第6話 人を好きになるメカニズム
恋ぐすりセットが入っていた封筒のなかに、折りたたまれた紙が入っているのを見つけた。半紙のように薄くてA4よりも小さい。そこには好き薬の効能と人を好きになるメカニズムが細かく記されていた。
≪恋心というものはなにも奇跡なんかではなく脳科学に基づいた立派な生理現象です。脳は大きく分けて3つの部分から成り立っているのを知っていますか?
①脳幹と大脳基底核 ここは呼吸や意識、食欲などを司る原始的な脳です(本能と言ったほうが分かりやすいかもしれません)
②大脳辺縁系 ここは喜びや悲しみや怒りなどを司る感情の脳です。
③大脳新皮質 ここは学習や道徳心を司る高等な脳です。
この①から③までの部分ですが、どれひとつとして不要なものはなくてそれぞれが大切な役割を担っています。しかし、そんな大切な脳のはたらきを狂わせてしまうのが恋愛です。
人は恋をするとPEAという脳内物質を分泌します。これにより快楽物質であるドーパミンの濃度が上昇、好きな人を考えただけで高揚したり幸せになったりします。そしてこのドーパミン報酬系は、先述した①脳幹と大脳基底核が関わる部位なのです。
さて、ここまでの説明で、恋愛感情が動物的本能によるものであることが伝わったかと思います。厄介なのはここからです。脳は先述した通りで、3つの部分がそれぞれ大切な役割を担っています。そのバランスは絶妙に維持されています。そのためPEAによって恋愛感情、すなわち①の活動が高まると、代わりといっては変ですが③大脳新皮質が活動を抑えられてしまいます。
もう少し細かくいうと、この場合③に属している前頭葉の機能が低下します。これにより高度な知的能力が抑制、冷静な判断ができなくなります。だから人は、人を好きになると普段はしないような失敗を犯してしまうのです(望みなどないのに告白をしてしまうなど)。
PEAの寿命は短くて3ヶ月、長くて3年ほど続きます。所謂、恋の賞味期限というものです。それはある日突然ぷつりと切れるわけではなく、徐々に効果が薄れていき、人は冷静な思考を取り戻していくのです。
この薬は、PEAを脳内で生成させて恋のメカニズムに介入します。コントロールされた人工PEAにより、恋の期限は45日間に限定されます。どんなに好きでも辛くても、45日間が過ぎると嵐が過ぎ去ったかのように恋愛感情は消えてなくなります。
引きずることがない恋に、どうせなら思いきり溺れてみませんか? ≫
******
梅雨はまだ遠くにいるのか、水色一色の天井のような青空が空に広がっている。開け放たれた窓から入ってくる風はまだ温風とはいえない。ワイシャツ1枚で過ごすにはちょうど良い気候だ。
数学教師の無感情な声が、チョークで黒板を擦る音と混ざる。音らしい音はこれらぐらいで、教室には絵に描いたような真面目な授業風景があった。壁掛け時計を見ると授業が始まってから10分が経とうとしていた。まだ、右斜め前方の席は空いたまま。
教室の扉が乱暴に開いた。
「寝坊しましたあ!」
「こら、遅いぞ」
無感情にほんの僅かスパイスを加えた声。
「ごめんなさいい」
クラスメイト全員の視線が集中するなか、陽子は頭に手を置いて「へへへ」と笑って、右斜め前方の空席に着く。誰も何も喋ってないのに、教室には彼女に対する敵意がガスのように充満していった。そんな空気のなか、彼女はこちらを振り向いて笑った。
だから僕は慌てて視線を外した。
はあ……。
陽子は遅刻魔だ。元から1時間目の授業に遅れてくることなんてざらにあった。それを一々気にしたことなんて無かったし、彼女が教室の扉を開けるその瞬間に目すら向けてなかったと思う。……やっぱり、あの男の言っていた通りで僕は彼女を好きになってしまったんだろうか。
今ごろ脳内ではせっせとPEAがドーパミンを放出して、僕から冷静な思考力を奪っているのかもしれない。何度目かも分からない身震いが背中を走って、何もかもがうんざりして机に突っ伏した。教師の単調な声がこもって途切れ途切れになる。ああ、うるさいうるさいうるさい。
ただならぬ気配を感じて顔を上げると、眉間にしわを寄せた教師が僕を見下ろしていた。
「出てってくれ」
「はい?」
「授業、受ける気ないなら出てってくれ」
僕は素直に従って教室を出た。
トイレにいって好き薬の販売業者に電話をかけてみたが、やっぱり出ない。非通知に変えて掛けてみても同じで、むしろここまでくると1回目の電話に出たことが不思議に思えてきた。そもそもあの男は本当に業者の人間なんだろうか?
