第9話 王都への道程
第9話 王都への道程
ノクス領からアステリアまでは、通常は馬車で二週間弱はかかる。
ナタリーやレイヤードもいない車内でヴィクトールと二人きりなど、心臓に悪くて仕方がない。
今思えば、ノクス領への往路はナタリーやレイヤードと楽しく、気楽な旅だった。
ナタリーやレイヤードに頼み込んで、車内に同席してもらったのだが、久しぶりにヴィクトールの表情が固くなるのが分かった。
ナタリーは非常に気まずそうに身を小さくしているし、レイヤードに話しかけると車内の空気がどんどん重くなるのを感じた。
どうしたものかと、エマは隣に座るヴィクトールを見た。
用意していただいたノクス家の馬車は、エマが乗って来たものよりもずっと広々としていたが、
ずっと隣にヴィクトールがいるというのは何とも落ち着かない。
だって、普段はこんなに近くにいない。
あの瞳に見つめられると思うと、正面に座ることは憚られた。
研究所からの帰りの馬車の中では、正面に座るヴィクトールの視線に耐えるのが大変だった。
――あんなに甘く見つめれたら、私の身が持たないわ…。
ヴィクトールの正面はレイヤードに座ってもらったが、2人は気まずそうにして視線を合わさない。
ヴィクトールの隣がナタリーというのもさすがにおかしいので、もちろんそこに収まったのはエマだが、ヴィクトールの隣は思いの外破壊力があった。
ずっと見つめられるのも耐えられなかったが、少しの揺れで身体が触れる距離にずっといられるのも心臓に悪い。
まして、この馬車はいつもよりとても揺れる。
「アステリアに急ぐため、いつもよりも揺れてしまうけれど大丈夫だろうか…」
ヴィクトールにそう問われ、二つ返事で了承した。
馬車の旅が短くなるのは、私の身体のためにも良い。
そう思っていたはずなのに、馬車の揺れというものがこんなにも心臓に悪いものだとは思わなかった。
馬車が揺れる度に、ヴィクトールの身体に触れそうになってしまう。
ぶつかってはいけないと、柱に必死に掴まっていると、ヴィクトールの心配そうな顔が段々と曇った。そして、今ではヴィクトールは車内の多くの時間を外の風景を見て過ごしていた。
失礼なことをしてしまっただろうか。
ヴィクトールの様子に不安になっていると、ヴィクトールは「体調は悪くなっていないかい?」と声をかけてくれた。
私は大丈夫だったが、ナタリーが真っ青な顔をして下を向いていた。
「ナタリー?」
「申し訳ごさいません。ヴィクトール様、お嬢様」
行きの馬車では何でもない様子だったが、ナタリーは馬車に酔ったようだった。
馬車の揺れのせいだろうか。いや、ヴィクトール様と一緒の車内に無理に誘ったから、緊張させてしまったのかもしれない。
エマはナタリーやレイヤードに甘えてしまったことを恥じた。
婚約者のエマですら緊張しているのに、侍女の彼女であればなおさらだろう。
配慮に欠けていたことを悔やんだ。
御者に言い、馬車を停めてもらうとナタリーを少し休ませた。
身を縮めるナタリーに、レイヤードと一緒に別の馬車に乗るよう薦めると、ナタリーはほっとしたような顔をした。
「ナタリー、ごめんなさい。私が我儘を言ったばかりに」
「いえ、お嬢様もヴィクトール様も何も悪くございません。ただ、私が未熟だったばかりで…」
「ヴィクトール様は存外エマのことになると狭量のようだ」
レイヤードはエマにニッと笑った。
そんなレイヤードをナタリーはキッとにらむ。
「レイヤード様、ヴィクトール様に余計な挑発はいいですから」
「挑発…?」
エマは二人のやり取りがいまいち理解できなかった。ポカンとするエマにレイヤードはやや呆れ顔をした。
「――…ちょっと、ヴィクトール様に同情してきたな」
「え? 何? どういうことなの?」
