2話 孤独と幽霊
戦術演習区画・第五実験フィールド
黎明高等戦術学園の地下に広がる演習施設――その一画。
壁はすべて強化ガラス。天井からは冷たい蛍光灯の光が降り注ぎ、無機質なコンクリートの床に白線が引かれている。
その真ん中に、ひとりの少年が立っていた。
灰賀ユウ。
黒い訓練服に身を包み、背中に長く伸びた刀を携えている。
その表情は、無表情というよりも――感情の温度そのものがどこか壊れているように見えた。
鋭い足捌きで距離を詰め、踏み込みと同時に抜刀。
風を裂く音が遅れて耳に届き、模擬標的の鉄製ダミーが一瞬で真横に両断された。
静寂の中、空気がざわめく。
「またやってるよ……」
「誰も見てないのに、無駄な努力」
「てかあれ、“禍種”を真似てるだけじゃない? 人間でも吸血鬼でもないくせに」
見学エリアに立つ生徒たちの声が、ユウの耳に届いていた。
だが彼は、何も言わない。ただ静かに、刀を戻す。
その名は――《無銘》。
かつて対禍種戦闘のために造られた試作刀。
重く、長く、扱いづらく、そして――失敗作として廃棄されたもの。
だがその刀を、ユウだけが平然と、まるで身体の一部のように使いこなしていた。
「……次」
低く、誰にも届かないような声で呟き、再び歩き出す。
黙々と、ひたすらに、孤独のまま。
足を止めず、言い訳もせず。
それが、灰賀ユウの“やり方”だった。
「異常な反応速度……でもあれ、完全に人間の筋力じゃないよね」
「見た? 右目の下から赤い痣みたいなの浮かんでた。気持ち悪……」
「アレと組まされたら終わりじゃん」
ユウは、聞こえていないふりをしていた。
だが――本当は、全部、耳に入っていた。
刀を振るうたびに、雑念を断ち切る。
自分を見る異質な視線。大人たちの怯えた表情。
どこに行っても、自分だけが“特別”として見られていた。
あの目に映っていた、“恐怖”と“警戒”だけが、彼に剣を握らせ続ける。
けれど、そんな彼の内側を知る者はいない。
ユウはただ、誰かと“同じ”でありたかった。
普通でありたかった。ただ、それだけだった。
それでも――
彼は今日も剣を振るう。
誰のためでもない。
自分の“存在”が、ここにあると、証明するために。
彼の傍らには、ひっそりと立てかけられた一本の刀がある。
赫陽刀
それは、母が最後に遺した、唯一の“温もり”だった。
――――――――――――――――――――――――
ギィィ――ン、と。
不意に、演習場の空気が変わった。
コンクリートの床を震わせるような異音が、機械の奥から響く。
模擬戦用のダミー……のはずだった標的ユニットが、異常な駆動音とともに起動を始めたのだ。
ユウが静かに眉を寄せる。
「……この音は――違う」
背後で、見学エリアがざわつく。
「え、なにあれ」
「まさか、本物の禍種モード……?」
「マジで? あいつにやらせるの!?」
「やば、普通に死ぬって……」
「でも見てみたくね? “アイツ”が潰されるとこ」
どこか面白がるような声と笑いが混ざり合う。
誰も止めようとしない。
教員の目が届かない時間帯を狙っての“事故”――いや、明らかな意図的な操作だった。
ギュオォォン――!
標的ユニットが唸るような音と共に形状を変える。
赤いラインがボディの各部に走り、四肢が伸びる。
通常モードの2倍以上の速度と力で襲いかかる、“禍種模擬モード”だ。
――それは、生徒に使用するには明らかに危険すぎる設定。
「っ……!」
警報は鳴らない。
セーフティ機構すら無効化されている。
ユウはとっさに後方へ跳躍し、手にしていた《無銘》を握り直す。
轟音と共に、鋼の腕が床を砕いた。
細かく砕けたコンクリ片が宙に舞い、ユウの頬に薄く切り傷を刻む。
血のにおいが、わずかに漂った。
「やっば……マジで狙ってるじゃん」
「えーでもあいつ、どうせ本気出せば余裕でしょ?」
誰もが、彼の“限界”を見たがっていた。
潰されるか、力を暴発させて正体を晒すか。
どちらでも構わない。――見世物として面白ければ。
ユウの表情に変化はなかった。
だが、その目の奥で、何かが静かに燃え上がる。
「――制御を切って、面白がってるつもりか」
ボロ……と呟くように吐き捨てた声が、蛍光灯の白光に滲んで消える。
演習機の両腕が赤黒く変形し、鋭利な爪のような刃を形成する。
速度は、先ほどの2倍。反応の遅れは即ち、死を意味する。
だがユウは――
逃げない。
その場から、一歩も退かない。
無銘を振るう。
研ぎ澄まされた一閃が、空間を切り裂いた。
ガギィィィッ――!
