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第1話 好きな人ができた




 好きな人ができた。

 1度それを認識すると、ありとあらゆる自分の身に起きていた変化に説明が付けられた。話しかけられた時に覚える、心臓を掴まれたような痛み。沸騰するように顔に集まってくる熱い血液。寝ても覚めても何をしていても、常に頭のなかにいて僕の日常生活を阻害する。これが恋というものだったかと、改めて僕は痛感していた。


 本来恋をするということは、幸福と呼んでいい出来事なのかもしれない。事実、教室のなかを見渡せばカップルのひとりやふたりはいるし、彼氏の膝の上に跨って抱き合うといった僕からしたら公然猥褻すれすれの行為を恥ずかしげもなくやっている奴もいる。その行為はさておき、きっと恋は高校生にとってかけがえのない青春であり、それと同時に教室で見かけることができるぐらいに“普通”のことなんだろう。


 誰かのことを好きになることは、何か美味しいカレー屋さんを見つけるぐらい簡単なことなのかもしれない。


「はあ」


 ため息が漏れる。

 最上階に上がってふたつ目の教室、普段は選択授業の時にのみ使用している空き教室で、僕は“好きになってしまった人”を待っていた。まだ来ないだろうから、教室の窓を開けて中庭を見下ろしてみる。


 ざっと10人ほどはいるだろうか、太陽の照り付けるなか、男子と女子が制服姿でバスケットボールを楽しんでいた。クリアボードのついたバスケットゴールに向かって茶髪の男子がディフェンスをかいくぐりランニングシュートを放つ。ボールはリングの上をてんてんと移動してネットから遠ざかり、アスファルトに落ちる。弾んだボールを女子が拾い上げ、今度はフリーでシュート。ボールは綺麗にネットへと収まって、どっと歓声が沸く。


 バスケって何人対何人でやる競技だっただろうか。7人とか、8人だっけ。それとも10人ぐらい? 「おら、時間ねえぞ!」と坊主男子が叫んで遠くにパスを出す。


 振り返って教室の時計を見る。休み時間が終わるまであと7、8分。多分そろそろじゃないかな――そう胸の内で呟いたところ、教室の扉が開いた。


「お待たせ―」


 古川愛莉。彼女の姿を捉えた瞬間から、このなんでもない教室は僕と彼女だけの世界に塗り替わる。心臓は慌だしく脈を打ちはじめて、途端に自分が今まで何を考えていたのかすらも分からなくなった。いつもそうだ。視界も感情もすべて目の前の存在に奪われて制御ができなくなる。


 でも大丈夫だ。こんな思いをするのも今日限りだから。

 彼女は僕の正面までやってくると、茶色い瞳でこちらを見上げた。


「持ってきたよ」


 僕は突き出された紙袋を、彼女の手に触れないよう指先で受け取った。中を確認すると確かに文庫本が1冊入っている。


「これ、こないだ言った小説。気に入るかどうかは分かんないけど」


「ああ、ありがとう」


「成瀬もなんかおすすめの教えてよ」


「おすすめ、か。なんだろう」


 少しの間、思考を巡らせようとする。でも、おすすめはなんだろうと空のセリフを唱え続けるだけで思考は回ってくれない。少しして沈黙に時計の秒針が割って入り、僕は中庭からもう誰も居なくなっていたことを知る。


「成瀬、なんか変じゃない?」


「えっ僕? いや、別に?」


「なんか心ここにあらずって感じ」


 古川は唇を尖らせて僕のことを軽く睨みつけている。

 しかし心ここに有らずなんて、古川といる時ならいつものことだ。


「なんかあった?」


「いや、いつもこんな感じかと思うけど」


「いつも変だけど今日のがもっと変だよ」


「うーん……でも、明日には戻ると思う」


「ふうん」古川は首を傾げていた。


 明日には戻ってる……か。

 そう自分で言えたことにほんのちょっぴり感心をしていた。


 実際明日の今頃には、この恋は跡形もなく消え去っていることだろう。本音を言うとそんな自分が想像できないし何か大事なものを失ってしまうような怖さもある。でも、そんな明日を迎える覚悟が、もう僕にはできているということだ。


