第13話 喧嘩
――なぜこんなことになったのか。
久しぶりに義母御用達の仕立て屋の女主人と会った。
「奥さま、パレードのご衣裳も本当にお似合いでしたわ。私も当日会場で拝見いたしましたが、本当にたおやかな姿がお美しくて……」
さすがは商売人。立て板に水のごとく、とはまさにこのことだ。
――悪い人ではないのだけど、この口上には慣れそうにないわ。
義母は女主人の口上を満足気な笑顔で聞いている。
「それで今日はどういったドレスをお作りすれば良いでしょうか?」
女主人の顔が既に張り切っている。
「本当はね、新しいイブニングドレスとか、お茶会用のドレスとか、お出かけ用のドレスだとか、そういったものをたくさん作りたいのだけど……」
「はい」
「……作業服を……」
義母は不本意そうに女主人に呟いた。
――え? 作業服?
まさかの言葉にエマは義母を二度見した。女主人の顔を見たとき、また着せ替え人形になるのだと覚悟をしていたのに。
「ヴィクトールの子どもの頃の古着をこの前は貸しましたけど、あれではサイズも合っていないでしょう? 今後も必要ならエマ用の作業服もいると思ったのよ」
「お義母さま……」
調査には反対していたはずなのに……。義母の優しさが身に染みた。
「本当は作業服じゃなくて、イブニングドレスとか、お茶会用のドレスとか……」
義母は再び不満たっぷりに言ったが、「今日は動きやすい作業服を! 可愛らしい作業服がいいわ」とやはり張り切っていた。
「お任せください! 女性用の可愛らしい機能的なものを作ってみせます」
「頼んだわよ!」
義母と女主人の目にやる気の炎が見えた気がした。
◇◇◇
「それで作業服も仕立てていただくことになったのですけど、結局お茶会用のドレスだとか、お出かけ用のドレスだとかも新しく揃えていただいて」
昼間の義母との作業服騒動は思い出しても笑ってしまう。
夜の二人きりの時間は、こうして日中に起こった話をすることがいつの間にか二人の慣例となっていた。作業服選びのとき、ヴィクトールはレイヤードと剣の鍛錬に精を出していた。
「こっちはレイヤードが張り切っていたよ。皆、誰かさんに振り回されっぱなしだ。エマを危険な目に遭わせるわけにはいかないから、私もずいぶん稽古に精を出したんだ」
「労わってもらわないと」と、ヴィクトールがエマの首に顔を埋めてちゅ……と口づけた。エマはその仕草にはっとしたように、ヴィクトールを押し返した。
「なんだよ。君のために頑張っている夫を癒してくれないの?」と、ヴィクトールは口を尖らせた。まるで子どもみたいな仕草で、思わずヴィクトールを受け入れたくなったが、そうはいかなかった。
「ダメ」
「なんで……」
「今日、仕立て屋の方にも……お義母さまにも、見られたの」
エマは気まずそうに視線を下におろした。ヴィクトールの目を見て訴えることは恥ずかしくてできなかった。
「見られた?」
ヴィクトールは絶対に分かっているはずなのに、惚けている。
エマはそんなヴィクトールを恨めしそうに睨んだ。
「何を? 見られてはいけないものなんてあったか?」
「……首筋の……跡です」
「跡?」
エマの首筋に残る自分の口づけの跡を、ヴィクトールは嬉しそうに指でなぞった。
「これか」
エマの身体中に残る跡を見た後の『小辺境伯様は奥さまに夢中なんですわね』という、女主人の笑みが忘れられない。あのときは、羞恥で全身の血が駆け巡っているのが分かった。
お義母さまにはお洋服をお借りしたので、薄々気付かれているとは思っていたけれど……。
『あの子、こんなに……』と呆れたようにつぶやいていて、本当に居たたまれない思いだった。
ヴィクトールは、この身体を見られるときの羞恥が分かっていない。
生温かい笑顔に晒されながら、なるべく肌が見えない普段着も数着新調してもらうことになった。
「とにかく、服で隠れないところに残すのはやめてください」
「気をつけてはいるんだけど……」
ヴィクトールは殊勝な態度だったが、全然気をつけていないことはエマも気付き始めていた。
