第20話 準聖女(ヴィクトール視点)
第20話 準聖女(ヴィクトール視点)
「準聖女?」
エマはカイルの口から出た言葉をオウム返しした。
「エメリン嬢から噂の真相を聞いたとき、何らかのかたちで王家の守護が必要となるだろうと考えていた。ただ、結婚の準備もあるし、その後でも良いかと思っていたが、のんびりはしていられない状況のようだ。ルシアン殿下のこともあるし、教会もまた動き出したようだ」
ルシアンの名を聞き、ピクッと眉間に皺が寄るのを感じた。
いけない。平静にいなくては。ヴィクトールは、心の中のマグマのような怒りをぐっと押し込めて、カイルの話を聞いた。
「一介の侯爵令嬢に過ぎないエメリン嬢は、いまは帝国も、教会も、手出しがしやすい状況だ。
しかし、王家が公認している存在であれば、どうだろう。
守りも今より固めることができるし、少なくともルシアン殿下のようなふるまいは、多少は抑止できるだろう」
カイルはそう口にしながらも、新たなトラブルも予想をしていた。
「まあ、代わりに喉から手が出るほど“聖女”を欲しがる他国から、正式な求婚が殺到する可能性もあるが……」
カイルは、求婚の手紙を見るたびに、青筋を立てて怒り狂いそうなヴィクトールをチラッと見た。
「正式な結婚を待ってから、あるいは結婚式と同時に、公式の存在として認定することを考えていたが、ことは一刻を争う」
カイルの言うことは最もだ。
エマの命を守るためには、その方法が今のところは得策なのだろう。
エマへの求婚者が増えるのは望ましくはないが…――。
「まあ、なんて言うか。頑張れ」
カイルはヴィクトールの肩をポンと叩く。
エマはそんな二人の様子を傍観者のように眺めていた。
おそらく自分に求婚者が殺到するだろうとは、想像できないのだろう。
本当に我が婚約者殿は、自分の価値に疎い。
ヴィクトールはエマがいつ奪われるか、気が気ではないというのに。
本当に、分かっているのだろうか。
「どうかしたか?」
「いえ……。その、準聖女と言うのは、一体どういう……」
「ああ。まだ内容は詰めてはいないが、エメリン嬢は今までと変わらず薬学の研究に努めていただいて良いと私は考えている。暮らす場所も、ノクス領で問題ない」
「それでは、私にばかり利があるのでは……?」
「そんなことはない。エメリン嬢がノクス領の瘴気を取り払ってくれれば、手薄だった辺境も今以上に栄えるだろう。結果、国としては大きな恵みとなる。
エメリン嬢がしてくれていることが、既にこの国に大いに貢献してくれていることなんだよ」
カイルは、エマに自信を持たせるように告げた。
ケイティ贔屓のカイルですら、エマの置かれた状況に同情しているのかもしれない。
「まあ、とりあえず準聖女認定の件は、もう少し詰めてから陛下に相談する。少し待ってくれ」
「ありがとうございます」
エマはカイルの申し出に「私なんかのために」とは言わなかった。ただ、丁寧に頭を下げた。
◇◇◇
「まあ、ここもすごいわ」
王宮から気軽に出られなくなったエマを思ってか、カイルが王宮内の図書室を薦めてくれた。
しかも、限られたものにだけ許される書庫の許可も添えてくれた。
おかげで久しぶりに手放しに喜ぶエマの顔を見ることができた。
――…カイルには、本当に感謝だな。
エマは夢中で書棚を眺め、どのようなものがあるか、目を輝かせて見ている。
ヴィクトールは周囲に目を配る。
扉の前にはレイヤードと、王宮の護衛も張り付いてはいるが、エマを狙う者が教会関係者であるならば、平生を装って近づくことだろう。
見慣れぬ者、あるいは、よく見る者はいないか、この書庫内を気にしている者はいないか…。
警戒に警戒を重ねても、ヴィクトールの中の不安はぬぐい切れない。
「……あっ!」
踏み台に乗って本を取ろうとしたエマが、バランスを崩していた。ヴィクトールはすかさずエマを抱きとめた。
エマを抱きとめた瞬間、エマの香りが鼻孔をくすぐった。甘い、香りだった。
支えるために触れた二の腕は、細く、柔らかい。
この前、不躾に手を握って拒否されてから、ヴィクトールはエマの身体に触れることには慎重になった。
あの後、エマはすぐに謝ってくれていたが、身体の反応の方がエマの本音だろうということは分かっていた。
