、強烈な違和感に変わって僕の視線を戻させる。
え?
そこには、アルフォートのリッチミルク味みたいな髪をした可愛い女の子と、嘘みたいに大きくて丸い眼鏡をかけた女の子がいた。ふたり肩を並べて楽しそうに話をしている。
僕は慌ててすぐそこの柱に隠れた。
いつの間にか息が上がっていた。
なんで古川と陽子が一緒に居るんだ――。
恐る恐る顔を出してみる。そこに居るのはやっぱり、紛れもなく古川と陽子。外国人と日本人のように、まったく異なる人種のふたりが友達の距離感で言葉を交わしている姿に、強烈な違和感を覚える。
何故だ。何の話をしている。もしかして同じ中学出身? 元から友達同士? いやいや聞いたこともないし見たこともない。そもそも変わり者の陽子と一緒に帰る女友達なんて見たことがない。
少しして向かいのホームに電車が到着し、乗客を入れ替えて発車していった。マジックのようにそこに居た2人はいなくなっていた。そわそわして落ち着かなくって僕はその場をウロウロと徘徊し、少しして訪れた電車を敢えて見逃した。
僕は多分悪いことはしていない、でも何かやらかしているんじゃないかと2人の姿を見て急に不安になった。遊びに行ったんだろうか。一緒に帰っただけなんだろうか。カフェにでも行くんだろうか。スキップを踏んで教室を出た自分が、もう遠い過去のように思えて仕方なかった。
******
水曜日。朝のホームルーム中にラインが届く。
≪小説返して≫
つまり、昼休みにまたあの教室で会おうということだろう。
≪分かった≫
≪じゃあ昼休みいつもの場所で≫
あの教室でキスをした。柔らかい唇に瑞々しい感触、唇を離すときのくちゅ、って音、俯いて目を合わせない古川。その光景はいつだって鮮明だ。でも僕はいつも夢だったんじゃないかって疑ってしまう。だって古川とキスをするなんて信じられないから。
でも古川と陽子が一緒に帰っていたという衝撃は、逆にあのキスシーンの温度を少しばかり下げてくれて、現実のものとして捉えさせてくれた。それはあのキスが漏れてしまってるんじゃないかっていう不安や、あのキスに特別な意図があるんだろうという懸念が、結果的にキスを事実として認めてしまっているからなんだろう。
昼休みに選択教室で待っていると、やはり古川は休み時間の終盤に静かな足音で姿を現した。
「おつかれ」
「うん」
こちらまで移動してきた古川に小説を手渡した。
古川はそれを遠慮がちに受け取って僕に聞いた。
「どうだった?」
「……よかったよ」
嘘をついた。読んでない。結局僕はブックホリックどころか、活字をひと文字すら読んでいない。
「よかったって、どこが?」
言葉に詰まる。
「全体的に」
「全体的に、どう良かったの」
「……おもしろい」
嘘を重ねる。だが、古川の表情は僕の返答を聞くと影が増す。
「ねえ、本当は読んでないでしょ」
「そんなことないよ」
「じゃあこの作品のラストを教えて」
「いや、それは」
「読んだばかりなら覚えてるでしょ?」
なす術もなし。
降参するほかない。
僕は、彼女に初めて見る不満に染まった顔へ向かっていった。
「ごめんなさい」
古川がため息をついた。
「ねえ、なんで嘘つくの」
「ごめん」
「……うざい」
短いスカートがひらりと舞って、無防備な色白の足が遠ざかる。ああ、古川が去っていく。
やってしまった。
うざいか。そりゃあそうだ。
うざいに決まってる。嫌われた。
嘘をついたんだから仕方がない。でもなんで僕は嘘なんかついたんだろう。読んでないって言えばいいだけだし、今までもそうやって誤魔化したりはしてこなかったはずだ。
そもそも僕は読んでない小説を持ってきて何を考えたんだ? どうして彼女に会いに来た? キスがしたかったんか? 陽子との関係を暴こうとしたのか? 違う違う違う違うどれも違う。
思考が乱回転して収拾がつかない。
チャイムが耳を素通りしていく。
思考の暴走によって散らばった事柄は、拾い上げることも億劫で、僕はしばらく考えるふりをして立ち尽くした。最初はただ古川のことが好きなだけだった。でも事態はどんどん複雑になる。
もういいかげんにしてくれよ、舌打ちを自分自身に向かってする。
最近の僕は嘘ばかりだ。
結局、4時間目の授業をさぼってしまった。
******
この日の夜、薬の販売業者に電話をした。
やはり業者は電話に出なかった。
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