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第10話 彼女が僕に対して普通に恋をするはずがなかったんだ




 授業が終わってすぐ、支度をして選択教室へ向かった。今日は週に1回の選択授業だから。無駄なく移動してきたつもりなのに、もう古川が席に着いていた。彼女は一瞬こちらを見たのに、素っ気なく目を逸らして前を向きなおした。


 凛とした彫刻のような精巧な顔つきに笑顔の気配はない。高嶺の花のオーラが漂い、古川愛莉という人物の元々の立ち位置というものを、まざまざと見せつけられているような気になった。やっぱり僕は嫌われたのだろう。


 僕はいつも通りの、彼女の隣りの席に座る(決まった席だから)。ほんのりと、甘い砂糖菓子のような僅かな香りが漂い、そういえばいっつも彼女の身体からこんな匂いがしていたなと思い出して、胸がぎゅっと掴まれたように痛んだ。


 まだ生徒の数はまばらで喋り声はひとり、ふたりと聞こえるぐらいで、教室は空洞のような静寂が漂っていた。故に沈黙も重たい。

 きっとこんな空気になるだろうから、だから僕は先に着いておきたかったのだ。先に着いて授業までの時間を机に突っ伏して過ごしていたかった。そして授業がはじまったら『あれ、いま起きました』ってとぼけた顔で授業を受ければいいとシナリオを考えていた。訳わかんないシナリオ。馬鹿みたいだ。


 ちょっとだけ勇気をしぼりだして机に突っ伏してみる。目を瞑って暗がりの世界で時が過ぎるのを待つ。だんだん人が集まってきたんだろう、水中に入ったように騒音が籠って耳に届いて、そうするとだんだん微睡んできて、物音が耳から脳へと吸い込まれていって、気が付いたら先生の声が夢のなかでひびいていた。


 とんとん、と肩を小突いていた指は、僕が体を起こすと離れていく。古川はさっきと同じような彫刻顔で、教壇に立つ先生のほうを見ている。涎を拭って、ノートを開く。古川の教科書を盗み見て、指定のページまで捲った。


 少しして、紙の切れ端が机に乗った。はっとして隣りを見るんだけど、古川は伸ばした腕を戻すと何事もなかったかのように、小さくため息をついて頬杖を突く。成瀬なんて見ないぞと、決意をして徹底しているような感じだった。


 僕は小さく折り込まれたそれを手に取る。悪口が書いてあるのか、決別の言葉が書いてあるのか、あるいは殺害予告でも書いてあるのか、開封するのには2時間ぐらいの猶予が必要そうなそれ。しかし古川は待ってくれない。彼女は初めてこちらを向いたかと思えば、顎で紙切れを開くことを要求した。


 ひと思いに紙を開く。


≪話ある。残って。≫


 そのふた言だけ、整った字体で書いてあった。

 もうなんなんだよ。勘弁してくれよ。


 ひとつ深いため息をつくと、微動だにしなかった隣りのシルエットがほんの一瞬ビクッと動いたのが分かった。


「成瀬さあ、ため息ついたでしょ」


 授業が終わって教室からすべての生徒が捌けたとき、古川は開口一番そう言った。


「ついた」


「そんなに私と話すのが嫌なんだ」


 そうじゃないそうじゃない。あのメッセージのおかげで憂鬱は極まったけれど、別に話すのが嫌な訳ではないのだ。


「いや、話しって何」


 古川は不満全開な顔でひと呼吸置き、僕に言う。


「……あのね、この際ハッキリしようと思って」


「うん」


 覚悟を決める。

 古川は僕から視線を逸らしてじゃっかん俯いてこう言った。


「私ね、成瀬が好き」


「そっか」うん? ちょっと待って「え?」


 古川の顔がぼやけて見える。

 彼女はもう一回、電話口で言葉を聞き取れない相手に対して発するように、強調して言いなおした。


「な、る、せ、が、す、き。聞こえた?」


「……なるせって、だれ?」


「あんただよ」


「……あんたって、だれ?」


「おまえって呼ぶよ?」


 おまえって? 

 ああ、僕のこと?


