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第16話 1回好きになってみたかっただけ




 あれ嘘だよ、という古川を一瞬だけ想像した。


「あれね、理由があったの」


 想像は霧のように散ってなくなる。


「誰彼構わず好きになれればいいと思った訳じゃなくて、成瀬が良いと思ってそれで飲んだんだよ」


「……それで」


「私ね、そもそも恋愛にちょっとコンプレックスあって、純粋に人のことを好きになれたことってそんなにない」


 果たして、どういうことだろう。僕は詳しくはないけれど、古川愛莉に恋人がいるという情報だけは耳にしたことがある。何せ学年で最も人気のある美少女のひとりだから、恋人ができれば皆うわさにするし、それは末端の僕の耳にもどういうわけか届くものなのだ。


「私、中学の頃からたくさん人と付き合ってきた。自分ではそれなりに恋愛していたつもりだし恋はこういうもんだっていう自分なりの解釈もあった。でも、友達の恋愛を見たり恋愛ドラマとか観てみると、自分がちゃんと恋をしてないって気付き始めるんだよね」


 まるで遠い世界の御伽噺でも聞いているような感覚だった。


「私ね、相手から言い寄られていることが良かっただけだったんだよね。承認欲ってわかる?」


「ショウニンヨク……まあなんとなく」


「有難いのかどうか、私は言い寄られることが多いから承認欲が満たされることで好きだって勘違いしてた。でもさあ……ごめんちょっとストレートに言うけどいい? 成瀬だから話すんだからね」


 うん、僕は頷く。


「あまりにも言い寄られ過ぎるの。ちょっとでも隙間が空いたらすぐに入り込んでくる」


「まあ、古川はかわいいから」


「そうそれなの」と捲し立ててから古川は気まずそうに肩を小さくした。「……ごめん。あの、つまり、結局ね人ってそんなにすぐに人のことって分からないじゃん。私に間髪入れず言い寄ってくる人たちって結局外見しか見てないの」


 苦笑いを浮かべる古川。昼間の熱気を含んだ、温い夜風が顔をすり抜ける。


「だから結局私自身を好いてくれてる訳じゃなくて、見た目を通したうえでなの。パッケージありきでそれが彼らのステータスだっていうのが、もう透けて見えちゃうようになって、なんだか、それが寂しいなって」


 一見分からないようで、とても分かるような気がした。僕と古川はまったく異なる人間同士だけど、きっと何百メートル何千メートル潜った先のどこかでひとつだけ僕たちの共通点が見つかるのだと思った。


「色々考えちゃうようになってもう男を見てるだけで嫌になっちゃったんだけど、ちょうどその頃、成瀬に会った」


「僕だって一応男だよ」


 思いついた冗談を言った。


「でもね、成瀬と席が隣りでさ小説の話とかするようになって、なんかいいなって思いはじめたんだよね」


「なんかって、なに」


「他の男子とは違って、なんだろう、我が道を行くって感じかな。それでいて優しいし」


「曲解だよ。我が道しか行けないだけだから」


「でも我が道に行きたくてもいけない人もいるじゃん? まあ私もよく分からなかったんだけどさ、選択授業に行くのが楽しみになったんだよ」


 古川が剥き出しの腕を伸ばしてポリポリと掻いた。蚊にでも刺されたのか。腕をぶらんと落としてさっきまでと同じトーンで続けた。


「なんか好きになるかもって思った。で、私気が付いた。これまでの恋愛はぜんぶあっちからだったって。私からこういう感情を抱いたことってなかった」


「……」


「初めて、ちゃんと好きになれそうな人だったから、だからこの気持ちを大事にしたいって思って、それで薬を飲んだんだよね」


 喋り終わった古川がこちらに向かって軽く頷いた。それは話が終わった合図だ。淀みなく媚びる感じもない自然な表情をしていた。

 僕はしばらく彼女の言っていたことを自分なりに考えた。話しの終着点になんだかしっくりくるものが無くて、頭上で何とか整理を試みたんだけれど結局できず、意識は目の前の古川に戻って来た。


「分からない」


「何が?」


「大事にしたいと思ったのに、それで薬を飲むがイコールになっちゃうのが分からない」


 古川は首を傾げて考える素振りをして、こう返した。


「好きになりきれずに思いが消える可能性だってあるじゃん?」


「ああ、確かに」


「それだったら、1回好きになってみたい。さっきも言ったけど、私たぶん人を好きになったことないから。この人を好きになりたいって思ったんだよ」


 古川の言い方は妙にさっぱりしていて清々しいくらいだった。


「だから私、成瀬と付き合いたいとかこうなりたいとか、そういう先のことまで考えて行動してないんだよね。ただただ好きっていう自分の感情に従いたいだけ」


「……ふうん」


「ちょっと、引いちゃった?」


 いや……むしろ逆だった。気持ちが良いくらいに真っすぐで、作家が付いてたんじゃないかって思うくらい綺麗なストーリー。控えめにこちらを窺っている古川の輪郭が、さっきここで落ち合った時よりもずっとクリアだった。好き薬を飲む以前の古川が初めて見えてきたような気がしていた。