尿意もないのに陰部を出して小便器に寄りかかって、小便をする素振りをしながらこれからのことを考えてみる。が、アイディアも小便もまったく出てくる気配がない。
結局のところ忘れ薬を飲んでどちらかが消えても、どちらかは残ってしまうような気がしてきていた。古川への好意が消えるとするならば最初の望み通りだが、陽子への好意が残ってしまうのはさすがに同じクラスだししんどい。かといって陽子への好意が消えて古川への思いだけが残ってしまうんじゃ何も状況は変わってない。
だから、よし今すぐ忘れ薬を飲んでやるぞ。とは決めきれない自分がいる。
それに……。
やっぱりいざ飲もうと決意しそうになると、胸がずんと重くなって足がすくんでしまう。あの1回目に飲んだ時の、自分自身の感情が失われていく恐怖心が蘇ってくるのだ。
「成瀬くんって意外と悪いんだねえ」
休み時間になり教室に戻ると、陽子がにんまりとした顔で声を掛けてきた。人の気も知らないで。
「悪いって何がだよ」
「先生に反抗して教室を出ていくなんて、意外とやるじゃんなのだよ」
「逆。僕は出てけって言われたがわだから」
「出ていかないでしょふつう」
鬱陶しい。まず、この机にもたれかかるのをやめろ。
できれば早い段階でここを去ってくれ。
「……はあ」
「あ、成瀬くんさ」
「何」
「ライン、入れてみたよ」
「ライン?」
「電話番号よりラインが良いんでしょお?」
「別にいいとは言ってない」
「いってたじゃんよ、ほら、けいたい」
彼女はやや強引に友達の追加をさせると、やったやったとスキップを踏みながら教室を出ていった。何がやったやった、だ。スマホには≪+1≫とラインの友達が増えたことを知らせるマークが表示されていた。
無意識にため息がこぼれ出る。これから先のことを考えると気が遠くなった。
これはもしかしたら、古川よりよっぽど強敵かもしれない。陽子のほうがずっとずっとアグレッシブで節度がない。元々空気も読めないから、こちらのことなんかお構いなし。それに何より、同じクラスというのがキツイ。毎日顔を合わすうえに逃げられない。
スマホが振動した。陽子の姿は教室にない。あいつ、どこからラインを送ってきてるんだ。ため息とともにスマホを点けると、ラインが一通届いていた。
「昼休み集合ね」
古川だった。
わかった、とだけ返して僕は机に倒れた。
もう何も考えたくない……。
陽子が居座っていたはずのイスに今度は古川が座っている。おかえりなさいと思わず言いかける。やっぱり好きな人がふたりもいるなんて可笑しいし、面倒くさいし、しんどいし、耐えられない。
頼むからふたりとも居なくなってくれ。僕に平穏を返してくれ。心のなかでそう叫んだ矢先、陽子がふっと目の前に現れて、へいおん? 熱あるの? と僕のおでこに指をあててきた。ああもう――思いきり舌打ちをして彼女の像を散り散りに消す。
どうやら相当重症みたいだ。やっぱり、忘れ薬を飲まないわけにはいかないだろう。
******
最上階にあがってふたつの目の教室は選択授業がない時間はだいたいも抜けの殻だ。僕はそこから陽が照りつける中庭を見下ろしていた。
見慣れた顔ぶれの男女が今日も飽きずにバスケットボールを楽しんでいる。毎回見ていると段々パターンというものが分かるようになってきて、男子は女子がシュートを打つ時あからさまにディフェンスを控える。そして女子は男子がシュートを打つと半ばあきらめたようにこちらもまた手を抜く。それなのに互いに勝とうと頑張っているところを見ると、一体何のために必死になってボールを追っているのか意味が分からなくなってくる。
「おい時間ねえぞっ!」
坊主男子のお決まりも飛び出した。僕はその言葉を合図にうしろを振り返る。昼休みが終わるまであと7~8分。おそらくそろそろ古川が姿を現すころだろう。少しすると控えめな上履きの足音が聞こえてきて、扉が開いた。
「おつかれー」
「お疲れ」
アルフォートのリッチミルク味みたいな髪色をした古川が手を振った。相変わらず彼女の容姿は洗練されている。この学年でいちばん可愛いという彼女の立ち位置は、むしろ過小評価なんじゃないかとすら思えてくる。
