4話 それでも彼は生きている
午後の授業が終わるチャイムが鳴り響く。
その音が、どこか“終わり”ではなく“始まり”を告げている気がするのは――気のせいだろうか。
ざわつきだす教室。
課題の確認、帰り支度、無意味な笑い声。
それらすべてを背に、俺は静かに教室を出る。
廊下は淡い夕焼けに照らされていた。
昼間の喧騒は和らいでいるはずなのに、なぜか胸の奥に小さな棘のような違和感が残っていた。
……さっきの出来事のせいか。
あの“澄”という少女が、クラスで無視され続けていたこと。
ノートを踏まれても、言い返すことすらできなかったこと。
それを俺が止めたこと。
――いや、別に“正義感”なんてものじゃない。
ただ、虫唾が走っただけだ。
群れて強がる生き物の姿が。
(……またか)
昇降口へ向かう廊下の角を曲がった時、その光景が視界に入ってきた。
三咲 澄が、また囲まれていた。
今度は、もっと人気の少ない場所。
教室の陰じゃなく、階段裏のくぼみ。
そこに、二人の吸血鬼の女子生徒が立っていた。
一人は、あのときノートを踏んだ少女。
もう一人は、その取り巻きだ。
「アンタさぁ、マジでキモいんだよねぇ。何?今度は“ハーフくん”のご機嫌取り?」
「影でこそこそしないでさ、せめて消えてくれない?」
「“見てました”とか、“拾ってもらいました”とか、調子乗んなよ?」
乾いた声で笑うその口元は、もはや笑顔ではなかった。
冷たく、歪んだ、ただの八つ当たり。
澄は、何も言わない。
何もできない。
ただ黙って、じっと俯いているだけだった。
……ああ。
要するに、あのとき俺に睨まれたのが気に食わなかったんだろう。
だから、“こっち”を狙えない代わりに、“弱い方”を再び踏みにじってる。
(下らない)
足音を立てずに、俺は彼女たちの背後に立った。
「……放課後にしては、ずいぶんと楽しそうだな」
声をかけた瞬間、二人の肩がビクリと跳ねた。
「え、えっ……あ、アンタ……」
「うっわ、まーた来たよ……」
振り返った吸血鬼の女子生徒が、強がるように舌打ちをする。
「なに、正義の味方気取り?あたしら、別に何もしてないけど?」
「そうか。なら、今ここで“何か”されたら、お前も文句はないな?」
俺の声は、あくまで静かだった。
だが、二人の顔色が目に見えて変わる。
……ああ、こういうのは、慣れてる。
俺がどんな目で見られているかくらい、わかってる。
「ちっ……行こ」
「……最ッ悪。もうマジで、あんな地味子に関わるの、罰ゲームなんだけど」
吐き捨てるように言い残して、二人は逃げるように立ち去っていった。
残されたのは、静まり返った廊下と、
まだ震えて立ち尽くしている少女。
澄は、顔を上げない。
何も言わない。
ただ、自分の手元を見つめていた。
俺は何も言わずに踵を返す。
余計な言葉をかけたところで、届かないこともある。
……だが、少しだけ足を止めて、背中越しに呟いた。
「……大丈夫だ。“あいつら”より、君のほうが、ずっと強い」
その意味が、今の彼女に届くかはわからない。
だが、誰かに何かを言葉で投げかけることが――
思ったより、悪くないと感じている自分がいた。
そして俺は、再び歩き出す。
誰もいない放課後の、長い廊下を。
廊下を歩く足音だけが、夕暮れの静寂に溶けていく。
教室も、階段裏も、もう背後に遠ざかっていた。
再び、いつもの静けさに身を沈めようとしたその時――
「……ま、待って」
か細い声が、後ろから届いた。
足が、止まる。
振り返ると、そこには――
まだ震えたまま、必死に息を整えながら、こちらに手を伸ばしかけている三咲 澄の姿があった。
制服の袖は少しくしゃくしゃで、視線は床に落ちたまま。