そういえば、ノクス領の診療所で出会ったときに、身体が触れたときも怯えているような様子だった。
ほんの数カ月前のことなのに。ずいぶんと時が経ったようにも思う。
あの頃は、エマのことはただの政略結婚の相手としてしか思っていなかった。
エマは物静かだったので、姦しいご令嬢よりは良いと言う程度の思いだった。
ノクス領で過ごしてからは…――。
気が付いたら、エマに触れたいと思うようになっていた。
エマが何も言わないのを良いことに、婚約者面で、手を握り、髪に触れ、指先や唇への口づけ、抱擁…――。
過去の自分にため息をつきたくなる。
エマの白い首筋に顔を埋めたくなる衝動に耐え、エマの腕からそっと手を離した。
適切な距離を取り、「エマ、取りたいものはどれだ?」と声をかけた。
エマは真っ赤になった顔をで、ゆっくりと振り返った。
「あの……」
「ん?」
エマの瞳が、困ったように左右に動き、小さく下を向いた。
「どうかしたか?」
また、触れたのが嫌だったのか。いや、でも、いまのは不可抗力だ。
首筋を見しまったことに気づいたのか。エマは小声で何かを言っているようだった。
「何か、あったのか?」
エマは、潤んだ瞳でヴィクトールに向き直った。
「ヴィクトール様」
「ああ」
「先日は、大変失礼なことをしてしまい、申し訳ございませんでした」
エマは丁寧にヴィクトールにお辞儀した。先日…というと、私の手を振り払った件か。
「いや、そのことは…。本当に私が悪かったんだ。エマは気にすることはない」
「でも…――」
「私が紳士としての礼を欠いた行動を取ったんだ」
「ですから……もう、気にしてはいません」
エマがヴィクトールに食い下がった。
「そう、か……。それは、有難いが……」
エマの真意がよく分からない。ヴィクトールと目が合ったエマは、そっと視線を反らした。
一体、何なんだ。ルシアンに「女性に慣れていない」と言われた言葉が蘇った。
確かに、今まで関わりを避けて来たから、女性の心情の変化に気付くのは普通より鈍いのかもしれないな。
母にはよく朴念仁とも言われていた。
エマの気持ちは分かっていたつもりだったが、思い上がりか。
エマがおずおずと、ヴィクトールの手に触れた。ヴィクトールの手を持ち上げると、小さな両手でヴィクトールの手を包んだ。
ヴィクトールは、何が起こっているのか分からず、固まった。
「ヴィクトール様」
「あ、ああ…」
「嫌では、ないのです。むしろ……」
エマはヴィクトールの視線に、訴えかけた。エマの小さな手は柔らかかった。
エマのその言葉に、仕草に、ヴィクトールの理性が切れそうになった。
「エマ……、君は何を言っているのか、分かって、いるのか?」
エマはヴィクトールの言葉を何か勘違いしたのか、慌てて握っていた手をパッと離した。
「失礼しました…」
「そうじゃない。……その、本当に触れてもいいのか」
エマは静かに頷いた。
ヴィクトールはかすかに震える手で、エマの頬に触れた。桃色の頬は、とても柔らかかった。
そして、小さな唇から目が離せなくなった。
馬車に乗っていたときも、誘惑に抗えず彼女の了解も得ずに口づけしてしまった。
紳士の余裕なんか、微塵もなかった。
吐息が触れてしまいそうな距離。
「エマ、君は私がどれだけ君に触れるのを我慢していたと思うんだ」
エマの瞳を見つめる。紫の瞳が揺れている。
「ヴィクトール…様…?」
ヴィクトールの思いがどこまで伝わっているのか。
エマをどれほど愛おしいと思っているのか。
この腕の中に閉じ込めたいと思っているのか。
ヴィクトールはエマの折れそうな身体をぎゅっと抱きしめた。
「もう、離さない。誰にも、渡したくない……」
エマの手がヴィクトールの背中に触れた瞬間、ヴィクトールの唇が、エマの唇に重なった。
エマはヴィクトールの口づけを、愛らしい表情で受け入れていた。
「んっ…」
甘い吐息が漏れる。ヴィクトールは容赦なく、エマの唇を奪い続けた。
もう、離したくない。エマをヴィクトールのことでいっぱいにしたい。
ヴィクトールは自分の思いをぶつけるように、エマの小さな唇を熱くむさぼった。
その瞳には、狂気が宿っていた。




