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第3話 仮面をかぶった悪魔




 初めのほうは、学校を休んでいるんだろうとか、たまたま用事があってこれなくなったんだろうとか、それぐらいにしか思わなかった。しかし会った時の僕に対する態度が少しずつドライになっていく。心に靄がだんだん覆っていく。


 まず決定的に変わったのが、僕に本を紹介しなくなった。なんとか本の紹介を受けたとしても、僕に感想を求めなくなった。せっかく読んだのに感想が聞きたくないのか――独りよがりな悲しみにひとり胸を重くした。


 あの楽しそうな表情は、弾んだ声は、なんだったのだろう。晩に天井へ今日の彼女を浮かべ、ため息を漏らすことが増え、解決策も見つからないまま翌日には根拠のない期待を背負って図書室に足を運ぶ。


 そんな日々を過ごしていく間にユイはどんどん遠ざかっていく。図書室に姿を見せる頻度も週に1度程度になり、その1度ですら本を借りる手続きを済ませると風のように去った。恋は盲目という言葉をあとになって知ったのだが、まさしくこの頃の僕は恋に溺れて正常な視界というものを保てなくなっていたのだろう。


 僕はとうとう図書室を出ることにした。

 つまり、ユイに会うために彼女の教室まで足を運んだのだ。


「どうしたの?」


 ユイは目を大きくして僕の来訪に驚いた。そんなユイを見て、逆に僕は驚いていた。

 その顔からは黒縁眼鏡が無くなっていた。


 無防備になった小ぶりな目には薄っすらと化粧が施されていて、整っていた眉は見事に消えてなくなり、茶色い線が引かれていた。途端に頭のなかに自分のクラスにいる不良の姿が浮かび上がって少し嫌な気分になった。恐らく彼らと同じ階段を上がっているように感じたんだろう。


 彼女は僕についてくるように言って、僕たちは少しの時間、ひとつ上の階の人気がない廊下で立ち話をした。ほんの数分程度だったと思う。他愛もない、さっぱり思い出せない程度の雑談だ。けれど、この5分にも満たない時間がほんの数秒に感じたことだけはハッキリと覚えている。


 ひと言で表すなら幸福だった。

 見た目の変化なんてどうでも良くなった。


 細胞がはじけ飛ぶような喜びが体の内側から湧き上がって、ここしばらくの間溜まっていたフラストレーションが一瞬にして満たされた。バカになった僕は、すれ違いの日々はきっと何かの間違いだったんだと解釈をして、これから図書室で過ごす未来をまるで必然のごとく思い描いた。何故ユイがひとつ上の階に僕を連れ出したのかも考えずに。


 だから、そんな幼稚すぎる男には天誅が下ったのだ。


「お前が成瀬?」


 次の日の休み時間、図書室から借りてきた本を読んでいたところだった。

 振り向くと、綺麗にサイドを刈り上げた男子が眉間にしわを作って僕のことを見下ろしていた。動揺したこちらの姿で悟ったんだろう、彼は「ついてこい」とぶっきらぼうに言って教室を出た。


 慌ててついて歩くと、男子がとある教室に入っていった。見覚えのありすぎるそこの教室に心臓が嫌な脈を打った。僕は、昨日訪ねたばかりのそこの中へ、恐る恐る足を踏み入れる。


 真っ先に視界が捉えたのは、窓際に立ってこちらを見ているユイの姿だった。


「こいつが成瀬だって」


「なんだよカスみてぇなやつじゃん」


 頭から急激に血液が抜け落ちていく。

 金髪の男が、ユイの腰のあたりを抱き寄せていた。太い腕。小麦色の肌。ハリネズミのように尖った髪。彼女はどこか不安そうに見上げた。その先には攻撃的な目で僕を睨みつける顔がある。


「なぁにジロジロ見てんだコラァ!」


「ごっ、ごめんなさい……」


「やっちゃっていいよお前ら」


 それが何の合図か分からないままに、顔に衝撃が走った。視界がぐらついて床に崩れ落ちる。

 ひと呼吸遅れて頬にじんじんと痛みが走った。僕はいま、殴られたんだ。顔を上げると、すぐさま足が飛んできて、再び床に叩きつけられる。蹲ったところにパンチとキックがひっきりなしに襲い掛かり、挙句の果てには背中に乗られ冷たいタイルに伏せさせられる。


