第5話 僕に平穏を与えてくれ
昼休み、購買で買ってきたカレーパンを齧っていた。エンドレスに続いている考え事のせいで、味を一切感じない。
朝起きてからずっと忘れ薬のことを考えていた。もしかしたら飲み方を間違えていたんじゃないかとか、不良品が送り付けられていたんじゃないかとか、はたまた実はそんな商品なんて存在していなくて騙されていただけだったとか。商品を検索して見たりもしたが、表示されるのページは購入画面のみで口コミなども存在していなかった。
結局探しても出てこないってことは、存在しないインチキ商品を買わされたってことじゃないだろうか。そうかもしれないと考えていると苛立ちが募っていく。僕は乱暴にカレーパンを噛みちぎる。
あの薬が効かなかったせいで、僕はむしろ古川のことを考える機会が増えてしまった気がする。故にあんな冷たい態度も取ってしまったし、取り巻く状況はなんだか段々と悪化しているような気もする。
「やっほ!」
「うわあ!」
心臓が跳びあがって椅子から転げ落ちた。
「だ、だ、大丈夫う?」
陽子が腹立たしい心配顔を浮かべてこちらを覗き込んでいた。
「もうなんだようるさいな!」
「おこんないでおこんないでえ」
「耳ざわり通り越して目ざわりなんだよ」
タイルに転がったカレーパンを拾って、椅子に座りなおす。パンの油とカスがタイルにシミをつくった。
「あ、食べちゃダメえ」
「関係ないだろ」
僕は床に落ちた残りひと口のカレーパンを口のなかに放り込んだ。
「うわああ私弁償しようと思ったのにい」
「ひいほへふに(いいよ別に)」
「なんてった?」
「へふに」
「へふにってなに?」
「……」
頬杖を突いて顔を背けた。雲ひとつない快晴が窓の向こうに広がっている。初夏の空は青い。
「……ねえ成瀬くん」
「まだいたの」
「うん」
まだ居たどころか、陽子は隣りの席に我が物顔で座っていて、居座る気が満々といった様子だった。
「何の用だよ」
「話したい用」
「話太陽ってなに」
「話したいっていう用事」
「……太陽かと思った」
「晴れてるもんねえ」
思いのほかラリーが続いていた。いい加減に振り返る首がしんどくなって、僕は諦めて陽子に向き合った。
「ていうか、ごめんね」
「何が?」
「カレーパン」
「ふは」思わず吹き出してしまう。「いいって」
「今度返すから」
「いらないから僕に平穏をよこせ」
「へいおん? あ、熱あるの?」
陽子は僕のおでこに手のひらをつけ、僕は驚いて咄嗟に振り払った。
「やめろって! 何してんだよ」
「いやあ熱、熱があるかなと!」
「平穏! 平穏を与えてくれって言ったの! 陽子が言ってるのは平熱」
「うわあごめんねえ」
「いい加減にしてくれ」
僕はとうとう我慢できなくなって席を離れた。
トイレに向かっている途中、おでこの陽子が触れた場所だけがひんやりとしていて、それがなんとなく嫌でワイシャツで拭った。しかし何度拭っても陽子の柔らかい手指の感触だけは刻み込まれたように取れなかった。
何かがおかしい。僕のなかで確かに歯車が狂いはじめている。
忘れ薬を飲んでも効かないし、陽子には色々と乱されるし、中学時代から築き上げてきた自分なりの学校生活や、周りとの距離感というものが、段々崩れていってるのを肌で感じていた。
******
そして僕は、自分がとんでもないミスを犯していたことに気が付いたのである。
学校から家に帰り、何気なく薬の包装ケースを手に取った時、顔から血の気が引いていくのを感じた。それは例えるならば大事な試験の日に寝坊したような、既に取り返しのつかないことをしてしまったときの焦りだった。
藁にもすがる思いで、僕は取扱説明書に記載された販売業者の番号に電話をかける。7、8回ほどのコールを経て、電話は繋がった。
「はい……なんでしょう」
恐らく30代とか40代くらいの、なんともやる気のない口調の男だった。
「好き薬を間違えて飲んでしまいました」
「間違えた?」
そう。古川への思いを消そうと飲んだ薬は『好き薬』だったのだ。左側の破れた包装には“ORR001”の文字が印字されていた。どうりで忘れるどころか思いが増していく一方な訳だ。