「引いてないよ」


「聞いてくれてありがとう」


 なんだか恥ずかしいね、と古川はベンチの上で膝を抱えた。僕はなんて言葉を紡げばいいのか分からなくて黙った。


 胸にじっとりと汗をかいていて乱暴にシャツで拭う。熱帯雨林のように暑いのに、虫の音ひとつ聞こえない妙に静かな夜だった。時折聞こえてくる向こうのバス通りを走るバイクの音が却って静寂を強調していた。


「やっと話せた」


 なおも、僕はなんて返せばいいのか思考が回らない。


「成瀬、明らかに私のこと避けてたもんね」


「そんなことない」


 声が裏返る。


「めっちゃ動揺してんじゃん」


「し、してないよ」


「まあ避けるのも成瀬の自由だから別にいいんだけど。」


 全然良いと思ってなさそうな口調と顔だった。

 今、急に聞きたいことを思い出した。


「薬、好きに人には効かないんじゃなかったっけ」


「好きになりそうな人だったら効くんじゃない? 現に効いたわけだし」


「そっか」


 それにさ、と古川は抱えた膝を下ろしてスカートのポケットからスマホを出した。それから何かを開いて僕に見せる。


「な……これ」


 僕の寝顔の写真だ。選択教室で頬杖を突きながらだらしなく頬を潰してる。


「もし他の人のことを好きになったら嫌だからちゃんと写真を見て飲んだんだよ」


「……そっか」


 思い出した。恋ぐすりセットを購入するときにそんなことが書いてあった。薬の成分が恋愛中枢に介入していく過程で、好きになりたい人と一緒に居たり、もしくは視覚的に捉えておくことで、より命中率が上がるとかなんとか。


 それをしないと僕みたいに狙ってもいない人(陽子)を好きになる可能性が高いということか。まあ僕の場合、そもそも誰ひとりとして好きになりたくはなかったんだけど。


「それで、どうだったの」


「なにが? 成瀬、言葉が足りなくてわかんない」


 言葉が足りないのは、言いづらいことだからだ。


「……好きな人、出来た感想を聞こうと思った」


「ああ。うーん……それなりに楽しんでるし苦しんでるかな」


 楽しいは分からないけど苦しいは共感できる気がする。それでも古川と僕では苦しい種類が全然違うものなんじゃないかと思う。なんせ生きている土俵が全然違う訳だから。


「どう苦しんでるの?」


「うーん、例えば最初は、週に1回の選択授業が楽しみ仕方なかったんだけど、慣れてきちゃうと週1回じゃ遠くて遠くて、会えないときがやっぱり切なくてさ。しかも会えたとしても本当一瞬で終わっちゃう。どんどん欲張りになっちゃうんだよね」


「わ……」わかるかも、と言いかけて止まる。


「私それで休み時間に会いたいってラインするようになったんだよ」


「そっか」


 休み時間に誘われるようになったのは好き薬を飲んでからだったのか。

 僕が感じていた苦しみと似たような苦しみを古川が感じていてくれていた。それが素直に嬉しくて胸が溶けてしまいそうになる。


 でも……いけない。

 薬を飲んだあとの彼女の行動はフィクションでしかない。だからそう簡単に共感をして喜んではいけないのだ。


 小さく深呼吸をして今一度腹を決めて、古川へ向かっていった。


「そろそろ帰ろうか」


 立ち上がった僕を制止するかのように彼女は言う。


「ひとつ、聞いてもいい?」


「なに」


「その……」


 こちらを見上げたまま、少しためらいながら彼女は言った。


「どんなところがいいと思ってくれてたの」少し間があって「私のこと」


 なんで過去形なんだろう……という間抜けな疑問を、想いを見抜かれていたことそっちのけで思った。そして僕はばか正直に思考を巡らせて質問に答える。


「なんか、いいと思ったから」


「なんかって、なに」


「……わかんない。なんかよかったのかも」


 古川は感情の読み取れない小さな微笑を浮かべて「そっか」といい、僕に倣うように立ち上がった。

 それから暗くなった帰り道をふたりで並んで帰った。





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