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第24話 恋の病



 気持ちの整理が落ち着かないまま風が吹いたかのように授業が終わってしまった。誰もいなくなった教室で、空間ごと入れ替えたように僕と古川だけが変わりなく座っている。下の階で元気なんて言葉では収まりそうもない騒音が響き渡っていて、却ってそれが僕たちの沈黙を強調している。


 何故か、古川はあれからひと言も発しない。今か今かとこちらは待っていたのだが、授業が終わってからも最後の生徒がこの教室を出ていってからも沈黙を貫いていた。


「で、なにか用なの」


「っ……」


 古川は一瞬なにかを言おうとしてびくっとしたけれど、ふたたび体は椅子に沈んでいく。意味の分からない挙動だった。


「やっぱりなんでもないなら、僕は帰るよ」


「なんでよ。なんでそうなるの」


「は? だって、何も喋らないから」


「違うじゃん。なんでいきなり冷たくするの」


 ドラマで大事なセリフを見落とした時みたいに、展開についていけない。古川の滑らかな眉間にしわが寄って目には力がこもっている。冗談じゃなく、明らかに怒っている。見たことのない古川の怒った顔。


 なんで怒ってるの? 僕が何をしたんだ。


「なんでいつも私が近くに行くと嫌がるの」


「いや別にっ」


「そんなに嫌ならいいよもう……いつもそうじゃん。やっとこっち向いて笑ってくれたと思って、だから壁がなくなったと思ってそっちに行くと、すぐに突き放すじゃん。なんでそんなに意地悪なの」


「そうじゃない。僕は別に、そんなつもりはない」


「今だって、私が好きだよって言ったら急によそよそしくしちゃって、残って話ししようって言ったら露骨に嫌な顔したじゃん……もうショックだよ」


「いや違う。そんなつもりないんだ」


「もうごめんね、なんか面倒くさい女で」


「違う、とにかく違くって」


 突然のことに頭のなかで歯車がうまく回らない。とにかくそういうつもりは無いんだと言いたいのに論理だてて説明できない。


「ちがう。とにかく……なんていうか……古川がそんな風に思っているなんて想像もつかなかったんだ」


「……どうゆうこと」


 力ない古川。


「僕は、その、自分なんかが、自分なんかが誰かに好かれるなんて、やっぱり信じることができないんだ」


「なんで?」


「それは……分からないけど、でも、人はたぶん本当の自分と本当じゃない自分がいる」ユイを思い浮かべていた。図書館で僕に優しい笑みで微笑みかけるユイと、殴られている僕を憐憫の瞳で見下ろすユイ。「どうしても僕には本当の部分しか受け入れられないんだよ。でも、本当じゃない部分のほうが大事なんだと思う」


「うん?」


 古川は、こちらの言葉を待っていた。真っすぐで真剣な目をしている。


「本音じゃない部分もしっかり受け入れて生きていかないといけないのに、僕にはそれができない。嘘が真実すべてを塗り替えてしまうんだ。だから、それが怖くて、それだったら自分ひとりで真実のみの世界で生きていたい。ってそう思ってるんだ」


「正直、成瀬の言ってることよく分かんないけど、つまり、私のことがはやっぱり信用できないってことでいいのかな」


 だから違うんだ。僕のそのコンプレックスの中に君は存在しない。


「違う」


「違うの?」


 このまま古川にのめり込んでいって、もしも彼女の嘘に触れたときに、取り返しのつかないことになるのが怖い。すべては僕個人の問題だ。最低なほどの自己都合だ。


「これは僕個人の問題だ。古川を信じられないとか、そういうのはない」


「ねえ……私ばかでよく分からないけどさあ、私はそんな風にいつも悩んでる成瀬を知ってる。その……ごめんちょっと取り乱しちゃったけど、成瀬はいつも人と距離感を計ってて、でもそのくせ馬鹿みたいに正直で真面目じゃん。もしかしたら成瀬はそんな自分が嫌なのかもしれないけど、私はそんな成瀬を好きになっちゃったんだよ」


 いつの間にか古川は席を立っていて、僕の真横で、もう笑顔を思い出せないぐらいの真剣な面持ちをしている。


「……だったらそれが私たちにとっての真実なんじゃないのかな」


 心臓の音が大きくなって、内側から体を揺らしている。


「僕たちにとっての真実……」


「うん。分かったような口きいてごめん」


 でも、と古川は続けた。


「私は成瀬が好きだよ。成瀬は?」


 僕はどうなんだろう――そう自分自身に問いかけるけど、答えなんて当然決まっていた。

 おそるおそる古川の顔を見上げる。彼女はなにか覚悟を決めたかのようなそんな据わった目をしていた。


 僕は立ち上がって、目線を合わせて言った。


「僕は……古川が好きだよ」


「じゃあ、それが私たちの真実だよ」


 表情が僅かに綻んだ古川は、こちらに背伸びをするようにして笑顔を飛ばしてきた。


「真実なんていっこあれば十分だよ」


 僕は何も言うことができなかった。というより何も考えられない。頭のなかには古川が言った“僕たちの真実”が占拠している。真実だなんて、なんてズルい表現をしてくれるんだろう。これじゃあもう嘘だなんて言うことができなくなるじゃないか。