演習機の腕が弾かれ、火花が散る。
衝撃に合わせて、訓練服の裾が裂け、ユウの右腕に裂傷が走る。
それでも彼は、叫ばない。
痛みを、恐れを、怒りを――全部押し殺す。
「……終わりだ」
足元を滑らせるように前へ。
地面を抉りながら踏み込んだその一歩に、演習機が反応できなかった。
一撃――
禍種型の戦闘ダミーの首が、真横に切断されていた。
静寂。
誰も声を出せなかった。
血ではなく、煙と油の臭いだけが、演習場に広がっていく。
ユウは、ただゆっくりと《無銘》を納めた。
その背に、赫陽刀が微かに再び震えている。
――――――――――――――――――――
刃を収めたユウの前に、再び警告灯が点滅した。
ブゥウウ――ン……!
警報ではない。
本来はありえない、別のシステムの起動音。
「……まだ、終わっていないのか」
低く呟いた刹那。
ガシャリ――!
訓練区画の壁が開き、複数の戦闘ダミーがその闇から姿を現した。
どれもが通常モードではない。すべてが、先ほどと同様の禍種模擬モードに切り替わっている。
その数、三機。
鋭い肢体を震わせながら、視線らしきセンサーが一斉にユウを捉えた。
――明らかに、おかしい。
これでは訓練ではなく、処刑だ。
見学エリアでは、生徒たちの声が一瞬だけ凍りついたが――すぐに笑い混じりの好奇心が戻ってくる。
「え、え? また出てきたってことは、誰か完全に制御乗っ取ってんじゃね?」
「うわ、やっば……けどさ、もうこうなったら最後まで見たくね?」
「いいじゃん、どうせ忌み子だし。もし力暴走して誰か巻き込んでも“事故”で済むし」
――嗤う声、冷たい視線。
だがユウは、背を向けなかった。
無銘を抜く。
冷たく光る刃先が、己の存在を映している。
そして、ゆっくりと呟く。
「……なるほど。わかったよ」
その声は、誰に届くでもなく――
自らの覚悟を、確認するための独白。
直後、三機のダミーが同時に襲いかかる。
一体は高く跳躍し、真上から爪撃を。
もう一体は側面から切り込む鋸状の腕を。
最後の一体は、口腔部から赤黒いレーザーカッターを放ってきた。
――三方向同時攻撃。
避け場は、ない。
だが、ユウの身体は動く。
右に滑るように転身し、一体目の爪撃を地面ギリギリで回避。
即座に体勢を戻し、背中の赫陽刀ルシフェリアの鞘で鋸腕を受け流す。
そのまま、左足を軸に回転――
風が、逆巻いた。
無銘の刃が走り、レーザーの発射部を斬り落とす。
爆音。火花。
ダミーが一体、爆ぜる。
見学席から、誰かが小さく息を飲んだ。
ユウの表情は、変わらない。
ただ、目の奥に宿った静かな光が、明確に語っていた。
「俺は、ここにいる」――と。
残る二体が再度連携を組んでくる。
高速連撃、装甲変化、禍種特有の攻撃モーションを模倣した演算プログラム。
かつての戦場をなぞるような連撃に、普通の生徒なら1分と持たない。
けれど――
彼だけは、違った。
静かに、冷たく、しかし確かに。
ユウの剣は、すべての攻撃を読み切っていた。
動きを止めた二体のダミーの間を抜け、無銘の斬撃が重なる。
そして――
斬。
二体同時に、胴体が真横から裂ける。
ガシャン、と火花を散らし、動きを止めるダミー。
無音。
誰もが、言葉を失っていた。
血は流れない。けれど、そこには“戦い”が確かにあった。
ユウは肩で静かに息を吐き、刀を下ろす。
そして、ゆっくりと見学席を見上げた。
眼帯の奥から、何かが――じっと見返していた。
―――――――――――――――――――――
演習区画は、いつの間にか冷えきっていた。
