第46話 僕たちの最終日
ゴッ――。
鈍い音がして、相沢が崩れ落ちる。
植木鉢の茶色い破片に、サボテン、渇いた土が散乱していた。涙で濡れた古川が、あんぐりと口を開けたまま言う。
「陽子……?」
「いいから、はっ、はやくいくのだよ!」
「お、おう――」
古川の腕を取った。彼女を立ち上がらせて、陽子に続いて走ってアパートを飛び出す。
ドアの向こうからものすごい剣幕の「待てゴラァ!」が聞こえて、僕たちは全力で街のなかを走った。
ただひたすらに、これでもかというぐらい走って住宅街を抜け、橋を越えて、駐車場を突っ切って、やがて足がもつれて転びそうになって、うしろにいた古川が声を掛けた。
「もう、大丈夫……じゃないかな……」
気が抜けたせいか僕はそのまま耐え切れずに転んで、何回転かしたのちに仰向けになって止まった。太陽がまぶしくって手で覆う。
顔じゅう、体じゅうの殴られた場所が、空気に触れるだけで痛くなってきた。アスファルトからじりじりと焼けるような熱さが伝わって、僕は体を起こす。
「ここ……どこ?」
僕がそう聞くと、陽子は笑っていった。「知らないのだ」
車線のないアスファルトの一本道は地平線まで続いていた。家はだんだんその数を減らしていって、これから先歩いても、駅や商店街になんて永遠にたどり着けなさそうな景色だった。
「せっかくだから、ひたすら歩いてみる?」
「賛成なのだ」
僕が立ち上がって尻をはたいていると、古川はまだ怯えたままの表情で、涙声を漏らした。
「ごめんなさい。私のせいで……」
「歩きながら話すのだよ」
「……うん」
陽子が古川の手を取る。
それから向こうにまっすぐ伸びる一本道を歩き出した。
少ししてから、陽子がぎょっとした顔をして僕に言った。
「それ、しまったほうがいいのだ」
「ん……あ、やば」
握ったままのカッターには返り血が付いていた。刃先をしまってからポケットに沈めて、僕は冷静に考えてみる。
……もしかしたら僕と陽子はとんでもないことをしてしまったのかもしれない。
「……色々、やっちゃったな」
「……ごめんなさいなの、だ」
「陽子が謝る必要はないよ」
地平線はまだまだずっと先にある。でも歩き続けていたい気分だった。だから、ずっと先にあるぐらいがちょうどいいと思った。
******
最終日、陽子が海に行こうと言い出して、僕たちは電車を1時間乗り継いだところにある海水浴場に訪れた。
さすがに夏休みが始まったばかりということもあって、駅を出たところからものすごい人だかりだった。無数の陽気なうしろ姿がビーチへ通じる地下のトンネルに吸い込まれていくさまは、まるで潮の香りに誘われている生き物の群れのようだった。
トンネルの先のビーチは駅前以上にすごい人で、それでいて水着を持ってきていない僕たちには歩くぐらいしかすることが無くて、しかも砂浜だから余計に歩きづらい。
という訳ですぐに飽きてしまい、海の家でジュースだけ飲んで帰ることにした。びっくりするぐらいたっかいコーラを飲んだ。
「やっぱり川じゃない?」
今度は古川がそういって、グーグルマップで目星をつけてから、1時間ほど電車とバスを乗り継いで川に行った。
乗ったことのない路線バスはたちまち市街地の喧騒を抜け出して、森の中や畑の間を無感情に走った。うしろに流れていく車窓を見ていると観光バスに乗ったのかと思ってしまいそうになる。それぐらい、鮮やかな緑に包まれた風景は美しくて、絵具で塗ったような青空とのコントラストもそれを助長していた。
山をふたつ越えたところでバスは旋回して、川に架かった大きな橋が前方に現れて、僕たちは降車ボタンを押した。
バスを降りて、川に架かる大きな陸橋までいって脇の階段から川へ下った。
