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第7話 ファーストキス




 家に帰ってから少女漫画を読んでみた。別にこの漫画を早く返したいからではない。早く彼女に感想を伝えたいからでもない。多分暇だから、なんとなく読んでみようと思って、それで本を開いただけだ。


 小説と違って、読み切るまで30分と経たなかった。


 ひと言でいうと、ハイスペックな男子グループのリーダーに、地味な黒縁眼鏡女子が恋をするという話。リーダーはとにかくモテる。歩くだけで廊下には歓声が巻き起こり、帰りには校門に出待ちの行列ができる。そんな彼はとにかく高飛車で、傲慢で、威張っていて、分かりやすくいうと綺麗でスタイリッシュなジャイアンだった。当然黒縁眼鏡の相手なんかするはずもない。最初は無視をされ、周囲には笑われ、時に女子から陰湿な嫌がらせも受け、それでもあきらめずにアタックをし続けていく。そんな少女のガッツを描いたような話だった。


 続きを恐らく古川は持っているんだろうけど、正直もう読みたくない。

 少女漫画は飽くまでも少女の目線なのだ。僕なんかに少女の気持ちは分からない。


 正直僕が共感を覚えたのは主人公の少女ではなく、ハイスペックな男子たちでもなく、リーダーに群がっていく女子でもなく、廊下の端っこを細々と歩くエキストラの一般生徒たちだった。中学、高校と、スクールカーストの最下層から学校社会を眺めてきた僕にとって、どうも作中のカーストを割り切って楽しむことが出来なくて、現実世界と重ねるように見てしまった。


 きっとハイスペック男子たちもその取り巻きの女子たちも、どこかで自分に嘘をつきながら自分の立ち位置を保持しているのだろう。黒縁眼鏡女子だってそうだ。中学時代のあの女子生徒――ユイ――のように地に足は付いていないのだろう。


 リーダーが力を失いイジメにでも遭うようになれば、きっと他の男子を好きになるのだ。多分。


 金曜日、選択授業が終わったタイミングで古川に漫画を返した。彼女は漫画を受け取り、感想を期待しているような、そんな笑みを浮かべて僕を見上げた。


「おもしろくなかった」


「え”え”ー」 


 ずこーん、と机に突っ伏してしまう古川。


「どこがつまんなかった?」


「つまんないとかじゃないよ。僕には合わないみたいだ」


「残念」


 古川は机のうえでごろんとこちらを向く。ケーキをお預けされた子どものような、物足りなさそうな顔が僕を見る。


「古川は面白いと思うの? その漫画」


「うん。面白い」


「へええ」


「相槌適当過ぎでしょ」


 古川は、気持ちよさそうに「う”う”う”っ……と」伸びながら立ち上がる。


「よいしょっ……まあ、普通に男子だもんね。成瀬」


 ぽつりと呟いた古川の『男子だもんね』が妙に異性を感じる。普通のセリフなのになんでなんだろう。


「女子は……みんなああいう恋愛がしたいもんなの?」


「人によるけど、まあ多数派なんじゃない?」


「多数派、か」


 古川はどうなんだ、と聞きたい。でもそんなこと聞けない。

 たとえ性格が悪くても、人のことを見下していても、人のことを平気で傷つけるような奴でも、それでもスペックさえ高ければその人のことを好きになれるんだろうか。古川もその類の女子なんだろうか。


「小学校の頃は運動神経のいい目立つような男子がモテたし、中学では不良っぽい男子がモテたし、女子の好みなんてそんなもんだよ」


「高校は?」


「うーん、中学と変わらないんじゃない? 不良っぽい子がモテる。まあ、それとなんとなくカッコよくてノリが良くて外交的な男子ってモテるかも」


「ふうん、じゃあ古川は?」


 口が滑った。

 あああ、言っちゃった言っちゃった。


「私? まあでも、分かるかもって感じ。雰囲気イケメンってあるじゃん。大事大事」


「でも雰囲気は雰囲気じゃないか」


「どういう意味?」


「実はかっこ悪くて、性格もダサくて、モテようと取り繕おうと必死になってる人間味のない人かもしれない」


 古川はひと息、間を作る。


「……それの何が悪いの?」


「え?」


 切れ味するどい古川の聞き慣れない口調に、血の気が少しだけ引いた。


「みんなそんなもんじゃない? 自分に完璧な自信持ってる人なんていないと思うよ」


「でも、だったら、その人を好きになる理由なんてどこにあるんだ?」


「理由なんて考えないんじゃない? だって男子でも顔だけで好きになったりするでしょ」古川は淡々と迷いなく言葉を選んでいるようだった。「それと同じで女子だったら価値が高い男が好きなんだよ。そういう立ち位置に身を置けるだけでも立派な能力のひとつなんじゃない」


