第42話 始まり
「奥方を親しげに呼んで、ノクス卿の不興を買ってしまったかな」
エドガルは、不敬とも思えるヴィクトールの態度に寛容に対応した。
――さすがに、隣国の王弟殿下にその表情は……。何を考えているのかしら。
ヴィクトールは、女性に対して冷たいところはあったが、礼儀を弁えない人ではないのに。
憮然とした表情を崩さないヴィクトールに、エマは冷や汗をかいた。
「エドガル殿下、申し訳ございません。夫は本国でも“氷の貴公子”とあだ名されるほどで……」
「そう? 私もその呼び名は知っているけど、ずいぶんとお噂とは違う方だなと」
厳しい表情を崩さないヴィクトールに、エドガルは困ったような顔をした。
「ヴィクトール・ノクスと申します。ルーク王国の辺境を預かっております。――……エドガル殿下には、私の妻がお世話になったようで、ありがとうございます」
ヴィクトールは、真顔のままエドガルに向き合い頭を下げた。
妙に「私の妻」という箇所を、強調しているように聞こえるのは気のせいだろうか……。
ヴィクトールは全く感謝の気持ちが籠らない礼を口にした。
さすがにルシアンもまずいと思ったのか、笑顔でフォローに入った。
「叔父上、お気になさらないでください。ヴィクトールはちょっと酒に酔っているようで」
「そうかい? でも、“呼び名”は大切だろう? 軽はずみに奥方をあだ名で呼んでしまって失礼なことをしてしまったかなと思って。名は、立場を決めるものだから」
「そんな、失礼なのは夫で……」
「名もそうですが……――。妻の胸元をずいぶんご覧になられていらっしゃるから、何事かと思いまして……」
ヴィクトールは冗談のように口角を二ッと上げたが、全く目が笑っていなかった。
ヴィクトールの言葉にエドガルはきょとんとしている。
エマは“胸元”という言葉に、ハッとした。タンザナイト、を見ていたときだ。
「ヴィクトール、違うの。殿下はネックレスを褒めてくださっていただけよ」
「ネックレス?」
ヴィクトールはまだ納得していない様子だったが、エドガルは合点がいったようでクスクス笑う。
「ノクス卿は、お噂と違ってずいぶん情熱的なんだね」
ルシアンは「仕方ないな」と言う顔で、「そうなんです。私もよく睨まれております」と言った。
「そうか。それは大変だな。――……でも、君たちはずいぶん仲が良さそうだ」
三人の同系色の服装を見て、エドガルは目を細めた。
「ええ、二人にルーク王国で大変よくして貰いましたから」
「そうか。それは良かった。叔父としても、君が心から信頼できる人を得られることを心配していたからね」
エドガルはそういうと私たちを見て優しく微笑むと、私は「伯爵に挨拶してくれるよ」と言って一人会場に消えた。
◇◇◇
伯爵の自慢の薔薇園は実に華やかだった。
人目を忍ぶ貴族たちが何人か庭であいびきをしているようだった。
薔薇園から少し離れた東屋の周辺は人気はなかった。
「ヴィクトール、あんな態度を取って……」
エマの腕を引いてずんずん進むヴィクトールに、エマはようやく苦言を呈した。
ヴィクトールはふてぶてしい態度のまま、プイッと顔をそむけた。
「あの男が、エマの胸元をじろじろ見るから……」
「ですから、ネックレスを」
「そんなの言い訳に決まっているだろう。あのクソ小侯爵も、エマを嫌らしく見ているのに、あんな笑いかけたりして……」
ヴィクトールはずいぶんイライラしているようだ。
確かにアルマンドの視線や触り方には、エマも嫌らしさを感じてはいたけど。
「エドガル殿下は、アルマンド様に連れて行かれそうになるのを助けてくださったのよ。ルシアン殿下の叔父様だというのに失礼よ」
ルシアンは別に気にしている様子はなかった。
「まあ、叔父上は独身だしね。私と似て美形だから、ヴィクトールも余計に苛立つのだろう。エマ、ヴィクトールもずいぶん我慢していたんだから」
エマはその言葉に、ヴィクトールを見た。
相変わらず、子どものように拗ねた態度を取っているが、少し耳が赤くなった。
――確かに。いつもならすぐに怒って現れるのに……。我慢、してくれていたのだろうか。
「ヴィクトール……。私だってアルマンド様のことは、気持ちが悪かったわ」
触られる度、ぞわっとした。
ヴィクトールがエマの言葉にピクッと反応した。
「ヴィクトール以外の人に触られるのが、嬉しいわけない」
「ね」とヴィクトールの手を握ると、ヴィクトールの機嫌が少し回復したようだ。
身体をエマに向き直した。
その様子にルシアンは溜まらず「くっ……」と笑いを漏らした。
「君は闇魔法でも使っているの?」と、エマにそっと囁いた。
エマは「え?」と、目を見開くとルシアンを振り返った。
「――そんなわけ、ありません」
「誘拐事件のときも、ずいぶん上手だったようだからさ。吸収の早い生徒は、教え甲斐があるな」
「――……何の話をしている」
「なんでも」
「エマの魔法の実力が上がっているという話だよ」
ヴィクトールは分かるような、分からないような顔ををした。
「それはともかく、アルマンドがエマを連れて行こうとした部屋だが――」
「あっ!」
「なんだ?」
「あの部屋……実は――」
二人にレイマ草の香りがしたことを話した。
二人は神妙な顔をした。エマが部屋を離れたあとで、部屋の様子を見ていたようだ。
怪しい集まりには見えたようだが、レイマ草を摂取していることまでは気が付かなかったようだ。
リキッドタイプのレイマ草は香りがほぼしないから、仕方がないだろう。
屋敷の中から、悲鳴が聞こえた。
「何だ?」
闇をつんざくような高い声だ。
ヴィクトールはエマを抱えた。
「しっかりしがみついて」と囁くと、二人は風魔法を使ってあっという間に屋敷に戻った。
会場に戻るとザワザワと騒がしい。
警備兵や会場の騎士が慌てて式場から出て行く。彼らが向かっている場所は、あの部屋だろうか。
「何かあったの?」
ルシアンは顔見知りの貴族に声をかけた。
「ルシアン殿下。――それが……子爵家のご令嬢が暴れ出して。アルマンド侯爵を襲ったようで……」
ひそっと貴族はルシアンに耳打ちした。
「アルマンドが……?」
「大きな声で言えませんが……痴情のもつれって話も……」
「痴情の……」
会場にかけつけた救護員が担架でアルマンドを運んでいる。
アルマンドに駆け寄っているのは、ネイト侯爵夫妻だろう。
倒れている息子に心配そうに声をかけている。
続いて、ご令嬢もぐったりとした様子で横たわり、担架で運ばれている。
――一体、何があったのか……。
エドガルも少し離れた位置から、その様子をじっと見つめていた。
その瞳は先ほど見た柔和なものは消えていた。
エマはそのエドガルの表情に、何か違和感のようなものが過った。
その瞳は、何かを確かめるように、静かに細められていた。