どこかで一匹だけ蝉が鳴いている。まだ生まれたばかりで体力がないのか一定の音量で「じいー」と控えめに鳴いている。きっと明日には何十匹に増えて、川の水音に負けないぐらいの鳴き声を轟かせるのだろう。
みんなで靴を脱いで川の水に浸かってみる。思いのほか冷たくてびっくりした僕だったけど、古川と陽子はきゃあきゃあ言いながら波を立てて流れる川のなかを駆けまわっていた。
でも最初こそ冷たかったけれど、だんだんぬるく感じてきて、河原にそよそよと吹くぬるい風と一緒に僕は夏を感じた。
こんなに夏を肌で感じたことが、これまでの人生であっただろうか。多分、もしかしたら最初で最後なのかもしれない。嘘のように穏やかでまるで物語のワンシーンのような心やさしい光景に胸が締め付けられていた。
昨日と大違いだ……いや、これまでの僕の人生でこんな景色を見られたことは一度もなかったと思う。
その後もひょんなことから三人で水を掛け合ったり、川面に石をぶつけて跳ねる回数を競ったり、橋の真下の日陰でお菓子をつまんだり、寝そべって昼寝をしたり、歌を歌ったりくだらない話をしたりして、今しか得られない時を過ごした。
太陽の角度はいつの間にかうんと西側に傾いた。
「花火、やらないか?」
今度は僕がそう提案して、僕たちは地元に帰ってきた。移動している間に太陽は沈んでしまい、スーパーで花火を買って、前に花火をやった公園に辿り着いた頃には完全な夜が訪れていた。
僕たちは共通認識のように、数が多そうな普通の花火から手をつけていく。
おしゃべりをしながら火をつけて、花火の先端が燃え尽きるとまた新しい花火に火をつけた。まるで火が消えている時間を嫌うように、そして何もない時間をつくってしまわぬように、お喋りだってずっと止まらなかった。
珍しく古川と僕のほうが陽子よりずっとたくさん喋っていた。
だから家庭用の花火セットはあっという間にほとんど空になって、残すところは締めの線香花火のみとなってしまった。
「いやいや、私は漫画も好きだけどね。成瀬と違って」
「僕だって嫌いなわけじゃないよ」
「嘘じゃん」
「嘘じゃないから」
「前に貸したら超つまんなそうに返してきたじゃん」
「あ、いやそれは……」
言葉に詰まって陽子の参戦を求めた僕だったが、彼女は僕らの言い争いなんて見ていなくて、心温まる映画でも観たあとのようなにんまりとした顔つきで、手に持った線香花火の炎を見つめていた。
「……今日楽しかったね」
陽子がぽつりと呟いた。
無意識に古川の顔を見ると、彼女もまた僕の顔を見ていた。
線香花火の火が音もなく消えて、いつの間にか沈黙の時間が訪れていた。
今日の間、ずっと僕が嫌っていた沈黙の時間。
一匹の蝉がじいじい鳴いている。
河原にいたやつよりも少しばかりうるさい声で。
前髪をさらう程の生ぬるい風が、葉を揺らして音を立てる。
もう一度、陽子が口を開く。
「あれ? 楽しくなかったのだ?」
「陽子――」
古川が、陽子の肩に指を触れた。その顔は決して「楽しかったね」って相槌を打つような顔じゃない。
「実は私たちね――」
「うおおおおお!」咄嗟に僕は叫んだ。「楽しかったぞおおおお!」微動だにしない真っ黒い池に向かって「今日は最高だったぞおお!」僕は叫び続けた。
叫びながら古川をちらりと窺ってみるが、まだ古川は不審そうに僕を見上げている。
「明日は晴れかあああ」だから叫び続ける。古川がまた変なことを言い出そうとしないように。なんなら朝まで叫んでやろうと思った。
「あついぞおおお」
でも、振り返るともう古川は笑顔をつくっていた。
相変わらず笑顔をつくるのが上手な古川だけど、今回はさすがにちょっとばかし無理をしているようで、引き攣った笑顔は“わかったよ”と渋々僕に言っているように見えた。




