第14話 密談
「ナタリー……。君を信頼して相談したいことがある」
これ以上ないほど深刻な顔をしてヴィクトールがナタリーを訪ねた。
しかも、エマがルシアンとレッスンをしている時間を狙って。
――どうされたのかしら? ルシアン殿下と一緒のときは、必ず奥さまのお傍を離れないのに……。
ナタリーは、初めて見る意気消沈したヴィクトールを目にして動揺した。
「ど、どうされたんですか? 旦那さま。そんな……私にご相談なんて……」
「君にしか、相談できないことなんだ」
心なしか疲れた顔をしたヴィクトールが、縋るようにナタリーを見た。
ヴィクトールの執務室に通されたナタリーは、そのシチュエーションに既視感を覚えていた。
――そういえばあのときの“尋問”も、この部屋だったわ。それにしても、今日はずいぶん肩を落とされているみたい。
「その……」
ヴィクトールは言い出しにくそうに、ナタリーに「エマと……喧嘩をしてしまって」と切り出した。
――奥さまと、喧嘩!?
ナタリーがヴィクトールの言葉に瞠目した。思わず言葉を失う。
あり得ない。10年エマの侍女をしているが、エマが誰かと喧嘩をすることなどほぼ見たことがない。
弟のエドワードとは子どもの頃は多少喧嘩をすることはあったが、それも長引いたことなんか一度もない。二人とも穏やかな気質だし、さっぱりもしている。いつの間にか元通りになっていた。
ナタリーが驚きで言葉を失っていると、ヴィクトールが絶望したように頭を抱えている。
「昨夜、誠心誠意謝罪したのだが……」
昨夜はあの後、口づけも許して貰えなかった。
眠るときに抱きしめるのはなんとか許してもらったが……。
今朝もなんだか……、冷たかった。
朝食のときは、給仕の仕事を奪ってエマの世話をするのが日課になっている。
いつもはヴィクトールが選んだパンを微笑んで受け取ってくれているのに、今日は礼は言ってくれたが、すぐに目を反らされてしまった。
このままでは“エマ成分”が不足するのが目に見えている。
抱きしめているのに、口づけも……、それ以上のことも、させて貰えない……。
それがこんなにも堪えるとは思わなかった。
さすがにナタリーにそこまで相談することは、ヴィクトールの矜持が許さないが。
「一体、何があったのですか……?」
驚いたナタリーが、最もな質問をヴィクトールに投げかける。
ぐっとヴィクトールが言い淀む。
――相談しているのに、理由は言わないなんて……そんな不誠実なことはないのは分かっているが――内容が内容なだけに……。
「失礼いたしました。お話されなくて、結構です」
ヴィクトールが言い淀んでいると、ナタリーが慌てて質問を撤回した。
「いや、その……。すれ違いというか。私の独占欲が過ぎたのかと……」
ヴィクトールが、いつもの様子とは違い、ポツポツと途切れ途切れに言葉を紡いだ。
ナタリーはそのヴィクトールの様子に、なんとなく事態を察した。
――もしかして……。
昨日の衣裳選びのとき、奥さまはずいぶん恥ずかしそうにされていた。
もしかして、あのこと……?
ヴィクトールが赤くなった目元を隠すように手で覆い、ナタリーから視線を反らす。
――そういうことだったら、奥さまは怒ってはいないとは思うけれど……。
ナタリーは、困り果てるヴィクトールの姿を見て、主人の意図をなんとなく察していた。
もしかしたら、お灸を据えていらっしゃるのかしら。
身体中に残った“跡”に戸惑っていた奥さまからはずいぶん変わられたみたい。
「旦那さま、そんなに気にされなくても、奥さまは大丈夫だと思います」
「そうか……?」
「旦那さまの愛は、奥さまには十分伝わっていますわ。ただ、奥さまは戸惑われているのだと思います。旦那さまが奥さまの意思を尊重されましたら、元に戻られると思います」
安心させるようにナタリーは微笑んだ。
「そう……か」
ヴィクトールは執務室から、エマとルシアンのレッスンの様子を盗み見た。
監視はレイヤードに任せたが、エマとルシアンがリラックスした表情をしているのが目に入る。
ヴィクトールは、ちりっと胸の奥が痛むのを感じた。
――分かってる。エマが私を愛してくれているのは。でも、それとこれは別なんだ……。
エマの視線の先にいるルシアンを忌々しく睨んだ。
勘の良いルシアンが、窓辺に立つヴィクトールに気付き笑った。
――なんなんだ。あの優越感たっぷりの笑みは。
ルシアンの様子が、またヴィクトールのイライラを容赦なく掻き立てる。
――ダメだ。こんなことでイライラしていては……。余裕のない男は嫌われる。
ケイティから借りて読んだロマンス小説には、そんなことが書いてあった(気がする)。
エマはロマンス小説はあまり読まないようだが、読まなくたってこんな嫉妬深い態度を好むわけがない。だからこそ、あんなに“跡”に怒っているのだろうし。
ヴィクトールは目を閉じて、息をすーっと吐き出して自分の心を落ち着けた。
「旦那さま、どうかされましたか?」
窓辺に立ったまま硬直しているヴィクトールをナタリーが心配している。
「ああ、なんでもない」
「あ、奥さまと……ルシアン殿下」
ナタリーがヴィクトールの心中を察したような視線を向けた。
「大丈夫だ。ただのレッスンなのだから。別になんでもない」
ヴィクトールは自分に言い聞かせるように、やたらとはきはきと答えた。
その顔は久しぶりに“氷の貴公子”そのものだった。
――本当に……大丈夫なのかしら?
大丈夫だという人間ほど、大丈夫ではないとは古今東西常識のようなものだ。しかし。目の前にいる“無敵”の主人が「大丈夫だ」と言っているのだから、大丈夫ではないと扱うのは不敬というものだろう。
「失礼いたしました」
「いや。ナタリー……エマに贈り物をすることにする。クロードに商人を呼ぶよう言っておいてくれ」
ヴィクトールは、婚約時にカイルに言われた“令嬢には贈り物を”というアドバイスに縋らなければならない精神状態だった。
「かしこまりました。奥さまもお喜びになることと思います」
「君にそう言ってもらえると心強いよ。ナタリー、ありがとう。もう下がっていい」
そういうと、ヴィクトールは何かを抑えるように微笑を称えてナタリーを送り出した。
――本当に、大丈夫かしら……。
そんなヴィクトールの様子に、ナタリーは小さな不安を拭えずにいた。




