第37話 蒸し暑い夏の夜
互いに1冊読破するころ、館内に蛍の光が流れはじめた。
窓の向こうを見てみると、空はいつの間にか深海に飲み込まれたかのように暗くて、夕焼けは面影を失いかけていた。20時を回る手前、僕たちはコミュニティハウスを出た。
背の高い、等間隔に立った街灯が線路沿いの道を照らしていた。電車が轟音を立てて瞬く間に僕たちを追い越して、光に吸い込まれるようにして駅のホームへと入っていく。
「ねえ、何読んでたの?」
騒音に負けないように古川は声を張って聞いてきた。
「川端康成だよ」
「えっ?」
古川は驚いたようなおどけたような顔をした。
「なんだよその顔」
「昔の小説むずくないの?」
「うん。正直かなりきつかった」
「ははは。だよね」
彼女の高らかな笑い声につられて僕も笑った。ふたりして笑うもんだからよろけて肩がぶつかり合う。正面から来るサラリーマンの男性が怪訝そうな顔をこちらに向け、大きく避けてすれ違っていった。あの人には僕たちは気の合う友人にでも見えていたのかもしれない。
――私たちの仲はあと5日です。オーケー?
不意にそれは矢のように心へ突き刺さった。
本当にあと5日で今こうしている関係が綺麗さっぱり無になるんだろうか。いや……なるのだ。そういう約束なんだから。陽子を取り戻すという共通の目的だけを持って、僕たちは今こうして一緒に居る訳なのだ。
だから一緒に居られている訳なのだ。
隣りを見る。彼女の艶やかな顔にはまだ笑いの余韻が残っていて、夏の青い夜に絶妙にマッチしている。期限のことなど今は触れてはならないような気がした。
僕たちは駅に辿りついてホームでふたり並び、ややあって流れ込んできた電車に乗った。端っこのシートが空いていて、なんとなく古川に奥を譲って座った。
電車のなかは学生よりもスーツを着た大人のほうが多くなっていて、くたびれたように目を瞑ったり、逆に開放感からか笑みを浮かべてスマホをいじったり、各々の顔色は違えど1日の勤めを終えた空気感が車内に充満していた。
「陽子、居るといいけどなあ」
「え?」
僕はびっくりして彼女の顔を見る。
「出勤だから僕たちは向かってるんじゃないのか?」
「いや、知らないよ私。だって連絡取れないもん」
確かに考えてみればそうだ。陽子連絡が取れない今、確実に彼女の予定を把握することは無理なわけだ。
「はあ、なんだか肩透かしを食らったような気分だな」
「食らわないの。まだ居ないと決まったわけじゃないんだから」
「……そうだな」
僕は疑問に思ったことを聞いた。
「あのさ、もしも陽子が出勤じゃなかったら、僕たちはどうするんだ」
「えっと……」古川は少しばかり首を傾げてから軽い口調でこういった。「普通にちょっと作戦会議していい時間になったら帰るでいいんじゃない?」
僕は明日以降のことについて尋ねたつもりだったのだが、わざわざ訂正するのも野暮だと思って、あとでまた聞いてみることにした。
「ああ……少し喋って帰ろうか」
「ね」
それで、実際にその通りになった。
ラーメン屋に陽子の姿はなく、休憩中かと思い30分ほど待ってみたが結局彼女の姿が現れることは無かった。
近くの公園でベンチに座ったとき、どちらかの服に染みついたのか、ダクトから吐き出された生麺のにおいが香った。おかげさまで空腹を思い出し、この蒸し暑い夜なのに無性にラーメンが恋しくなってしまった。
「作戦会議の前に、コンビニ行かないか?」
「いいよ」
すぐそこのコンビニで、お互いにカップラーメンと飲み物を買って公園に戻った。陽子の店と同じ、豚骨のラーメンを気が付いたら買っていて、もろに匂いの影響を受けている自分がなんだか恥ずかしい。
蓋を剥がしてひと口、ふた口、さん口と麺を啜っているといつの間にか額に汗が生まれ、顔じゅうが熱くなった。
