第43話 そして夏休みが始まる
次の日、夏休み前最後の学校に陽子は来なかった。というより、来ないでくれと古川と僕でお願いした。
彼女は昨日、相沢に対してもう会わない旨のラインを送った。それを受け取った彼が一体何を思うのか知らないけれど、特に拒絶された翌日なんてのは何をしでかすか分からない。念には念を入れたほうが良いだろうということで、極めて合理的に彼女の欠席を決めさせてもらったわけだ。
何せ今日休めばもう夏休みでしばらく会うことはないのだから。
昨日陽子は、涙が止んでから真実をぽつぽつと話しはじめた。
彼女が動き出したきっかけは、食堂でなれなれしく古川に話し掛ける相沢を見たことだった。
最初は「恋敵現る」くらいにしか思っていなかったのかもしれない。しかし聞いてみれば元カレだったということで、陽子は慌てて相沢のところに出向いたわけだ。
彼からしてみたら獲物が自分から寄ってきた訳であり利用しない手はないだろう。
『俺とフレンドになってくれたら愛莉には手ださないよ』
そう相沢は言ったらしい。
そして陽子はあろうことか快諾した。
わざわざ横文字でフレンドということに何ひとつ怪しさを感じなかったんだろうか。これじゃあ近い将来、本当に詐欺師に騙されるかもしれない。こうして彼女は古川と僕の関係性を壊さないために、僕たちと縁を切り、相沢のフレンドになることを選択したわけだ。
それで……肝心の肉体関係についてだが、ふたりはまだ一線を越えていなかった。
何もしていないと聞いた僕は、安堵感でその場にへたれこんでしまいそうになった。
どうやら彼の家までは言ったらしいのだが、家に上がった途端、女から連絡がきたとかなんとかで追い返されたらしい。失礼な話だが彼にとって陽子は補欠のなかの補欠であって、優先順位はかなり下のほうだったんだろう。
まあ何もともあれ、取りあえずは一件落着ということだ。
結局のところ、陽子は友達の恋を成就させようと動いただけで相沢にこれっぽっちの好意もなかった訳だ。振り返ってみれば彼女の一連の立ち振る舞いは、誰が見ても不自然で、誰が見ても相沢を古川から引き離すための行動にしか見えなかった。
それなのに、陽子は相沢のことが好きになったんだと騒いでいた馬鹿は誰だろう。
古川も再三否定してくれていたというのに、ほとんど最後までそうやって思い込んで、下手したらそのまま期限が訪れて陽子を見放していたところだった。つくづく思う。僕はどうしようもない馬鹿野郎なんだって。
午前中に無事終業式が終わり、バイトに行くという陽子と別れて僕はひとり電車に揺られていた。ドア際に立って、早送りのように過ぎていく青い街を眺めながら、胸が締め付けられた。
夏休みか。夏休みが始まるんだ。
……絵具で塗ったような夏空も、透き通った海も、魔人のように空へ浮かぶ入道雲も、パラボラアンテナのように皆が空を向く向日葵畑も、わんわん鳴く蝉の声も、早朝のラジオ体操も、提灯がぶら下がった夏祭りも……夏休みを彩るすべてのものが、心のなかで色褪せてしまっていた。
僕にとっての夏はもう、始まる前に終わってしまうから――。
古川からラインが届いた。
≪土日、陽子と3人で遊ぶからね!≫
そのラインを見て、思わず笑みがこぼれでた。
陽子を取り戻すという目的は達成した。でも“期限が訪れるまで”は遊んでくれるという目の前の事実が、柄にもなく跳びあがるほど嬉しかった。
******
土曜日の午後、家を出て学校の最寄り駅へ向かっていた。
勿論学校へ行くためではない。取りあえず3人の中間地点で待ち合わせをすることになったからだ。
今日も太陽は凄まじい光量を解き放っていて、約1億5千万メートル先のアスファルトを触ることができないぐらいまで熱している。
こんな日はやっぱり、涼しい喫茶店か何かで冷たい飲み物を飲むのがいいんじゃないだろうか。そんなことを考えていた最中、電話が鳴った。
ふたりのどちらかだと思っていた僕は、画面に表示された知らない電話番号に面を食らう。
少し考えたのち、おそるおそる電話に出た。
「成瀬か?」
「……誰ですか?」
知らない番号が表示されていた時点で嫌な予感はしていた。何が起きるのか分からないけれど、僕は無意識のなか覚悟を決める。
「おい、切ったら殺すからそのままにしとけよ。いいか?」
「うん」
「俺相沢」
知ってる。
「そんでさ、お前に用あるわけ。だから俺んち来てよ。今すぐ」僕が返事を考えてると相沢は柔らかい口調でこういった。「あのさ別になんか怒ってるとかそういうのじゃなくて、頼みがあるだけなんだよ」
「頼みって、なに?」
「それはここじゃあ申し上げられないねえ」
恫喝するような雰囲気は微塵もなく、だからでこそ不気味だった。こめかみから、汗がひと粒時間をかけて伝っていく。
「まあとにかく、位置情報送っとくから来いよ。お前あれだから、もし来なかったら約束破ったってことで兵隊がお前のこと攫いに行くから」
「……わかった」
約束なんてしてないのに。
正直やっぱり来たか――って思っていた。
古川の友人であり、陽子の友人でもあり、且つ相沢本人に顔はしっかり割れている。陽子が関係解消の連絡をした時点で、こうした未来が訪れることはなんとなく分かっていたような気がする。
はあ……。
いつの間にか足は止まっていた。空気を抜いたビーチボールのようにみぞおちが萎んでいって、胸がずしんと重たい。絶対にただじゃ済まないことぐらいは鈍感な僕でも分かっていた。
――頼みがあるだけなんだよ。
ひとつ深く息を吸って、ゆっくり時間をかけて吐いてみる。恐怖心がほんの1ミリ軽くなった気がした。だからもう一度さっきよりもさらに深く息を吸って、さらにゆっくり息を吐いた。せめて頼みごとの内容が分かれば断る練習ができたというのに、つくづく嫌なやつ。
「……うん」
大丈夫だ。元々ストレートな悪意は慣れている。
僕はグループラインに断りのラインを入れた。
≪ごめん風邪ひいたからふたりで楽しんで≫
一旦家に戻り、念のため護身用にカッターをポケットに忍ばせ、改めて外に出る。心臓がすぐに慌てふためいてしまうから、極力呼吸を乱さないようにゆっくり、少しずつ、駅に向かって足を進めていく。
倒すことはできなくとも、せめて盾にさえなることができるのなら……。
古川と陽子への最後の恩返しのつもりで、僕はせり上がってくる恐怖心を押し殺していた。