「えっと、つまり、古川は? 僕のことが……?」


「だから好きだって言ってるじゃん」古川は呆れながら怒る。「もう何度も言わせないでよ恥ずかしいんだから」


 殴られている僕とそれを見ているユイが浮かんだ。僕の心は警戒態勢を敷いたけれども、ユイの姿は蝋のように溶けて落ちていく。ぼんやりしていた“好き”という言葉がだんだん輪郭を表し、そして熱を帯びて胸にめり込んだ。


 心臓が熱い鼓動を打ちはじめていた。


「でも成瀬、いっこ言わなくちゃいけないことがあって」


「なに?」


「これがさ、嘘の好きなんだよね」


 果たして。


「恋ぐすりセットって知ってる?」


「え」


 知ってるも何も――。

 全身の血液が一瞬止まってしまったような気がした。


「いま薬で人のこと好きになれる時代なんだよね」


「はえ?」


「私が成瀬に恋してるのは薬を飲んだから。だから期限付きの恋ってやつ」


「……」


「一応言っておかないとと思ってさ」


 ごめんちょっとなにいってるのかわからない。


 好き薬を飲んでいるのは僕だ、と間抜けな主張をしそうになる。でも僕が薬で好きになっているのは陽子のほうだ。えっとつまり古川には関係のないことだ。え? いやなんか論点違う? ちょっとパニックに陥ってる。いまいち彼女の言っている言葉が理解できない。したくない。


 胸に空いた穴がみるみるうちに広がっていく。

 古川と僕は好き薬で繋がっていたってこと……?


「ははははは」


 とりあえず笑ってみたけど、自分の声じゃないみたいに震えていた。


「ちょっと成瀬?」


「ははは……じゃあまた」


 逃げるように教室を出た。追ってほしくないから走って階段を全速力で駆け下りる。どこまでもどこまでも走り続けていたかった。今の自分なら永遠に走り続けられるような気がした。


 絶望のなかの絶望。

 全部偽りの時間だったってことだ。


 こうなることが嫌だったから人と距離を置いて暮らしていたのに、僕は本当にどうしようもない馬鹿だ。これまで手を繋いで歩いていたのに急に崖下へ蹴飛ばされて、這い上がれないほど深い谷底に落ちてしまった。そんな気分だった。そしてそれは、僕が最も恐れていたことだったのだ。



******



 ――私ね、成瀬が好き。


 わざわざ言わなくて良かったのに。

 どうせなら期待もせずゆっくりとフェードアウトしたかった。せっかく頑丈に施錠していた心をこじ開けられた挙句、見事に奪われてしまったような感覚。彼女はなんてあくどい窃盗をするんだろう。


 だから言ったじゃないか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()んだ。


 扉が乱暴に開いて、下品な笑い声とともにふたり組が入ってきた。便座の上で息を潜める。「だからお前のこと好きなんじゃんよ」「いやだからちげえって」「絶対そうだから」個室に誰かが居るなんて考えもしないで会話に夢中な様子だった。小便する時ですら話を止められないなんて、よほど恋愛話が楽しいのだろう。


 口が止まらないまま用を済ませたふたりトイレから出ていく。扉が閉まって喋り声は遠ざかり、トイレには小便器の流水音だけが響き渡った。


 恋の何が楽しいんだ。

 ふと、陽子の顔が浮かんだ。


 ――恋するって素敵なことじゃないの?


 分からない。僕にはやっぱり分からない。敵わない恋なんて思考を狂わせるだけの罰ゲームみたいなものだ。まともな判断さえできていればユイの時も今回も、軸足を外すことなんてあり得なかったのだ。


 それと、陽子への罪悪感も蔓のように胸へ絡まりついていた。

 僕は同じことを陽子にやった。薬で好きになったんだと堂々とカミングアウトして、結果的に陽子は見たこともない引き攣った笑顔を見せた。いま考えてみれば、よく彼女は次の日には話し掛けてくれたものだ。嘘を宣告されてもなお話しかけるなんて少なくとも僕には考えられない。


 陽子に恋心が存在していなくてもだ。

 ごめんなさい。本当に申し訳ない。陽子。


 本当は君のことなんて好きじゃないよ――遠回しにそうやって言われることがこんなに辛いなんて思ってもいなかった。僕はもしかしたら浮かれていたのかもしれない。好きな人ができて、ラインなんか交換しちゃって、心のどこかでは上手くいくんじゃないかって、アホみたいに期待をしていたんじゃないか。


 戻ろう、元の生活に。


 僕はいつの間にか、ちょうちょを追いかけて家を飛び出してしまった子どものように、自分が外に出てしまったことにも気が付かず夢中になって駆け回っていたのだ。でも、まだ迷子になる前に気が付いたから良かったじゃないか。


 ホームルームが終わって帰る途中、中庭で男子生徒と一緒にいる古川を見かけた。長身で金髪がハリネズミのように跳ね上がった見るからにヤンキーだった。僕は無意識に頷いていた。何度も何度も深く。

 古川はそっち側の人間だ。ようやく目が覚めてよかった。


 でも、彼女と誰もいない教室でキスをしたことを思い出して胸は張り裂けそうになった。


 帰り道、駅の古書店で本を大量に買った。もう当分、いや卒業するまでずっと、僕は殻から出ないと決めた。





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