「……あついね」
「……ラーメンを食べる季節じゃないな」
せめてスープのないカップ焼きそばにすればよかった。結局僕は麺をすべて平らげたあと、スープをその辺に捨てる訳にもいかず、時間をかけて飲み干した。
「すごい汗」と指をさして古川は笑っているが、彼女だって部活のあとのように汗で髪の毛が額に張りついていた。「そっちこそ」と言い返して僕はかるく笑った。こんなに熱いのに蝉の鳴き声がしていないことが、炭酸の抜けたコーラのようにあるべきものがない感じがして気持ち悪かった。
「作戦……どうしよっか。てかそもそも、今日陽子のところに押しかけようとしたのは無理があったかもね」
「……何も考えてなかったからな」
「そもそもなんで陽子が相沢のところに行かなければならなかったのかを考えないとダメだね」
「ああ、そうだね」
今一度、彼女が僕たちの前から去った経緯を振り返ってみることにした。
まず、僕が体調を崩して休んでいるときに陽子からラインがあったのだ。話したいことがあるから夜に電話したいって。体調不良で休んでいる人間にわざわざ声を掛けてくるのだからそれなりに緊急の用件だとは思う。
しかし結局彼女からの電話は来なかった。それどころか次の日になると三人のグループラインから退会をしていたのだ。
「陽子がグループラインから抜けた日の前日、僕は陽子から電話したいと言われていたんだ。正直陽子らしくないとは思った。体調を崩している人間にそういうお願い事をするような奴じゃないと思う」
「言ってたね。それは私も思うよ」古川は腕を組む。「私のところに来た時間よりも、たしかあとの話だったよね」
「だけど結局それっきりで連絡はなくて、翌日にはグループラインから抜けていた。そして相沢と繋がっていた」
「……そう考えるとやっぱり相沢に何かしらのアクションを仕掛けたとしか思えないなあ」
「……で、相沢はそれに乗ったと」
「乗ったというか、うまく利用したんだよね」
多分だけど、相沢という男は生まれきっての純粋な悪人なのだと思う。何かこう自分を大きく見せたいとか、何か目的があってそうしているとかではなくて、例えるならば小学校低学年くらいの物心がついたあたりから悪いやつは悪い。
彼はそのタイプで、もう悪いことが骨の奥まで染みついているのだろう。
陽子が近寄った時点で、彼女をどうやって利用しようかと算段がスタートしていたのかもしれない。
「……早いほうがいいかもな」
そしてそういう奴は、目的を遂行するまで時間をかけないのだ。
「うん、そうだね」
「古川、相沢とは連絡とってないの?」
「今は取ってないけど」
古川はなにかを察したように僕の顔を見る。
「成瀬、言いたいことは分かるよ」
「え?」
「私が相沢に連絡して、何があったのかを聞くなり陽子から離れるように言うなりしたらどうなんだって思うでしょ」
概ね、僕の言いたいことは当たっていた。だが、そんなことは古川だって当然分かっているはずだろう。分かっていて敢えてしていないのだ。
「私もそうしようって思ったよ、最初はね」
「うん」
「でもさ、あんまり不用意に刺激しないほうがいいと思ったんだよね」
「すぐ、キレたりするから?」
「というより、私たち、陽子を人質に取られているようなもんでしょ。あのふたりがどこまでいったのか知らないけど、離されそうになったら何をし始めるかほんとわかんないから」
「……うん」
「陽子、たぶん処女でしょ」
「しらないよ」
「私、陽子にだけは手出ししてほしくない」
さっきよりも現実的となった淫らな陽子の姿に、さあーっと顔じゅうの血液がキャップを外したように抜け落ちていく。
「明日……陽子のところに行くしかないな」