 一生懸命彼女が言ってることを理解しようとするんだけど、脳は読み込み中のままグルグルマークが回転しつづけている。


 価値があって、えっと、立派な能力があって、えっと。うーんと。理解ができないから当然僕は返事にもたついた。


「成瀬考え過ぎだよ」古川は呆れて笑ってるように見えた。「片思いなんて恋の入口に過ぎないんだからみんな深く考えてないよ」


 果たして、考え過ぎなのだろうか。そんなに簡単に人のことを好きになっても良いんだろうか。不意に中学時代の、殴られた僕を憐れんだ顔で見つめるユイが浮かんだ。別に彼女が簡単に恋をしていると思った訳ではない。


「僕は考え過ぎなのか?」


「その質問がもう考え過ぎだもん」


「うーん……」


「でも、なんとなく成瀬の言ってることも分かる」


 果たして、どういうことだ。


「私あの漫画は好きだけど主人公の子がかわいいから。でも、ああゆうお決まりの恋って嫌。現実世界でもちょっとカッコイイからとか、スポーツができるとか、ワルくていけてるとか、そういうのもどうでもいいって思うかも」


 僕は続きを黙って待った。


「結局好きになったりなられたり、付き合ったりすると普通の人間同士じゃん? 学校での立ち位置とか関係ないもん」


「価値が高い男がいいんじゃなかったのか?」


「私なりの分析ね。でも自分はどーなんだって言われるとしっくりこないかも」


「ちょっと古川のことよく分かんないな」


 僕は冗談風にそういって笑った。ほんの少しだけど、古川がしっくり来ていないことに嬉しさを感じていた。


「私ね、たぶんだけど、他の人にないものを持ってる人が好きなのかも」


「例えばどういうの」


 古川はメイクで縁取られた綺麗な目をくしゃっと崩した。


「例えばぁ? 成瀬すごい聞くじゃん」


「だって、古川の言ってることが分かりにくいんだもん」


「そんなことないでしょ。分かって」


 分かって、を甘えたように言う古川。僕はいたって平然を取り繕いながら「分かんない」と返す。


「でも分かりやすい例を挙げると」


「うん」


 古川が袖を引いた。

 僕の袖を。


「成瀬みたいな人が好きかも」


「え」


「成瀬みたいな人」


 ナルセみたいなひと、って言った。確かに。

 ナルセって、僕?


 古川と視線が合わさった。甘くて、とろけてしまいそうな優しい目が僕を見ている。恥ずかしくなって僕は俯き、視線は迷子になるが、まだ古川はこちらを見ているんだろうか。鼓動がひとつ打つたび、強さを増していく。


 どきどきしてる。とてつもなく。


 彼女の上履きを履いた足が一歩、こちらに近づいた。

 甘い砂糖菓子のような匂いが鼻に香って、途切れそうな細い声が「成瀬」と僕を呼ぶ。顔を上げるとすぐに何かが鼻先にぶつかって――。


 唇に唇ががぴたりとぶつかっていた。腰が抜けるほど柔らかくて、瑞々しい感触。くちゅ、って生々しい音がして、それから少しして視界に古川が戻ってくる。彼女は僕のベルトを見るように俯いていた。角度的に表情の色合いが読めなくて、そんな彼女を見て『僕とのキスが嫌だったんだろうか』と普通に心配している自分がおかしかった。


「行こ」


 古川は僕の袖を引いて、手を離す。ぶらんと落下した腕が腰にぶつかる。古川のあとを追った。教室も廊下もいつの間にかひとりも居なくなっている。話し込んでいるうちに皆それぞれの教室に帰ってしまったんだろう。


 階段を下りる古川のうしろ姿を眺める。上品にうねりながら背中まで伸びた、甘そうな茶色いうしろ髪が階段を下るたびに揺れている。だんだん“成瀬”は本当にこんな子とキスなんてしたんだろうか? と他人事のように事実を疑いはじめた。


 だってまさか、学年で最も可愛い古川愛莉と成瀬充がキスなんかするはずがないのだ。


 ――成瀬みたいな人が好き。

 それってどういう意味。成瀬本人を好きなワケではない?

 でもだからってなんで成瀬にキスをするの?


 頭がこんがらがってきた。混乱していて、次に右足を出すのか左足を出すのかすら分からなくなりそうだった。だから自分の学年の階まで下りたところで、僕は「じゃあまた」といって別れた。古川も「お疲れ」なんて澄ました顔で言って、キスのことなんて無かったかのようだった。


 ちょっと頭を冷やしたい。そうでもしないと熱気がどんどん上昇して頭のなかがオーバーヒートしそうだから。古川と別れ、階段を駆け下りる。


「やっほう成瀬どの」


 でも、すぐに勢いは止められてしまう。


「っ……。陽子」


「何なのだその会いたくなさそうな顔はあ」


 正解だ。会いたくなかった。正直、今は陽子じゃない。


「あとにしてくれ」


「ええ?」


「自販機いってくる」


 階段を全力で下った。これまでにないぐらい盛り上がっている心臓の動きを、一刻でもはやく誤魔化したかったのかもしれない。






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