彼女はこないだと違って、紙袋ではなく手に直に何か本を持ってこちらに向かってきた。その姿を見て「あ、小説読んでなかった」と借りていた本のことを思い出した。
案の定、彼女は僕の隣りまでくるとこう尋ねた。
「小説、どうだった?」
「ごめんまだ」
彼女は僅かに驚いたような顔をした。
「珍しいじゃん。忙しいの?」
「そんなにだよ。頭のなかは忙しいけど」
「なにそれ、ははっ」
整った顔がくしゃっと崩れた。心臓に直接突き刺さるような愛くるしい笑顔だ。一体これまでどれくらいの人たちを虜にしてきたんだろう。古川の隣りでこの笑顔を見られる人は、前世でどんな徳を積んできたのだろう。そんなことを真剣に思う。
「成瀬さ、漫画とか読まない?」
「漫画? 小説じゃないの?」
僕は古川の右手にぶら下がるそれを指差して聞いた。ブックカバーがされていると見分けがつかない。
「漫画。なんとなく成瀬なら読むんじゃないかなって思って、読んでみてよ」
「なんのやつ?」
受け取ってパラパラとページをめくってみる。
「……少女漫画?」
「うん」
「少女漫画、読んだことないけど」
「読みたくなかった?」
「いや……読むよ」
古川は微笑を浮かべて小さく頷いていた。微妙な空気感がどこかから入ってきて、水に1滴の墨汁を垂らしたように僕たちの空間は淀んだ。
「さっそく読むよ。次の選択授業で返すから」
「ゆっくりでいいよ」
「いや、すぐ返すよ」
「いや……選択って授業じゃん。漫画持ってきて没収されても嫌だから」
古川は少しだけ迷惑そうな顔をしている。胸の中に苦い味が広がっていく。なにか僕は失礼なことを言ってしまっただろうか。
「あ、うん。そしたら、ゆっくり読むことにする」
「……成瀬、なんかあった?」
古川が眉間にしわをよせて僕を覗き込むように見た。
「いやなにも」
「ふーん。なんか変」
「古川、考え過ぎだよ」
「そおですかっ、と……」
古川は窓枠に両肘を乗せて外を見る。力感のない瞳は、向かいの校舎なのかその上に見える青空なのか、はっきりしない場所をぼんやりと眺めている。優しい色をした髪が緩い風に乗ってうしろに靡いている。さっきまで騒がしかった中庭にはもう誰も居なくて、しばらく停滞している沈黙がなんだか怖くて、僕は思考を巡らせた。
「古川」
「え?」
古川は手の甲に頬を乗せるようにして隣りの僕を見る。
「こないだも、変って言われた」
たかが外れたように笑いだす古川。
「どうしたの急に」
「どうもしないけど、自覚は無かった」
「うん、うん、自覚があったら成瀬じゃないよね」
僕が意味を理解し兼ねていると、彼女はもう話が終わったつもりなのか、窓から肘を外して、よいしょっと大きく伸びをした。
「ふあああっと……そろそろ行きますかあ」
「……自覚があったら僕じゃないって、どういう意味?」
「……成瀬?」
古川は自宅に訪ねてきた顔も知らない訪問者に見せるような疑いの表情をしてから、また顔を崩して笑い出す。
「なんだよ」
「だってさ、なんか可笑しいんだもん成瀬」
「変なのは古川のほうだろ」
「もう行くから」と先にここを出ようと歩き出した僕を古川は呼び止めた。
「待って。分かったよ。答える」
彼女は笑みをしまい、咳払いをひとつ入れて僕に“自覚があったら成瀬じゃない理由”を話しはじめた。
「成瀬はね……自分のいいとこ分かってないんだよ」
「いや、いいところなんて」
「私が思うにね、きみは冷たいんだけど実は全然冷たくないんだよ」
「……それ、いいところなの?」
「うん!」
古川は胸を突き出すようにして自信満々に頷いた。
「だからね、そんなきみが自分のことを変だっていう自覚があるわけがないの」
「全然意味分かんないんだけど」
「以上。じゃあ私行くから」
「ええ……」
彼女は去り際に僕の頬を両手でつねって「ちゃんと小説のほうも読んでよね」といってから、教室を出ていった。
血液が一気に全身を巡っていった。
ビンタされたあとのように頬を触って、それから静まり返った教室でひとり叫んだ。
「あーもうなんなんだよ!」
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