「もう、いいんです。お嬢様はお気になさらいでください。
初めから私がレイヤード様と別の車内に乗るべきだったんです」と、ナタリーはレイヤードを引っ張って別の馬車へと向かった。
よく分からぬまま車内に戻ると、「ナタリーは大丈夫か?」と心配そうな言葉をかける氷の貴公子が待っていた。
ナタリーも、レイヤードもいない車内では、今度はヴィクトールと斜めの位置になるよう座ろうとしたが、
馬車の進行方向に合わせて座った方が酔いにくいとヴィクトールにアドバイスされ、素直に従った。
馬車が揺れる度にヴィクトールの方に身体が行きそうになるのを柱になんとか掴まって維持していた。
そんな私をヴィクトールは静かに見つめていた。
「エマ、私と席を変わろうか? ずいぶん大変そうだ」
「いえ、大丈夫です」
「でも、柱が折れそうなほど掴んでいるよ」
ヴィクトールは苦笑いをしていた。
「あ……」
「まあ、君は軽いから、場所を変わっても、今度はこちらの柱が折れそうになるだけかもしれないが」
ノクス家の馬車が私の力で折れるとは到底思えないが、傷でも付けたら大変だとパッと力を緩めると、
グラリと馬車が大きく揺れ、ヴィクトールの胸に顔を突っ込んでしまった。
「あっ…」
ああ、だから柱を離したくなかったのに…。
ヴィクトールの胸に抱かれるのはこれで二度目だ。
診療所のときも、誤ってヴィクトールに抱き止められてしまった。
あのときも緊張したが、今の方が…。
ヴィクトールの胸に埋めていた顔を慌ててあげると、エマの髪がヴィクトールの服のボタンに絡まった。
「あっ!」
「エマ、じっとして」
ヴィクトールの長い指が器用にエマの髪を解こうとする。
「ヴィクトール様、もういいです。ぶちっと引っ張ってもらって結構です」
「エマ、あまり動かないで。それに、こんな美しい髪をそんな乱暴にできるわけないだろう」
ヴィクトールから一秒でも早く身体を離したいエマだったが、ヴィクトールに言われ大人しくするしかなかった。
美しい髪だなんて…そんなこと、嘘でも言ってくれるのはヴィクトール様くらいだわ。
間近で見る真剣なヴィクトールの顔は、吸い込まれそうなほど麗しかった。
胸が高鳴る。
こっそり見つめていたら、ヴィクトールがそれに気づき、エマを見返した。
ヴィクトールの麗しいアイスブルーの瞳なじっとエマを捉える。
エマの髪に触れていたヴィクトールの指が、エマの頬を優しく撫で、唇を撫でたと思うと、何故かそこで指が止まった。
一体どうなさったのか…。
夢を見ているようなヴィクトールの顔が馬車の揺れに従い近づくと、エマの心臓が一層激しく鼓動した。
「ヴィ…ヴィクトール様…?」
エマの声にはっとしたような顔をしたが、その瞬間馬車が大きく揺れた。
「きゃっ…」
接近していたエマとヴィクトールの顔がより接近した。
ヴィクトールがエマの両手に自分の手を優しく重ね、そっと口づける。
柔らかいヴィクトールの唇が、エマのそれとゆっくりと重なった。
掠めるような口付けだ。だが、妙に柔らかい唇の感触が生々しい。
呆然とするエマの顔から、ヴィクトールがそっと離れていく。
「エマ、好きだよ」
ヴィクトールがエマの耳元で甘く囁いた。
「え……」
「さっきはレイヤードに嫉妬してしまったんだ」
「レイヤード?」
「君はレイヤードと仲が良いだろう?」
「でも、レイヤードはただの…」
「分かってる――。それでも、許せなくなってしまうんだ」
ヴィクトールの指は、名残押しそうにエマの唇に触れた。
私はその仕草に身体が熱くなった。
「急に触れて悪かった。馬車の揺れを利用してしまった。我慢が、できなくて…」
ヴィクトールの熱い視線を感じていた。
エマは夢でも見ているのだろうか。
ヴィクトールが、エマを好き?