「てか最近暑くない?」古川は椅子に座って足を組む。なかなかに際どい。そして「まだ夏じゃないっしょ?」と言いながら、綺麗に整えられた爪を纏った指先で胸元にパタパタと風を取り込んでいる。


「暦ではもう夏だよ」


「そーゆー難しい話分かんないもん」


「難しくない。暦ぐらい」


 蒸し暑そうに天を仰いだ古川の横顔は、表情こそ眉間にしわをつくり目を瞑っているが、汗がにじんでいるわけではない。明るめの茶髪は相変わらず1本1本が生きているかのように小ぶりな輪郭を覆っている。まるで芸術のように洗練された姿かたちからは、とてもじゃないけど暑苦しさなんて感じられなかった。


 人様の外見を評するなんて罰当たりだと思うけど、逆に彼女を見て美しくないと感じるほうが病気なんじゃないかって思う。それぐらい、正直にいうと古川愛莉は容姿において他を圧倒していた。


「てか成瀬ってさ、やっぱ本読んでるからそんなに頭良いの?」


 だらんと顔をこちらに傾ける古川。力感のない笑顔に胸がときめく。


「だから頭良くないって」


「でもいろんな言葉知ってるじゃん」


「頭良かったらこの学校来てない」


「あはは、たしかにっ」


 むしろ頭が良いのは古川のほうだ。いつどこで誰と話していても、彼女の周りには笑顔しか見えない。顔が可愛くてコミュニケーション能力も高くて男女構わず人気があって、それでいて誰かに妬まれたり恨まれたりっていう話も聞かない。それってすごい能力の持ち主だと思う。


 だからだ。僕なんかが恋をするべきじゃないのは。

 自分がどこか知らない地に連れていかれそうになるのは。

 この想いを、()()()()()()()使()()()()()()()()()()()と思うのは。


「ねえ、たまには漫画とか読まない?」


「漫画?」


「今度もってきてあげるよ」


 今度、か。

 その機会があればいいんだけどな。



******



 早足で家に帰り、ポストを探るとそれは届いていた。茶色い封筒は何も入っていないんじゃないかと思うぐらい軽くて、不安になった僕はその場で雑に封を開けた。確かにビニール袋に包まれた包装ケースがそこには入っていて、無事届いたことに僕は安堵した。


 僕が購入したのは『恋薬(こいぐすり)セット』だ。セットの中身は淡い色の『好き薬』と真っ白い『忘れ薬』である。正式名称は好き薬が“ORR001”で忘れ薬が“PEA045”となっているのだが、何故こう、薬というものは分かりにくい名前をしているんだろう。


 効能は名前の通りで相手を好きになることと、相手への思いを忘れることである。もちろん、僕の目当ては忘れ薬だ。正直好き薬はいらないがバラ売りはしていないらしく、セットで購入した次第である。


 家に上がって早々、手も洗わず包装ケースを取りだした。見開きになっていて左右にひとつずつ錠剤が入っている。説明書をざっと流し読みして、僕はひとつ薬を剥ぎ取った。自分でも驚くくらいに躊躇はなく、僕は速やかに目的を敢行した。


 古川愛莉への淡い恋心を消し去るために。


 少し経つと気分が悪くなりはじめて、ベッドで横になって目を瞑った。心臓がどきどきして、頭のなかにさらっと冷たい風が吹きはじめる。僕はさらに強く目を瞑って時が過ぎていくのを待った。気持ち悪くって、苦しくて、そして怖かった。


 なるべく他の事柄を思い浮かべようと頭のなかをフル回転させるのだけど、意識しないようにすればするほど、古川の姿がより鮮明になって現れる。僕はまだ好きな気持ちが存在していることに安堵した。


 それでも徐々に少しずつ、自分の身体のなかに薬の成分が浸透していく。……そんな感触が指先まで隙間なく広がっていく。


 取り消したい――。


 今からでも無かったことにできないだろうか。

 怖くて堪らない。人に対する好意が、失われる訳でなく奪われてしまうことが、まさかこんなにも恐ろしいことなんて知らなかった。僕は薬を飲んだことを激しく後悔していた。


 そして失われる恐怖のなかベッドで目を瞑り続けていた僕は、いつの間にか眠りに落ちてしまい、それから何度か目覚めたものの気がついた時には夜を通り越し、明け方になってしまっていた。





お読みいただきありがとうございます。

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