そして、こんなにも跡を残すことが普通ではないことにも。
「嘘です」
「嘘じゃないよ。君のことになると夢中になって抑えが利かないだけなんだ」
「そんなわけ……」
「ないっていうの?」
ヴィクトールはエマの顎を捕らえて、深い口づけを落とした。
「あ……んっ……」
脳内が溶かされて、考えられなくなっていく。潤んだ瞳でヴィクトールを見ると、策士の目をしているのが分かった。
――もう、またこうやって誤魔化そうとして……。
「やめてっ……」
エマはヴィクトールの口づけから逃れるべく身を捩った。いつもならヴィクトールの抱擁に負けてしまうが、今日のエマは違った。力いっぱいヴィクトールを押した。エマの抵抗が本気の抵抗だと気づいたヴィクトールは慌てて唇を離した。ヴィクトールの唇が、唾液で濡れていた。思わず恥ずかしくて目を反らす。ヴィクトールは、少し慌てたようにエマの顔を覗き込む。
「怒った?」
「……――知りません」
プイと横を向くと、ヴィクトールがご機嫌を取ろうとしている。
「気を付けるよ……」と、今度は真剣なトーンでため息をついた。
「気を付けるだけでは困ります。ヴィクトールは、この跡を見られる度に気まずい思いをしているのが分からないからそんな態度なんです」
「じゃあ、私にもつけていいから」
エマの頬にサッと赤みが差した。
「そんなこと……しません!」
「別に私はいいのに」
「私はよくありません」
「じゃあ、どうすれば良いんだ」
「つけなければ、良いのです」
「――……」
ヴィクトールが不服そうに黙って、何かぼそぼそと言っていた。
「……なんだ」
「何ですか?」
「……心配、なんだ」
――心配? ヴィクトールは一体何を心配しているのか? まさか……。
「まさかとは思いますが、私が浮気でもすると思っているんですか?」
ヴィクトールはエマの言葉にパッと顔を上げた。まるで図星だと言っているような反応に、エマは気分が悪くなった。
「ひどい……。そんなふうに思われていたなんて……」
――そんなに信頼されていないなんて、思いもよらなかった。出会って半年ほどではあるが、エマはヴィクトールとの固い絆を感じていた。
「違う……。そういうことではなくて……」
ヴィクトールが否定すればするほど、肯定しているように聞こえた。
起こってもいないことを疑われていることに、胸の奥がズンと重くなるのが分かった。そして、目の奥が熱くなった。瞳に涙が浮かんで来たが、こんなことで泣きたくなんかなかった。
「エマ、泣かないで。違うんだよ」
「泣いてません……」
否定する声が震えてしまう。
「エマ……」
ヴィクトールに背を向けたエマを、ヴィクトールはぎゅっと包んだ。
「離してっ」
「エマ、悪かったよ。私が……その、狭量なだけだ。ルシアンもいつまでも君の周りをうろついているし……君は、無自覚に可愛いから……変な虫を寄せ付けかねない。それで、その、君が、誰のものなのか分かるようにしておけば……一緒にいないときも安心だと思って……」
ヴィクトールが、エマの機嫌を取ろうとするではなく、素直に自分の気持ちを話してくれた。
「君がルシアンをただの友人だと思っていることも、きちんと距離を保ってくれていることも、分かっている。でも……――その……。君に自分の跡を残して……君が私のものだと、実感したかった」
叱られた子どものようなヴィクトールに、先ほどまでの思いがスーッと霧散するのが分かった。
信用されていない、疑われていると悲しく思ったはずなのに。ヴィクトールの懺悔を聞いていると、今度は胸が熱くなった。
「……エマ、怒っている?」
本当はもう怒っていなかった。むしろ笑いそうになるのをこらえていた。
でも、いま笑ってしまったらヴィクトールの良いようにされてしまう。
たまには反省させておいた方が良いかもしれない。
エマは困り果てたヴィクトールに、プイッと横を向き「知りません」と繰り返した。
ヴィクトールは青ざめた顔で「もう残さないから」と繰り返し謝罪した。