だけど、その肩は確かに、ほんの少し、前に出ていた。
「……ありがとう、って……言いたくて」
その言葉が出るまでに、どれだけの時間がかかったのか。
どれだけの勇気を使ったのか。
それがわかるほど、彼女の声は掠れていた。
「……別に、礼なんていらない」
俺は短く返す。
だが澄は、小さく首を横に振った。
「……でも、誰かに……助けられたの、初めてだったから」
「……君の声、ちゃんと届いたよ」
そう言った瞬間、彼女の肩が、ほんの少しだけ震えた。
それが安堵なのか、それとも別の感情なのかは、俺にはわからない。
「……灰賀、くんは……なんで、そんなふうに……立てるの?」
それは、ささやかな疑問であり、
きっと、ずっと胸の奥に溜め込んでいた問いだったのだろう。
俺は少しだけ黙って、そして答える。
「――立つしか、なかったからだよ。誰も、手を貸してくれなかったからな」
淡々としたその言葉に、澄の瞳が揺れる。
「……でも、君は違う。今日、立ったじゃないか。俺を、呼び止めた」
それはたった一言だったかもしれない。
でも、それは間違いなく――彼女が“踏み出した”証だった。
静かな時間が、ふたりの間に流れる。
夕陽が差し込む廊下に、ただ二人の影だけが並んでいた。
「……じゃあな。また明日」
俺は背を向けて歩き出す。
そしてもう振り返らない。
でも、確かに――あの時の“ありがとう”は、届いていた。
彼女の中の小さな光と、俺の中のくすぶる火種が、
まだ小さく、静かに、どこかで触れ合ったような気がしていた。
――――――――――――――――
夕焼けを背に、ユウはひとり、学園の外れにある学生寮へと足を運んでいた。
“吸血鬼貴族専用寮”や“特待生用フロア”とは違う――
人間と混血たちのために用意された、築年数不詳の古い建物だ。
建材のひび、剥がれかけた外壁、軋む扉。
それら全てが、声なき拒絶のようにユウを出迎える。
玄関ホールに灯りはない。
照明は何度も申請が出されているはずだが、誰も直しに来ない。
仕方なく、ユウはポケットから小型のライトを取り出して足元を照らす。
床には誰かがわざとこぼしたと思しき飲料の染み、
廊下の壁には「HALF」と黒く落書きされた文字。
――ああ、まだ消してなかったか。
誰に言うでもなく、ユウは目を伏せて歩いた。
寮内では、すれ違う者もいない。
この時間、吸血鬼の生徒たちはディナーに出かけているか、
個室で使用人に食事を運ばせている頃だ。
ここには使用人もいなければ、まともな食堂も存在しない。
自室のドアを開けると、まず空気の悪さが鼻についた。
古びたカーテンは片方が千切れかけ、窓枠には埃が積もっている。
支給品のベッドは軋み、マットレスも半分に凹んでいた。
タンスには鍵がかけられているが、何度か壊された形跡がある。
“ここは寝るだけの場所”――
それを知っているのは、ユウ自身だった。
壁に掛けられた時計の針が、乾いた音を立てている。
ユウは制服を脱ぎ、無言で椅子に腰を下ろす。
カバンから取り出したのは、――ハンカチと小さな瓶に入った目薬。
彼は眼帯をそっと外す。
濁った右目は、ゆっくりと開かれた。
赤く、深い光を宿したそれは、明らかに“人間のもの”ではなかった。
血液が頬伝い、一滴の雫となり床に落ちた。
彼の存在が、何者でもない証。
誰からも歓迎されないことの、証明。
ユウは目薬をさし、再び眼帯を巻く。
ハンカチで顔を拭う。
そして、小さく息を吐いた。
「……明日も、無事でありますように」
誰に向けるでもない祈り。
いや、祈りですらない、ただの“習慣”のような呟きだった。
部屋に音はない。
誰も来ない。
誰も待っていない。
それでも、彼は生きている。
この場所で――息をひそめながら。