天井の蛍光灯が、まるで監視カメラのようにユウの影を映し続けている。
ダミーの残骸が、まだ焦げ臭さを残していた。
だが、誰も動かない。
誰も、近づかない。
「……あれ、本当に人間……?」
誰かの、呟き。
それが合図だったかのように――まるで“禁忌”に触れたような、重苦しい空気が場を支配する。
「なにあれ、見た? 目、赤く光ってたよね……」
「やっぱあいつ、禍種の血が混じってるとかじゃないの?」
「ていうかさ、あんなのが学内にいるとか、正直迷惑なんだけど」
囁き。蔑み。恐怖。偏見。
あの一瞬、ユウは皆を――生徒全員を、命の危機から救ったようなものだ。
だが、彼に返ってきたのは**賞賛ではなく、“恐怖”と“疑念”**だった。
九重教諭ですら、淡々と事後処理を進めながらも、目を逸らしていた。
「……演習機器の異常か。まあ、事故として処理されるだろうな」
「灰賀、負傷は?」
「……ありません」
短い会話で、すべてが終わった。
それきり、誰も彼に声をかけようとはしなかった。
学園の廊下。
すれ違う生徒が、わずかに距離を取る。
「やだ、こっち来た……」
「目、合わせない方がいいって。下手したら呪われそう」
教室。
座る席の周りに、誰も寄り付かない。
筆記用具を落としても、誰も拾おうとはしない。
食堂。
誰かと相席になるはずの時間に、彼の前の席だけが空いている。
その異様な光景に、初見の生徒たちですら察して離れていく。
そして、誰もいない屋上で。
ユウはただ、空を見上げていた。
風が吹いて、制服の裾を揺らす。
彼の表情は、やはり変わらない。
けれど――
眼帯の下の右目が、微かに疼いた。
(……だから、言っただろ。俺は、“普通”じゃないって)
心の奥で、何かがまた一つ削られていく。
あの日失った温度。忘れかけていた感情。
そのすべてが、今もなお“恐怖”という形で彼に突き刺さる。
それでも、ユウは剣を握る。
ただの“戦力”として。
誰にも寄りかからず、誰からも寄り添われず――
孤独という名の、最強の鎧を纏って。
―――――――――――――――――
昼休みの中庭。
にぎやかな笑い声と日差しの中、灰賀ユウはいつものように人混みから距離を取るように、隅のベンチに腰を下ろしていた。
手にしていたのは、学園の購買部で買った栄養ゼリー。
昼食は、これ一本で済ませるのが日課だった。
――だが、その瞬間。
ビクリ、と右腕の神経が勝手に震えた。
演習場で受けた小さな損傷が、時間差で痛みをぶり返したのだ。
「っ……」
落ちた。
ゼリーのパックが、コツンと足元のタイルに跳ねて転がる。
拾おうと身を屈めた、そのときだった。
べしゃっ。
無造作に――だが明らかに狙ったかのように、そのゼリーを誰かの靴が踏み潰した。
視線を上げると、そこには同じクラスの吸血鬼の生徒。
赤い目をわざとらしく細めて、鼻で笑うように言い捨てた。
「……あ、悪い。見えてなかったわ。ねぇ、“混血”くん」
その後ろでは、数人の生徒がクスクスと笑い声を漏らす。
ユウは、何も言わなかった。
怒りもせず、睨みもせず。
ただ黙って、踏み潰されたゼリーの破片を見つめる。
手を伸ばすこともせず、立ち上がり、踵を返す。
その背に向けて、また誰かが囁いた。
「感情、ないのかもね、あれ」
「てか何食べてんだよ……ゼリーって……貧乏かよ」
けれど、それも遠くに聞こえていた。
無表情のまま、ユウは購買部へと向かう。
新しい栄養ゼリーを手に取る。
自分でも、何の味を選んだのかはよく覚えていない。
レジに差し出す指先が、少しだけ震えていた。
