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第39話 救いようのない恋話



 そのまま古川は僕の震えが落ち着くまでのあいだ、手を握ってくれていた。何も言わずに。少したりとも動かずに。


 途中で若者らしき数人が――俯いていたから詳しく見ていないが――何やら小馬鹿にしながら僕たちの前を通り過ぎていったが、その時も一寸たりとも動くことなく握り続けてくれていた。


 ややあって震えが落ち着いてきた僕は、古川に礼をしっかり伝えて手を退けようと思った。でもなんて言おうか悩んでしまって、頭のなかで試行錯誤した結果、結局口から出たのはたったひと言「ありがとう」のみだった。


 古川は小さく笑って、そっと手を離す。風にさらされた僕の左手はすぐにひんやりと温度を下げてしまい、人の手はなんてあたたかいんだろうかと思った。


 ずっとあるものから苦しめられてきて、それから逃れるために人と関わらないという道を選択して生きてきた。自分だけは裏切らないから、だから僕は自分事に対してだけは真摯に向き合ってきた。


「まさか……自分が、僕が嫌っていた存在そのものだったなんて、本当に馬鹿だよ」


 ふっと風が連れてきたように、再び古川の手が重なる。


 ついさっきまで触れ合っていた手なのに何年かぶりに触れたかのように、柔らかい手指の感触が心を震わせた。


 ぽん、ぽん、と子どもを寝かしつけるように手の甲に優しく指の腹が触れる。僕自身ですら大嫌いなこの自分を、丸ごと受け入れてもらったような気がしていた。


「まったく困っちゃうよ。陽子も成瀬もクソ真面目なんだから」


「僕は真面目じゃないよ」


 彼女は吹き出して笑う。


「成瀬が真面目じゃないなら世の中の人間全員犯罪者になっちゃうよ」


「なんだよそれ」


「ここまで真面目だって分かってたら絡まなかったかも」


「悪かったな顔に書いてなくて」


 僕は辛うじてそう冗談を言った。


「……てか」


 彼女はなにかを思い出したように、スマホを見る。


「ねえ、めっちゃ時間経ってた」


 ほら、と見せられた画面には確かに思っていたよりもずっと遅い時間が表示されていた。帰路の途中で補導の対象になるかもしれない。


「そろそろ帰るか」


「あ、帰る前に、いっこだけ聞いてもいい?」


「……え、ああ」


 彼女は聞きづらいことを尋ねるように、一度呼吸を整えてから話しだした。


「どうして、薬を使ったの?」


 一瞬頭のなかがこんがらがったが、すぐに“何故好き薬を飲んで陽子のことを好きになったのか”について聞いているのだと分かった。


 別に嘘をつく必要もない。僕は簡潔にありのままを言った。


「古川のことを忘れようとしたんだよ」


「……私を忘れようとして、好き薬の力を借りて別の人を好きになろうとしたわけ?」


 そりゃあ、そう解釈するだろう。普通ならば。改めて僕は自分がいかに破滅的に馬鹿なのかを実感した。


「ははは……僕はそんなに賢くないよ。そうじゃなくて、本当は忘れ薬を飲もうとしたんだ」


「……私への好意を忘れようとして、ってこと?」


「ああ」


 あまりに馬鹿げた答えに古川の表情から陰が消えない。


「僕は古川のことを忘れたくて忘れ薬を注文した。そして包装の左側を破って錠剤を飲んだんだ。これがどういうことを意味するか古川なら分かるだろう」つまり僕は誤って好き薬を口の中に放り込んだということだ。


「あのさ、まだ信じられないんだけど、私のことは自然と好きになったわけだよね? それなのに薬でわすれようとしたってこと?」


「そういうことだな」


 薄々分かってはいたけど、いかに無駄なことをしようとしていたのかを古川は親切に説明してくれた。


「あの忘れ薬って、たしか好き薬に対してその効果を打ち消すものであって、普通の感情には使えないはずだよ」


「そうだよね。つまりどこまでも僕は馬鹿だったってことだよ」


「ふ……ふふふふ」だんだん可笑しくなってきたのか張り詰めていた古川の顔が崩れはじめる。「ふははははは……あはははは」


「ふふふふふ……面白いだろ」


 僕たちは夜空へ響いてしまわぬように、互いに声を殺して笑った。


 そもそも失敗から始まっていたんだ。


 古川を好きになって、その気持ちを効果のない忘れ薬で消そうとして、そしてさらには飲む薬を好き薬と間違えて陽子を好きになってしまって、失敗に失敗を重ねた結果、僕は今こうやって古川と協力して陽子をひとりの男から取り戻そうとしている。


 ただの片思いだったはずが、とてつもなく面倒くさくて入り組んだ展開が出来上がってしまった。


 でも、そのおかげで僕はふたりに出会えたし、自分が大嘘つきだったことにも気が付いた。


 考えれば考えるほど可笑しくて救いようのなくて馬鹿みたいな話だ。


 でも、そんな馬鹿げた展開が悪くないんじゃないかと思いはじめている自分も居る。


「古川」


 笑いの余韻が残った表情で、古川はこちらを見た。


「残り5日の仲だけどよろしく」


「うん、こちらこそ」


 僕と古川は、互いに自然な笑顔を向けていた。


 あとは陽子さえ戻ってくれば、この救いようのない話はこの上ないハッピーエンドで終えられるのだろう。結局作戦らしい作戦は決まっていなかったけど、僕たちは補導の時間を迎えたころにそれぞれの帰路に就いた。




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