第32話 彼女は彼のことが好きなのだ
昼休みのチャイムとともに、古川からラインが来た。
≪集合しよ≫
既読したことを後悔しながらスマホをポケットに沈めた。
なるべく古川に会ってしまわないようこそこそと食堂へ行き、たまごサンドと缶コーヒーを買って教室に戻ってくる。自分の席でさっそくたまごサンドを齧っていると、ふと前のほうで同じたまごサンドを食べている陽子が目に入った。
意外といい人なのだ――さっきの言葉を思い出して胸が苦しくなる。
ふたりで食堂に買いに行ったり一緒に食べたりしていたことを思い出していると、急に切なくなってきた。柄にもないけれど、あれはあれできっと良い時間だったんだろう。失って初めて分かる大切さというものを、僕は初めて体験した気分になっていた。
……良い時間だった?
なんだか、自分で言い表したその言葉が妙に引っ掛かった。
果たして、僕は本当に良い時間を過ごしてきたのだろうか。僕はこれまで一度でも、陽子と過ごした時を名残惜しく思ったことがあっただろうか。一度でもこの時間を大切にしようと願ったことがあっただろうか。
じゃあ、もし本当に良い時間だったのだとしたら、どうしてもっと大切にしなかったんだ。
良い時間だった、は無いだろう。
むしろ僕はいつも陽子や古川と過ごす時間を、絶対にこの世界には浸からないぞという強い決意のもと一歩下がって傍観していたんだ。しっかりとした靴を履いて塗り固まった地面の上に立って。
陽子と一緒に食堂へ行ってパンを買ったり、夜遅くに学校近くの公園で喋ったり、古川と三人で花火をしたり、ラーメンを食べに行ったり……、傍目で見たら煌びやかに見える出来事の数々も、心底楽しめたと思える日なんて1日たりとも無かった。
握ったこぶしが机上で震えていた。机を投げ飛ばしてやりたい気分だった。
僕は最初、相沢という人物が加わったことによって僕たちの関係性が変わってしまったんだと、そう思ってた。しかしその論理は破綻していたのだ。
相沢が居なければ僕はふたりとじょうずに向き合えていたのだろうか?
相沢が登場するまでの間、僕はふたりと楽しい日々を送ることができていたのだろうか?
こうやって自分に問いて見れば答えは明らかだったのだ。
僕は向き合おうとすらしてこなかったし、楽しい日々なんて送ってないし送ろうともしていない。つまり、関係性は壊れてしまったのではなく、元々構築されていなかったのだ。百歩譲ってほんの僅かの関係性があったのかもしれないが、それは古川と陽子がふたりの力で積み上げたもので、しかしそれすらも僕は無碍にした。
そもそも何も始まっていなかったんだ。
何を始めることもできなかったんだ。
――意外といい人なのだよ。
急に胸の奥がぎゅっと痛んだ。
鋭くて自分自身に向かって何か訴えかけるような痛みだった。
痛みの理由を僕はこう考察した。
やはり陽子が相沢について「意外といい人なのだよ」といったことは本心なのかもしれない、と。
数十日間かけても一切心を許さない僕よりも、たった数日でぎゅっと距離縮めてくれた彼のほうが魅力的に映るのは自然だ。それにきっと彼は強面だからそのぶん優しさとのギャップが大きくて優しさも二倍増しに――ってちがうちがうちがう全然ちがう。
全然違う。違う違う違う。
なんで、さっきから“意外といい人”という言葉だけをピックアップしてしているんだ。陽子が言った言葉は「好きなのだ。意外といい人なのだよ」だったはずだ。
何故僕は“好きなのだ”という言葉を無視し続けている。
むしろ“好きなのだ”が彼女の本心なんじゃないのか。
なんで本心じゃないって決めつけられるというんだ。
僕はどれだけ自分にとって都合よく解釈すれば気が済むんだ。
いい加減に目を覚ませ。もう陽子は成瀬から離れて、相沢といることを選択したんだ。でもそれでいいじゃないか。これまでずっと一緒に居たのに、僕のほうから散々遠ざけてきたのだから。
******
僕はその日、ホームルームが終わるといの一番に教室を出た。出かけに視線が合った陽子から目を伏せて階段を駆け下りて、昇降口で乱暴にローファーへ履き替えて、暴力的な夏の日差しの下を歩いた。向けるところのない怒りが、もうどうすることもできないのに溜まっていく。全身から滴り落ちる汗に、うまいこと怒りが混ざって排出されればいいのにと馬鹿なことを思った。
ああ、イライラする。僕も相沢もこの世のすべても跡形もなく吹っ飛んでしまえ。世界よ終われ。いいやむしろこの手で終わらせてやる。
今なら相沢に凄まれても言い返せるんじゃないか? と、ふと思ったけどちょっとばかし想像したらすぐに胃が縮み上がってきて、僕は考えるのをやめた。
はあ……とため息をひとつ吐いて、僕は改めて思う。
今日こそは、必ず、絶対に、忘れ薬を飲んでしまおう――。
そしてラインも忘れずにブロックして学校も休んでそのまま夏休みを迎える。
そうすれば次に彼女たちに会うのは1ヶ月半も先だ。いい加減ほとぼりが冷めているだろう。
今度こそ邪魔が入らないようにと、歩きながらスマホの電源を落とし、最寄り駅についてちょうど停車していた電車に駆け込んだ。車内は冷蔵庫のように冷やされていて、学生もまだ少なく空席が目立っていた。
端っこの席に座って乱れた呼吸を整えていると、電車はゆっくりと動き出してホームから離れていった。
不自然に座席が沈み、横を向いてみると誰かがわざわざ隣に腰を掛けたようだった。こんなに空いているのにわざわざ隣に座ってくるなよ――と思ったところ、
「成瀬じゃん」
聞き覚えのある声で話しかけられた。
「え」
「え、じゃないよ」
無邪気な表情の古川が僕の顔を見て笑っていた。
どうやら、また今回も邪魔が入ったのかもしれない。
僕は自宅の最寄り駅で、古川と一緒に電車を降りることになってしまった。




