第17話 ルシアンの不穏な協力
外で楽し気なエマの笑い声がかすかに聞こえた。
政務の手を止めて、思わず外を見ると、ルシアンとレイヤードが彼女と共に笑っていた。
自分の胸の奥がチリっとするのが分かって、すぐに窓辺から離れた。
ここ数日のヴィクトールは、かなり耐えている。
ルーの上でエマが自分を可愛らしく見つめているときだって、気付かないふりで紳士的に振る舞った。風に舞ってエマの髪の香りが鼻孔をくすぐる度に、呼吸が荒くなるのを感じたが何とか律することができた。その夜も、しつこくエマに触れるようなことも我慢した。
先ほど廊下では無意識にエマの手に触れてしまったようだが、あれは事故みたいなものだ。
エマの戸惑った顔は気にはなったが、あのくらいの触れ合いはノーカウントだろう。
そう思い込まなければ、平静を保てなかった。
今までのような我が物顔でべたべた触りまくるような態度は控えている。
どれもこれも、エマに愛想をつかされないためだ。
令嬢が憧れを抱くような男は概して余裕のある男だ。(多分)
少なくとも、自分のように彼女に触りまくる獣のような男ではないのは確かだ。
だからこそ、ヴィクトールは不屈の忍耐力で貴公子の仮面を張り付けている。
でも、エマがああして他の男に笑顔を向けている姿を見てしまうと、自分では抑えきれないマグマのような苛立ちが襲って来る。
だから、なるべく視界に入れないようにしている。
エマと一緒にいる時間が短くなるのは、胸が引き裂かれるような思いだが、エマに触れられなくなる苦しさを思えばまだマシだ。
ヴィクトールはエマのことを考えないように、執務に没頭した。
◇◇◇
「本当にエマは教え方がうまい。薬学の知識もさることながら、教師としての才もあるな」
ルシアンはいつも以上に上機嫌にエマを褒め称えていた。
ルシアンの言葉に義父母も機嫌を良くしている。
本当に二人とも実の子以上の可愛がりっぷりだ。
「ルシアン殿下、おやめください。私が教師としての才があるなど、この世の全ての教師への冒涜です」
「そんなことはないだろう」
エマは微妙な顔でルシアンの誉め言葉を交わしている。
後ろに控えるレイヤードの表情も、なんだか微妙なものに見える。
――どうかしたのか?
食事を終え、両親が席を外した後、ルシアンが部屋に戻ると思いきや、振り返ってエマに声をかけた。
「ああ、そうだ。エマ、食事も終わったことだ。少し私の部屋でお茶でもどうだ?」
「――え?」
「ユマーノ、エマが前に好んでいた菓子があるだろう」
「ディベリアン・パールですか?」
「そう、それだ。それとフローラリアの花紅茶もあったな」
ルシアンがエマに微笑んだ。
エマはその微笑みに、軽い咳ばらいをした。
「ルシアン殿下、もう夜も遅いですから。そんな時間にお部屋を訪問するなど」
「ああ、レイヤード。君も一緒に来たらよい。――さきほどの話の続きをしたいんだ」
エマとレイヤードは顔を見合わせて、微妙な顔をした。
「……――殿下、そういうわけには……」とエマが言うと、「分かっている」というようにエマの言葉を制して
「ヴィクトールも来るか」と言った。
ルシアンが挑むような視線を向けてきた。
「何、君はずいぶん政務に忙しそうだったから声をかけなかっただけだ。特に他意はない。良かったらたまにはお茶も良いだろう。王室御用達のものだ。香りが良い。君の心も落ち着くことだろう」
「殿下!」
エマはルシアンの言葉を制した。
その態度が妙に親密なような、二人だけが分かっている何かがあるような、そんな感じを思わせてヴィクトールの理性をジリジリと焼き尽くそうとしていた。
頭に血が上りそうになるのを、静かに息を吐き出しながら、なんとか抑えた。
エマから視線を外して、表情をなんとか取り繕ってルシアンを見た。
――……挑発、されている。
最近のルシアンは、こんなあからさまな視線を向けることが無くなっていた。
私が見ていない間に、エマとルシアンの間に何かあったというのか。
二人の顔を見ていても、頭に血が上っていて冷静に判断ができない。
