第18話 決壊
重苦しい沈黙が支配する朝食を終えて、土壌分析のために研究所へ訪問するときのことだった。
「エマ、今日は私は大した政務もない。私と一緒に研究所へ行ってはどうだ?」
「は?」
ヴィクトールはルシアンの申し出に、思わず低い声を出した。が、失言と気付いたのか、パッと自分の口を押さえた。
「どうかしたか? ヴィクトール」
「別に」
「昨夜は君も茶会にくれば良かったのに。エマも寂しがっていたぞ」
「な」とルシアンが、明らかに面白がっている悪い顔でエマに同意を求める。
--やめてと何度も言ってるのに……。
エマはヴィクトールの反応を見ることも怖くなっていた。また、興味がないとでも言うように微笑まれたらどうしよう。私、立ち直れないかもしれない……。
「研究所へは、私が同行しますから」
ヴィクトールは、ルシアンの申し出をはっきりと断った。声のトーンはいつもの落ち着きがあった。
--怒っているわけではなさそうだけれど、これ幸いとルシアンに預けられなくて良かった。
エマがホッとしてヴィクトールの手を取って馬車に乗り込もうとしたら、ルシアンがしつこく食い下がった。
「ヴィクトール。でも、君は最近ずいぶん忙しそうだ。溜まっている政務があるなら遠慮するな。私が同行は変わってやれる。ノクス家にはずいぶん世話になっている。私にできることはしたいと思っていたんだ」
「ですから……結構です。これは、私とエマが任されている仕事ですから。私にも責任があります」
--責任……。そうか。今やヴィクトールが自分と一緒にいる理由はそういうものなのかもしれない。
エマはヴィクトールの言葉に、胸の奥を針で刺されたような痛みを感じた。ヴィクトールとの婚約が決まったときだって覚悟していたことだ。貴族の結婚は政務の一環みたいなものだもの。何を今さら傷つくなんて……。
「……そうか。それもそうだな。失礼した」
そう言ってルシアンは引き下がるのかと思いきや、何故かエマとヴィクトールと共に馬車に乗り込もうとしている。
「ルシアン殿下?」
エマはルシアンの意図が全く分からず驚いてると、ルシアンが、完全にヴィクトールを挑発するようにエマにウインクをした。
--まさか、また妙なことを……。もうやめてって言ってるのに……。
エマは先程のショックで潤んだ瞳のまま、ルシアンに必死で訴えるもの、ルシアンはどこ吹く風……。
「……ルシアン殿下、どうかされましたか?」
ヴィクトールは、先程とはワントーン低い声でそう尋ねた。
「ん? ああ、私も一緒に行こうと思ってな。なんだか最近君はエマに冷たいようだし、馬車の中でエマが寂しい思いをしてはいけない。そうだ。馬車の中で魔法のコントロール方法を教えてもいい。私はエマと同じ属性だから、君より教えるのにも向いているだろうし」
ルシアンの陽気な話とは、反比例してどんどん空気が凍り付いていくのが分かった。
--もうダメ。耐えられない……。
「エマ、馬車に乗るだろう? さあ」
ルシアンがエスコートのために、エマの手に触れようとした瞬間のことだった。
--バチンッ!
次の瞬間、ヴィクトールがルシアンの手を思い切り跳ね除けていた。
周囲の護衛もあまりのことに動揺したが、どう動くべきかが分からぬまま沈黙していた。
「……触るな。――私の妻だ」
顔をあげてヴィクトールを見ると、獰猛な獣のような瞳でルシアンを睨み付けていた。
そのまま、エマを後ろから抱きしめるように引き寄せた。久しぶりに、ヴィクトールの香りに包まれた気がした。たったそれだけのことで、瞳が潤むのが分かった。
ルシアンはヴィクトールに叩かれた手を痛がりながら、涙を堪えるエマに余裕の笑みを湛えた。
そのとき、エマは初めてルシアンの作戦の全貌を把握した。
--ルシアン殿下……。
「痛っ……。本当に不敬なヤツだな」
「どちらが不敬ですか。人の妻を夜に誘ったり、嫌らしく触ろうとしたり」
「嫌らしくなんて触ろうとしてないだろう。ただのエスコートだ。君が変なことばかり考えているから、そういう風に見えるんだろう」
「大きなお世話です」
ヴィクトールが憮然とした態度で言い返す。
その様子にルシアンは腹を抱えて笑っていた。
「そう、その調子だよ」
「は?」
「物分かりの良い紳士振ったって似合わないということだ」
「どういう意味ですか」
「自分が一番よく分かっているのではないか。何を拗らせたのか知らないが、君の紳士面は全く面白味がない。アステリアで出会った君が全く面白くなかったことを思い出したよ」
ヴィクトールは、ルシアンの物言いに、自分が最初から乗せられていたことに気が付いた。
「……ようやく分かったか。全く世話の焼けるヤツだ。本当は敵に塩など送りたくはないが、そういう面倒なヴィクトールの方がエマも好きみたいだぞ」
「え?」
ヴィクトールは思わずエマを見る。
エマの顔はルシアンの暴露で赤くなっている。
--え? エマが、面倒な私が好き? 令嬢は余裕のある紳士を好んでいるのでは? それにあんなに跡のことだって怒っていたわけだし……。そんな、まさか……。
エマが自分の赤くなった頬を隠すように両手で覆っている。その仕草に、都合の良い解釈をしてしまう。
「私も拗らせた君の方が揶揄い甲斐があって好きだぞ」
ルシアンはヴィクトールとエマに不敵に微笑んだ。
「じゃあ、私は政務に忙しい。あとは2人できちんと話すように」
ルシアンは片手を上げて屋敷に戻って行った。
ルシアンの背中を見送っていると、エマがそっとヴィクトールの手を握った。
「研究所へ……行くのではないですか?」
上目遣いに尋ねるエマに、もう理性が崩壊しかかりながらも、互いに何も言えないまま、2人で馬車に乗り込んだ。