「はい、間違えたんです。どうすれば消せますか?」
「どうすればって、忘れ薬を飲めばいいじゃねえか」
男は続けていった。客との会話とは思えないほど偉そうな物言いだった。
「何のための忘れ薬なんだよ」
「……ああ、そっか」
僕は相当な馬鹿らしい。
男のいう通りだった。僕はまだ、忘れ薬を飲んでいない。つまり古川への好意が消えてなくて当たり前なことで、電話を切ったあとにでも忘れ薬を飲めば今度こそは完全に古川への好意を消せるわけだ。
でも……納得したのも束の間で、僕は薬を飲んだときの恐怖心を思い出していた。
あれを飲んだ時の(実際には好き薬だった訳だが)自分の心が奪われていくような恐怖心をまた経験するのかと思うと、失われる恐怖のなかベッドで夜を明かさなければならないのかと考えると、足がすくむような思いだった。
「……頑張って飲んでみます」
「あいよ」
最後にひと言、確認をするつもりで言った。
「ちなみに、元々好きな人に好き薬を飲んじゃったんですけど、忘れ薬は1錠で足りますかね」
「……あ?」
「だから、もともと――」
「好きな人に好き薬は効かねえよ」
「はい?」
男は面倒くさそうに舌打ちをした。
「好きな人に好き薬飲んでも効かねえって言ってんだよ。だって元から好きなんだもん。」
それから男は半笑いの声でこういった。
「お前よ、他に誰か好きになっちゃってねえの?」
「え」
「周り見渡してみな。そういうことだからよ。じゃあな」
ガチャリ、と電話口から冷たい音が聞こえ、ツーツーツーツーと無機質な機械音が鳴っている。
――他に誰か好きになっちゃってねえの?
嘲笑うような声が頭のなかで反響する。
他に誰か好きな人だと?
そんなわけあるか! って笑い飛ばしたい。のにできない。
冷たい不安の波が背中から頭にせり上がってきた。僕は小さく首を振る。心当たりがあるような気がして、でもそれが何なのか気が付きたくなくて、何度も何度も僕は首を振った。だけど、脳は言うことを聞いてくれない。
程なくして、ひとりの女の子の姿がぽっと頭上に現れてしまった。
「陽子……」
まさか、僕が陽子のことを好きだというのか?
いやいやいやいやいや……。
あいつはただのクラスメイトだ。確かに最近陽子にペースを乱されることが多い。でもそれは彼女があまりにも空気が読めなくて、それでいて距離感もなんだか少し近いから、だから僕自身のリズムを見失っているだけなんだ。
決して好意なんかじゃない。
――成瀬くんみたいに真っすぐな人って素敵だよ。
どきっ、と心臓が高鳴った気がした。
――へいおん? あ、熱あるの?
ぬるい、柔らかい指の感触が蘇る。心臓が脈を打つギアを上げはじめる。陽子の表情や仕草が、くっきりとまるで目の前にいるかのように現れる。まるで、これまで古川が座っていたイスに陽子が座っているような、そんな感覚が襲ってくる。
陽子のことが好きになったのか? 胸に手をあててみると、絶えず心臓は力強く脈を打ち続けている。ということは……やっぱり陽子を好きになってしまったのだろうか。
僕は自分を責めた。
僕にとって最悪の結果は古川への思いが消えてくれないことだった。それだけを祈ってたんだ。それなのに、まさか自分のケアレスミスで最悪の想定をはるか高く飛び越えてしまうなんて……僕はどれだけ馬鹿なら気が済むのだ。
すぐにでも忘れ薬を飲まないと――。
僕は学習机の上に放ったままの包装ケースを手に取り、右側の薬を取りだそうとした。
「……どっちだ?」
だが、引っ掛かる何かが僕の動きを止める。
ふたつの恋心が存在しているこの状況で、忘れ薬はどっちの恋を消しにいかかるのだろう。飲んだら一体どちらの好意が消えるんだろうか。それともどちらの好意も見事消してくれるのだろうか。
僕はスマホで販売業者へ電話をかけることにした。
だが、何度かけても電話がつながることは無かった。
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