「どうかしたか? ヴィクトール」
「――……いえ」
「じゃあ、一緒に」
「いえ、私は結構です。エマは……」
「私も今日は遠慮いたしますわ、殿下」と、エマがヴィクトールと一緒に退出しようとした。
「いや……。エマは……、少しお茶でもしたらいい」
「――え?」
エマも、レイヤードも、驚いたように目を見開いた。
自分でも驚いている。
でも、このままエマと一緒に部屋に戻ったら、自分が感情に任せてエマに何をするか分かったものじゃない。そして、そんな自分をエマに見せたくなかった。少しエマと離れて、冷静にならなければ……――。
――こいつの部屋に行かせるのは気に食わないが……。
「レイヤード、あまり遅くならないように気を付けてくれ」
「……かしこまり、ました」
エマの“弟”は、生真面目な青年だ。彼に注意しとけば、おかしなことにはならないだろう。
「では、私は先に……」
血管が沸騰しそうな苛立ちを抑えながら、なんとか氷の貴公子の笑みを張り付かせた。
◆◆◆
笑いが堪えきれないという感じで、ルシアンが自分の口を押えている。
「重症だな」
「――……悪化したじゃないですか……」
エマの目が潤んでいる。
「だから余計なことはしないでほしいと言ったのに」と、嘆いていた。
「まあ、まあ。私の読みではあと一押しだから、待ちなさい」
「もう、もう、もう……本当にやめてください」
「私も寿命が縮まる思いでした」
青ざめた顔のエマとレイヤードを余所に、ルシアンだけは妙に愉快そうだ。
「せっかくだから、お茶と菓子を楽しんでくれ。ディベリアン・パール。前気に入ってくれただろう」
「そんな……食べる気持ちになりません! あんなヴィクトール様の様子を見て、お菓子なんて喉を通りません」
嘆くエマの隣で、レイヤードはパクッとカラフルな丸いお菓子を口にした。
「……おお、すごい。口の中で溶けていくようだ。エマ、これなら喉を通らなくても」
レイヤードはディベリアン・パールのくちどけに感心してエマを見ると、冷たい視線に晒された。
「――そういうことじゃ……ありませんよね」
レイヤードは身体を小さくして、花紅茶を飲んだ。
あまりのおいしさに驚いた顔をしていたが、さすがにエマに勧めることはなかった。
「エマ、紅茶くらい一口良いだろう。気持ちも落ち着くさ」
ルシアンの強い勧めに、エマもさすがにカップに口をつけた。
甘い花の香りが鼻孔をくすぐる。少し気持ちが和らぐような気がした。
――夜にルシアン殿下の部屋への訪問を許すなんて……。ヴィクトール、もしかして、私に興味がなくなったのかしら……。
今までのヴィクトールなら絶対にあり得ないことだった。ヴィクトールが怒り出したら大変だと思って、エマもルシアンの誘いを何度もはっきりと断った。不敬かもしれないけれど、それよりもヴィクトールの気持ちを優先したかったし、エマ自身ヴィクトールと一緒に過ごす夜の時間は貴重なものなのだ。それなのに……――。
花紅茶の甘い香りが、胸の奥まで落ちてきて、エマを静かに絶望に突き落とした。
少しだけ、ルシアンを恨みたくなる気持ちになる。
ルシアン殿下がこんなことなさらなければ、ヴィクトールの心変わりに気付くこともなかったのに。
「エマ」と、ルシアンが紅茶を見つめるエマの顔を覗き込んだ。
「……はい」
声が少し擦れてしまった。
「言っておくが、あの男が君から興味を失うことはないぞ」
自分の心の中の不安を言い当てられ、ルシアンと目が合う。
エマの様子を心配そうにレイヤードが見ていた。
「……でも――」
あの姿を二人も見たはずだ。
笑顔で、エマを送り出したではないか。
「エマ、大丈夫だ。私に任せなさい」
「……ルシアン殿下……。本当にもう放って」
「レイヤード、そろそろ部屋へ」
湯あみをして夫婦の寝室に入ったときには、ヴィクトールはいつものヴィクトールそのものだった。最近の習慣になっているその日の出来事は話したが、お茶会の件だけは一言も触れてこなかった。
まるで、最初から存在しなかった出来事のように。
今日は夜7時頃ににもう1話投稿予定です。