ヴィクトールの先ほどの唇の感触をエマは思い出していた。
「あ、髪は解けたよ」
真っ赤になって顔を上げられないエマにヴィクトールはそう言った。
ヴィクトールはおでこを抑えると、エマから視線を外した。
エマは間近に見たヴィクトールの妖艶な表情を思い出し、ますます動悸が収まらなくなった。
身体中が赤くなるのを感じて慌てて下を向く。
こ、こ、婚約者だもの、口づけくらい…。
エマは激しい胸の高鳴りを抑えられなかった。
淑女とはほど遠い態度だ。
ヴィクトールは車窓を見ていた。何を考えているのだろう。
下を向きながら、ヴィクトールと少し距離を取ろうとすると、また馬車が激しく振動した。
ヴィクトールの身体に、エマの身体がピタッとくっ付く。
「し、失礼しました」
揺れても構わないとは言ったが、こんなことになるとは…。
馬車の揺れを疎ましく思って、また離れようとしていると、ヴィクトールがエマの手を引き、自分の腕に捕まらせた。
ヴィクトールの腕は、自分のものとは比べ物にならないほど固く、ガッチリとしていた。
ヴィクトールの胸もそうだったが、ヴィクトールはノクス辺境伯のような筋骨隆々タイプではないが、
意外とガッチリとした身体つきをしていた。
「私の腕を掴むといい。私の腕はエマが掴んだくらいでは折れないから」
「でも…」
「揺れる度に抱き止めるのは、私は構わないが…」
先ほどからの接近で真っ赤になるエマを見て、余裕の笑みを称えたヴィクトールが「理性を保つのが大変なんだ。
また、触れてしまうかもしれない」と、小さく囁いた。
理性? エマは恥ずかしさを抑えられず、失礼とは思いながらもヴィクトールにそっぽを向いた。
ヴィクトールの提案通り、彼の腕をぎゅっと抱いて。
氷の貴公子らしからぬ告白や口付けを思い出してしまう。
やっぱり、また揶揄われた?
でも、さっきのあの真剣な瞳は…――。
頭上でヴィクトールがくすくす笑う。
何が楽しいのか。こっちは必死なのに。
「ヴィクトール様は、最近ずいぶんと意地が悪いことが分かりました」
エマはヴィクトールの顔を見ずに、そう八つ当たりをした。
心臓が鳴り止まない。
ヴィクトールの腕にずっと触れているのは、心臓に悪い。
「意地悪をしたつもりはないんだけど。つい、可愛くて」
最近、ヴィクトールはエマに可愛いと言ってくるようになった。
良き婚約者の振る舞いとしては、お手本のようなものなのかもしれないが、エマにはハードルが高い戯れだった。
口づけだって初めてだ。
なんせエマは二十歳になるまで、ヴィクトール以外の男性との婚約話の一つもなかったし、身近な男性といえば、祖父、弟のエドワード、弟のようなレイヤードしかいない。
社交会もデビュダントのときに一度行った以来、一度も足を踏み入れなかった。
あのときだって、ほとんど壁の花と化していただけで年頃の男性との接触なんて皆無だ。
だから、こんなお姫様のような扱いは、正真正銘、人生で初めてなのだ。
ましてや、相手はヴィクトール。普通の経験がある女性だって、まともではいられないだろう。
私みたいなものなら尚更だ。
胸が苦しくなると同時に、このヴィクトールの戯れを本気にしてしまう自分が恥ずかしかった。
自分に向けられた言葉を素直に受け止めることができない。
ヴィクトールの心の中に住まう人を思えば、私がヴィクトールに本気の熱を向けてしまうことが苦しかった。
私の思いが空回りしてしまったら…。彼を、彼の本当の思い人を、憎んでしまったら…。
そう思うと、アステリアに早く着いてほしいような、着かないでほしいような心境だった。
王太子に会うのであれば…。闇魔法のことを問われるのであれば…。久しぶりにケイティとも会わないわけには行かないはずで…。
ヴィクトールと、ケイティが会うのを見るのが、前よりもずっと苦しかった。
ヴィクトールは先程とは打って変わって、機嫌がよさそうだ。
久しぶりにアステリアに行くことが楽しみなのだろうか。
エマは自分の心に巣食う仄暗い闇を感じていた。
ヴィクトールの瞳にも緊張の色が滲んでいるのを見落とすほど、エマはヴィクトールのことで頭がいっぱいになってしまっていた。
お読みいただき、ありがとうございます。王都編スタートです。物語は新たな展開を迎えますし、ヴィクトールはどんどん甘々になっていきます。ご覧頂けますと嬉しいです。




