第19話 口づけ
二人きりの車内は、張り詰めたような妙な沈黙に包まれていた。
最近はずっと隣同士で座っていたが、今日は向き合うかたちで座っていた。
目を合わせるのが、少し恥ずかしい。
ヴィクトールの耳が赤くなっているのが分かった。
何からどう切り出せばよいか逡巡したが、胸に手を当てて意を決し、声をかけた瞬間――二人の声が重なった。
「エマ」「ヴィクトール」
お互いの名を、お互いに呼んでいた。
その瞬間、気まずいと思っていた視線が絡み合って、思わず笑ってしまった。
――ああ、一体何をしていたのだろう……。
「ヴィクトール、意地を張ってしまってごめんなさい」
「いや、私の方こそ。変な態度で君を困らせたようで……」
エマは大きく首を振った。
「――私が……その、“跡”のことで、意地悪をしてしまったの」
「意地悪?」
ヴィクトールがきょとんとした。エマは恥ずかしそうに口を開いた。
「その……――。“跡”を人に見られるのは、恥ずかしいのは本当なの。その、服選びに困るのも。いつもあなたに翻弄されてばかりだから、ちょっとお灸を据えようと思って。怒っている振りをしてしまって……」
「いや、でもそれは私が悪い。反省している。私のつまらない独占欲で……」
ヴィクトールが叱られている大型犬のようにしょんぼりとした。
「そうじゃないの!」
「――……え?」
「その……そうじゃなくて。その……ヴィクトールが、私が怒ったあと……態度が変わったでしょ?」
「あ、ああ……?」
「口づけをしてもすぐ離れてしまうし、“跡”もどこにもつけなくなってしまったし、いつもどこか触れてくれていたのに全然触れてくれないし……」
エマは恥ずかしくて、きょろきょろと落ち着かないように顔を動かしていた。
ヴィクトールはそんな落ち着かない様子のエマを、まっすぐに見つめていた。
あのときのヴィクトールを思い出して、自分の言葉に悲しくなってしまう。
こんなことを言うのは、はしたないのは分かっている……。
でも……そういう自分も、彼に知ってもらいたい思いもあった。
「それが……とても寂しくて……。あなたの“跡”に困るとあんなに言ったのに、身体中からあなたの“跡”が消えていくのが、すごく……怖くて……――」
――寂しかった。
ヴィクトールに告白をしながら、自分が感じていた不安の輪郭を掴んでいくような感覚した。
エマの身体を黒い影が覆ったと思った瞬間、ヴィクトールが立ち上がって馬車のカーテンを閉めた。
「……え?」
明るい陽射しが隠れたと思ったら、ヴィクトールがエマの隣にスッと座った。
ヴィクトールは、逃がさないと言わんばかりに、エマの顎に手を触れた。
強引に上を向かせると覆いかぶさるように唇を寄せた。
ヴィクトールの舌がエマの口内に遠慮なく侵入し、息が絡み合う。
「あ……んっ……」
エマから吐息が漏れたが、解放される素振りはない。
エマを存分に味わうようにヴィクトールがエマの唇を離さない。
――嬉しいけど……息が……。
「ん……あっ……ヴィ……」
背中をトンッ……と叩くと、ようやくヴィクトールが唇を解放した。
ヴィクトールの腕に包まれる安心感と、突然の口づけの深さに身体の力が抜けていく。
瞳に映るヴィクトールの唇は、唾液と、エマの口紅も少し付いてしまっている。
ヴィクトールは、腕の中でぐったりとしているエマを抱いた。
「ごめん……。我慢が……。エマがあんまり可愛いことを言うから……」
ヴィクトールは、エマから視線を反らした。
「――エマに……嫌われるのが何より怖かったんだ。私は独占欲の強い男だし、君が傍にいるとすぐに際限なく触れてしまう。エマが怒っている様子を見て……このままだったら、愛想をつかされるのではないかと……思って……」
――……え?
今度はヴィクトールが気まずそうに告白を始めた。
「令嬢は余裕のある紳士的な男性を好むと思って……――」
ヴィクトールの言葉を聞いて、今まで不思議に思っていたことが、ストンと腑に落ちた。
――あの、行動は……そういう、意味だったの?
「私は……あなたが、私に興味を失ったのかと……」
「そんなことあるわけないだろう!」
「でも……――」
情けないヴィクトールの顔を見ると、前より愛おしく感じた。
ヴィクトールも同じように感じてくれていたら、嬉しい。
「ヴィクトール、口紅が……」と言うと、ヴィクトールはぐっと手の甲で乱暴に拭った。
――……リップは透明なものに変えてもらおうかしら。どうせ、私のものもすぐに剥がされてしまうのだし。
静かに馬車が停車するのが分かった。
ヴィクトールが小さくため息をついた。
「もう着いたのか……」
その反応にくすっと笑ってしまう。
――いつもの、ヴィクトールだ。
「……“責任”があるのでしょう?」
「……――分かっている。仕事はするさ」
――私だって、もう少し二人の時間を楽しみたかった。
ヴィクトールは名残惜しそうに私の唇を指でなぞると、「二人になるのは夜まで、我慢するよ」と囁いた。ヴィクトールは車内のカーテンを開け、何事もなかったかのような顔をして、馬車の前で待っていた所員に笑顔で対応した。
ヴィクトールは紳士の顔でエスコートのために手を差し出した。
エマは差し出された手を握りながら、「私の方が……待てないかも……」と密かに思っていた。