 金髪男が正面から僕の髪を掴み上げた。


「おい、誰の彼女に手を出してんだよオマエ」


 ガムをくちゃくちゃ下品に噛んで、笑ってる。

 背中に乗った男は「答えろよ!」といって僕の顔をタイルに押し付けた。すごい力だ。息がしづらくって抵抗するのだけれど、さらに強い力で押し付けられ、頬や鼻を何度か床に打った。鉄の味がいつの間にか口のなかに広がっていて、口から出たものか鼻から出たものかそれすらも分からない。


 教室は賑やかなままだった。こんな屈辱を味わっている人間が居るって言うのにこの場所にはいつもと変わらない時間が流れている。それが終わってる。


「眼鏡を外したユイ、かわいいだろ?」


 金髪が喋っていた。視界いっぱいがタイルで顔は見えないけど、余裕に満ち溢れたような声だった。


「外したほうが良いぞって言ったの俺」


「……」


「図書室なんかいかないで俺らと遊ぼうぜって誘ったのも俺」


「……」


「でもさ、いっこだけこいつから言ってきたことがあるんだよ」


 髪を掴む力は緩くなっていた。でも、顔を上げる気が不思議と起きなかった。


「成瀬という男がしつこく迫ってくるんだって」


「……え」


「約束してくれるか? もう二度とユイに近付かないって」


 思考回路のチェーンが錆びついてしまったかのように、うまく回ってくれなかった。しつこく迫ってくるって、一体どういう意味なんだろう。


「約束してくれるのか!?」金髪が声を荒げて言った。


 身体のどこかが、勝手に「はい」と返事をした。

 背中に乗っていた不良に立たされ、首根っこを掴まれて教室から追い出される。


 教室の喧騒が、不良たちの笑い声が、耳を素通りしていく。深夜のテレビ画面に映る砂嵐が頭のなかを埋め尽くす。教室を出て、空っぽのような身体でうしろを振り返った。ユイが、ふたつやみっつくらい老けた、憐れんだような表情で僕を見ていた。


 可哀そうだと思っているのか、申し訳ないと思っているのか、それか何かしら誤解があってそれを伝えたいと思っているのか。


 でも、彼女はそんな顔をしながらも、しっかりと金髪に寄り添って控えめな胸を押し付けている。ちぐはぐ過ぎて訳が分からないのに、ただ最悪だという感情だけはハッキリ手に取るように分かる。深い穴に突き落とされたような絶望感に打ちのめされた。結局彼女がこの事件以降、僕に対して弁解をしたり説明をしたりすることはなかった。


 この出来事は、僕の想像をはるかに超えて心に深い傷を残した。

 タイミングもシチュエーションも何から何まで最悪だったのだ。


 嘘の世界から逃避してたどり着いた存在であったこと。

 しかし気付かぬ間に強烈に拒絶をされていたこと。

 そして殴られている僕を憐れんだ顔で見ているのに、体はべったり加害者に寄り添っていたことーー。


 正直、これが最もツライ。

 仮面だけ被っていて、身体は悪魔に身を委ねているイメージが頭にこびれ付いた。


 それからもうひとつ、傷口を深めた気付きがある。

 それは、あのイジメられている“イイやつ”の目線が分かったことだ。

 かつて仲良くしてくれた存在が悪魔に身を委ね、ともにこちらを見下ろしている。

 生きるために必死だったとか、足並みをそろえるためだったとか、そんなことは彼にとってはどうでも良かった。彼の目に映ったものは、まさしく友達の仮面をかぶった悪魔だったに違いない。


 僕も“嘘”をついていたのだ。

 あれほど嫌っていた嘘をしっかり身に纏って生きていた。

 自分がすこぶる嫌いになった。


 程なくして、僕はイジメに遭った。あの金髪とうちのクラスの不良はどこかで繋がっていたんだろう。何も不思議なことじゃない。でも焦ることは無かった。もう既に人と関わる自信を失っていた僕は、ひとりで生きていくと決めていたから。


 むしろ慣れてみると意外に独りぼっちは悪くなくて、ようやく心に平穏が訪れた気分になった。孤独になることを避けようと必死に頑張っていたのに、今度は他者との繋がりを全力で拒んでいる自分が可笑しかった。


 嫌われても殴られてもいい。

 僕はありのままの自分で、自分が楽な生き方をしていくと決めたんだ。







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