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第35話 残り5日間



 僕は腰抜けやろう。もうこれっきりの腰抜けやろう

 あの罵倒は彼女が僕に向ける最大限の侮辱なのかもしれない。


 腰が抜けているせいかなかなか家まで辿りつかず、汗でぐっしょり体を濡らした僕は、坂道の途中にある自販機でアクエリアスを買った。キンキンに冷えた甘じょっぱい液体を喉に流し込むと、冷たい感触が食道を通り抜けて胃に落ちていった。


 夕方がまだまだ遠い抜けるような青空から、まるでトースターのような強い熱線が降り注いでいた。目に入りたそうな汗を袖で乱暴に拭う。


 古川は今ごろどこで何をしているんだろう。


 陽子のところに行くと言っていたけれど、学校に戻ったのだろうか。それともバイト先に向かったのか或いは陽子の家まで押しかけに行ったのか。なんとなく気になってポケットからスマホを取りだしてみる。画面が真っ暗だった。電源を落としていたことを忘れていた。


 ため息をついて、再び歩き出す。


 この期に及んでしっかりショックを受けている自分が可笑しかった。

 授業が終わったあとの教室に古川とふたり残った日の出来事を思い出していた。初めて面と向かって「好きだよ」と言われたあの日のこと。


 たとえ好き薬を飲んでいるとはいえ、人ひとりとすらまとも関わることのできない僕のことを、それを分かっていながらもそんな僕を好きだと言ってくれた。

 

 ――真実なんていっこあれば十分だよ。


 僕も古川が好きだと言った直後、彼女はそう言ってくれた。薬で繋がっただけの嘘の関係なのに、あの瞬間だけは彼女のいう“真実”を信じて、僕は差し出された手を握ったのだ。白くて柔らかくてすべすべしていて若干ひんやりとしていて、同じ人間のものとは思えないぐらいに綺麗な手だった。


 お互いに好きであるということを、僕はあの瞬間、受け入れたんだ。


 実際は薬で繋がれただけの関係性なのに。


 舌打ちをして頭を掻く。髪の毛に浸かりきれず浮いた汗が四方八方に散っていく。

 どうしてこんなに目を覆うほどに眩しくて、地に落ちるほどに切ないんだろう――。


 どうやら僕は()()()たった一つの真実を失ってしまったような気分になってしまっている。実際のところ彼女のいう真実なんて、人為的に作られた一時的な恋心によるまやかしでしかないのに。


 本当の意味での真実なんてあそこには無かったはずなのに。それが分かっているのにどうしてこんなにもあの時の思い出に縋ってしまっているのだろう。


 時間をかけて家に辿りついて、温めの温度のシャワーを長時間浴びた。色々と洗い流したかったが当然頭のなかまではどれだけシャワーを浴びても流し落とすことはできなかった。


 髪も乾かさずに机の引き出しを開ける。無神経に何にも包まってない包装ケースが顔を出す。僕はそれを取って机の上に置いた。相変わらず右側の『PEA045』という印字――忘れ薬――は押し潰されることなく綺麗なまま残っている。


 小さくため息を吐く。机の上に置いたそれを再び手に取ってみる。自分自身の動きがえらく緩慢だなと思った。パッパと包装を破って、その小さな錠剤を口の中に放り込めばいいのに。なんて他人の行動にケチをつけるように僕は自分自身へ文句を付けていた。


 僕は手に持った包装ケースをまた机の上に戻す。前に飲もうとしたときよりも、胸が重い。飲むことが億劫になっていた。


 これを飲んで陽子のことを忘れ、ラインをブロックして古川の拒絶すればいいだけだ。そうすれば夏休みを経て、残り香も感じることなく僕たちの関係は見えないあいだに終焉を迎えていることだろう。


 スマホの電源を入れる。焦らすように時間をかけて起動したスマホには、しばらく経っても何ひとつ通知が来ない。僕はしばし逡巡したのち、カレンダーを開いて逆算を始めてみた。日曜日、土曜日、金曜日、木曜日、水曜日……。今日が水曜日だから、つまり。


 5日後の月曜日にはもう期限が切れているということか。何をしなくても5日が経てば、古川は僕に対する好意をきれいさっぱり忘れて、僕は陽子に対する思いをきれいさっぱり忘れる。そうしたときに恐らく僕たちは元居た場所にそれぞれ帰っていくんだろう。


 古川はこれまで通り校内の人気者であり続け、僕は教室の隅っこで人知れず生き続ける。それから陽子は相変わらず空気を読まないでクラスメイトに……クラスメイトに……いや……もしかしたら相沢とそのまま……ちょっと待っくれ。


 古川が言っていた言葉を反芻する。


『相沢が利用しようとしてるの分かってるんでしょ?』


『それでほっとくんだね』


 期限が切れたあと、陽子と相沢の関係はどうなるんだろう。


 もしも忘れ薬を飲んだら、もしも薬の期限が切れたら、いよいよ僕と陽子のあいだに関係などなくなるだろう。彼女への好意をすっかり忘れた僕は、その他大勢のクラスメイトとして彼女をカウントし、いや……カウントすらせずに、視界の端っこを流れる景色と彼女が同化することだろう。


 そうなっても、僕が見えてないだけで、陽子と相沢のいびつな関係は存在し続けるのかもしれない。陽子のよの字も出てこないあいだにも。クラスメイトと一緒になって遅刻した彼女に冷たい視線を送っているあいだにも。


 一体何がどうなって相沢と陽子が繋がったのかは知らないが、恐らく陽子は彼にとって都合の良い存在なのだ。たとえ僕らの図が変わっても相沢にとっては関係のない話であり、変わらず陽子は相沢と繋がり続けていく。相沢が彼女のことを不要と判断するまでは。


 そして僕は対岸どころかひとつふたつ山の向こう側で彼女の気配すらも感じずに自分のことだけ考えて生きてるんだ。


 一瞬、淫らな陽子が頭のなかに浮かんで、僕は握りこぶしを自分の足に振り落とした。太ももからじいんと痺れた痛みが広がっていく。


 死ぬほど想像したくなかったけれど、実際のところじゅうぶんにあり得る結末だった。あの陽子が、変にまじめで純粋で自分の思いに真っすぐな陽子が、相沢に良いように利用されていく。きっと多分だけど、彼は僕が思っているよりもずっと悪だ。


 常に他人を思い通りにしようとし、できないのなら力づくでも達成しようとするタイプだろう。


『相沢が利用しようとしてるの分かってるんでしょ?』


 でも、陽子は相沢のことが好きなのだ。


『それでほっとくんだね』


 でも、陽子から相沢のところに行ったんだ。


『最低』


 最低じゃない……。

 いや、最低なのか……?

 本当はものすごく最低なのかもしれない。


 薬が切れたあとの自分とそして陽子と相沢を想像すると、末恐ろしくなった。


 やっぱりどう考えても、このまま放っておいて良いわけが無かった。

 手に取ったままのスマホからラインを開いて、陽子のアイコンをタップした。ダメもとでいいから1回だけでも――そう思って音声通話と書かれた文字の上に親指をかざしたのだが。


「……駄目だ」


 ばか正直に電話したところで陽子は出ない。僕はしばし考えたのち、スマホを操作をやり直して、今度こそ音声通話のボタンを触った。


 コールは数回で止んで、少しして、電話の向こうから感情のない冷たい声がした。


「なんの用」


「……集合、してくれないか」






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