 真っすぐ僕を見るその顔は、笑顔はほんの僅か控えめになったけど、滲んでる優しさは相変わらずで「君のこと受け入れるよ」と言ってくれているようだった。


 そっと触れ合っていた彼女の手が、するすると生き物のように纏わりついて互い違いになり、それから指の股にぎちぎちと食い込んできた。柔らかくてほんのり冷たい。食い込んだひとつひとつの指に彼女の意思が宿っていて、ぐぐっとと引き寄せて離してくれない。


 どきどきする。顔じゅうが熱い。

 古川がさっきよりもずっと近くにいて、視界がぼやける。


 仄かなシャンプーの香りが鼻を抜け、体温を鼻先に感じて、そして僕は目を閉じた。


「……だめ」


 手のぬくもりと、鼻先に感じていた体温が嘘のように消えた。

 はっとして瞼を開けると、こちらから一歩離れたところで古川が俯きながら首を小さく振っている。


「まだ……期限来てないよね、ごめんね」


 前に、同じこの場所で彼女と唇を重ねた時のことを思い出していた。


「……そうだね」


「ごめん、またね」


 古川は、にこりと笑みをつくりなおして、手を振った。それを受けた僕が、自動で呼応する機械のように手を振っている間に彼女は教室から出ていった。


 下の階の生徒同士の気が狂ったような騒音が蘇った。それから時計の針が動きはじめて、僕はようやく息を吐きだすことを思い出した。


 深く息を吐いてみた。けれど、思考は依然戻らない。キスをしようとしていた自分を必死になって責めてみるのだけれど、どこか他人事で中身がない。とんでもないことをしようとしたはずなのに、とんでもないことをした感覚を抱けない。


 力なくイスに座って、授業中のように机にへばりついて頭を抱えた。

 目を瞑って、息を吸って吐いてを繰り返す。落ち着かないと、落ち着け自分。とにかく、いいから、一旦落ち着くんだ。そうやってしばらくの間、机に突っ伏しながら寝息のような深い呼吸を繰り返した。


 チャイムが鳴っていた気がするし、次の授業がもう始まったような気もする。それでもお構いなしでそのままにしていると、靄がほんの僅かに解けはじめた。


 心の声が聞こえた。「何してんだよ目を覚ませ!」僕のことをよく知っている声だった。何故こんなにも人を避けるのかを知っていて、僕が何を恐れているのかもよく知っている声だった。説得力のあるその声に、沼に浸かった僕の身体が引っこ抜かれていく。


「……危なかった」


 あと少しだった。きっと、古川が止めてくれなければ僕はあのまま唇を重ねていた。まるで恥部を見られているかのような強烈な恥ずかしさが瞬く間に全身へ襲い掛かった。馬鹿野郎馬鹿野郎馬鹿野郎。


 自分の頭をぽかぽか叩く。

 この前と違って唇は重ねていないのに、まだ何もしていないというのに、というより僕たちは既にキスをしたことがあるというのに……ついさっきの目を閉じてキスを待った自分が、とてつもなく大きな過ちを犯してしまったように思えてならない。


 ――しょせんは薬だろ。


 そうだ薬だ。僕たちを繋いでいるのは、好き薬なんだ。

 ああだこうだ言ったって、僕たちの過ごした約1か月間は、薬によって人為的に繋がれただけの時間なんじゃないか。こうさせるための薬を古川は飲んだんじゃないか。ただそれだけのことだ。


 大事なことを忘れていた。でも、これでもう大丈夫だ。


「うし」


 席を立って、選択教室を出た。

 でも、教室を出たすぐのところで足が止まってしまう。


 ――真実なんていっこあれば十分だよ。


 溶けるような優しい声だった。

 胸の奥のぎゅうっと締め付けられる痛みを合図にして、心臓がまた慌しく脈を打ちはじめていた。僕はもう、目を覚ませと喝を入れた自分の声を忘れてしまった。


 自分にガッカリした。本当にどうしようもない人間だ僕は。器用にできない自分が情けなくて泣きたくなった。もう元の自分には戻れないんだろう。そんな確信があって、心底辟易した。


 でも、

 ――私は成瀬が好きだよ。


 僕は後悔している今でさえ、もう一度古川の声が聞きたくて、喋りたくて、顔が見たくてどうしようもない。柔らかい手の感触と生温かい体温と鼻を愛でるような優しい香りに、もう一度触れたくてどうしようもないのだ。


 そんな自分を、僕は病気だと思った。




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