けれど彼は、それにさえ気づいていないふりをした。
味気のない栄養ゼリーを飲み干す頃には、昼休みも終わりを迎えていた。
空のパウチを握りしめながら、ユウは他の誰よりも早く教室へと戻った。
――そして、空気の異変に気づく。
遠く廊下の向こうから、数人の吸血鬼の女子生徒たちがこちらを見て、声をひそめて笑っている。
その視線の先には、まるで“影”のように、ひとりぽつんと立ち尽くす少女の姿があった。
制服の裾を握りしめ、うつむいたまま微かに震えている。
長い前髪に覆われた顔は、ほとんど表情が読めない。
だが、見えないからこそ、人々は“見てはいけないもの”として彼女を避けていた。
三咲 澄
人間。クラスでも特に影が薄い、“幽霊のような女”。
「あはは、また地味子がドロッとこぼしてるぅ。マジ不気味~」
「何? また血でも啜ってんの? 吸血鬼の真似ごととかウケるんだけど」
「てか、生きてんの? “あっち側”に行きかけてんじゃないの?」
甲高い笑い声が廊下に弾ける。
しかしその声音には、笑いとは違う“乾いた棘”が刺さっていた。
無邪気を装って、確実に傷をえぐる――それは、嘲笑という名のナイフ。
ユウは無言のまま、教室の敷居をまたぐ。
彼の姿を見て、数人が一瞬だけ声を潜めた。
だがすぐに、再び冷ややかな視線と言葉が少女に降り注ぐ。
――人間だろうと、吸血鬼だろうと、結局は同じだ。
輪に入れない者、異質な者、弱い者は、的にされる。
誰も助けようとしない。損になることはしない。
教師たちだって、生徒間のいざこざには基本的に無関与だ。
とくに、それが“人間”と“吸血鬼”の境界線に関わるなら、なおさら。
そのとき――澄の手から、ノートがカツン、と乾いた音を立てて落ちた。
ぱらりと開いたページには、赤黒く滲んだインクのシミ。
そこには、誰かが書きなぐった誹謗中傷の文字。
人間に向けられた、剥き出しの差別と憎悪。
「うわぁ……なにコレ、やっば」
吸血鬼の少女のひとりが、わざとその上に靴を乗せた。
「拾えば? 人間ってのは、下を向くのだけは得意でしょ?」
――ピンと張り詰めたような、重い沈黙。
「……やめろ」
氷のような声が、教室の入り口から響いた。
視線が一斉に声の主へと向く。
そこには――灰賀ユウが立っていた。
感情の起伏を感じさせない、灰色の瞳。
眼帯で隠された右目の奥に、微かに光る静かな怒り。
「集団でひとりを潰して、吸血鬼様は随分と“誇り高い”な。
続けるなら……その誇りも血も、まとめて床にぶちまけてやる」
抑えられた声だった。けれど、確かに教室全体を凍らせるだけの力を持っていた
灰賀ユウ。
混血の異端。
感情を殺し、演習では“狂犬”と呼ばれる存在。
誰もが知っていて、誰もが近づこうとしない男。
だが――吸血鬼の少女のひとりが、嘲るように口を開いた。
「なにそれ。正義の味方ごっこ?」
「雑種のくせに、正義ヅラなんて気持ち悪いんだけど」
「人間にも吸血鬼にも馴れ馴れしい。ほんと、中途半端でお似合いね? この地味子と。ふたりで消えれば?」
ユウは、何も言わなかった。
眉ひとつ動かさず、ただ無言で歩み寄る。
そして、踏みつけられたノートを拾い――
汚れたページをそっと閉じて、澄へと差し出した。
「……君は、何も悪くない」
それだけを言って、彼は席へと戻った。
何も変わらない。
冷たい視線は、今も背に刺さるまま。
自分の立場も、周囲の扱いも、きっと変わりはしない。
けれど。
眼帯の奥――隠された右目のさらに奥で。
小さな炎が、確かに灯っていた。