第二章 愛の祈り
一 ◇◇◇二〇〇〇年七月◇◇◇
滝里香介の人生は終わりではなかった。
二年前の夏に樹海で起きたことは、何度思い返してもぼやけた記憶となる。時間の経過ですら、バラバラなこととして、まるで整合性がない。近付いてきた悪霊が何だったのかもわからない。確実に覚えているのは、朝日に目覚めてからだ。そこからは、はっきりとした記憶がある。ぎっくり腰の痛みと闘いながら、芋虫のように這って樹海を出た。
ハイゼットの車を見つけると、河口湖駅の近くまで走らせた。積んである車検証を確認すると名義は葛城幹矢と書いてある。サラ金から金を借りるために、給与明細と在籍確認を頼んだ相手だ。何にしても気にしていられない。車は指紋を拭ってから、道路外れの草地に放置した。
滝里は、沖縄に逃げた。北か南か、一体どこに逃げたものか。どうせ逃げるなら、大好きな場所に逃げることにしたのだ。
遊べと言わんばかりの燦燦な太陽。命が潤うようなエメラルドグリーンの海。白く美しい砂浜。楽園にいることを教えてくれるかのように咲き誇るハイビスカス。
観光客で賑わう楽園とは裏腹に、マイナス三十度以下の冷凍食品の倉庫で滝里は働いた。机にある伝票を手に取り、書かれた冷凍食品をピックアップしては、トラックへの積み荷としてまとめる。
冷凍室では吐く息は当然白く、寒さは手足の指先に軽い痛みを覚えた。夜勤の日払いということでこの仕事を選んだ。互いを詮索するような人間関係は皆無に近い。
二十三時三十七分、腕時計の針は勤務開始二十二時から、まだ一時間三十七分しか経っていないことを示していた。
なんて辛い仕事なんだ。何回時計を見たか、数えきれない。なるべく時計を見ないことにしてるのだが、気付くとすぐに時計を見ている。時計を見ると、勤務拘束時間がもうこんなにも進んだと喜ぶことよりも、まだこんなにも残っているのかとの苦しみの方が上回る。
ようやくにして仕事が終わり、帰宅のため駐輪場へと向かう。駐輪場に向かう道すがら、そこには三島のオヤジが一人で立って待っていた。
「よう、頑張ってるみてーだな。ちょっと話しようや、来な」
倉庫の休憩場として、自動販売機の前に設置されているベンチに案内された。
緊張しながら、そこに座る。
何で勤務先の場所がわかった? 興信所? 考えても始まらない。
何用で尋ねてきたか、黙って逃げたことへのケジメを取りにきたのか?
「前田の事件以来よ、お前と鉢平まで行方くらましたけどよ、鉢平はどうしてる? 死んだのか?」
返事ができずに黙った。言葉が出ない。
「そうか、死んだのか。殺したわけじゃねーんだろ?」
「はい、自分は知らないです」
「幡永さん、言わなかったか? ヤクザなんてやるもんじゃねー、と」
「はい、言っていました」
「みんな、やめたいと思うんだよ」
「だけどよ、大勢の若い衆に囲まれてよ、ご苦労様です、なんて挨拶されてるうちにな、やめたいとした気持ちが吹き飛んじゃうんだよな。ハハハ」
「チンピラのままなら、やめたいしかねーわな」
「言わなかったがオレはよ、ヤクザなんてもうなくなった方がいいと思うようになった」
「昔は堅気さんが道の真ん中を歩き、渡世の人間は隅を歩くようにする、それをよしとしてきたんだ。今じゃ信じられんよな」
「盃とバッジ、どうせもう持ってないんだろ」
「……はい」
少し怯えながらも返事をした。
「お前がうらやましいくらいだ。簡単にやめられてよ」
「じゃあな、がんばれよ」
さよならを言うと三島は去っていった。
終始一貫、萎縮したのもあって、はいとばかりしか言えなかった。
三島の背中に向かって頭を下げ続ける。
三島の背中が見えなくなると、自転車置き場に戻った。自転車を走らせると、不自然に後ろをゆっくりと徐行する車の気配に気付いた。
振り向くと、ゆっくりと走る白いクラウンから大声がする。
「おい! お前!」
「西宮さん!」
「車、乗れ!」
三島を尾行していたのか? 自分を探していたのか?
あの日以来、初めての再会だった。
「こんなとこに逃げてたんだな! 滝里!」
滝里が覆面パトカーの助手席に乗ると、運転席の西宮は何から話すか考えるかのようにしばらく黙っていた。
「鉢平が、どこにいるか知ってるか?」
「前田の起こした事件の共犯者として、追いかけてるが見つからねーんだ」
「知らないです」
ギクリとしたが、冷静に返答した。
「じゃあ、この女知ってるか?」
一枚の写真を取り出して見せてきた。渡された写真を手に取ると、見知らぬ若い女が写っていた。学生服に可愛らしいその顔は中学生くらいで、黒髪を三つ編みに結んで真面目な印象に見える。
表情を細かく観察するかのように、西宮がじっと見ている。そんなに見られても写真の女に心当たりはまるでない。
「知らないですね」
滝里の声のトーン、空気感、全てに微かな違和感もないと感じ取ったのか、冗談を言ってきた。
「こんな写真、いきなり見せられたってわかんねーよな」
「滝里の場合、裸の写真じゃねーとわからねーか」
「水着の写真でもわかりますよ」
西宮は声を出して笑った。
返した軽口に白と見て取ったようだ。
「さっき三島と話してたろ。一体、何を話してたんだ?」
「特には何も。がんばれよ、とかそんな話でした」
「それだけか?」
「はい、そうです」
「ここ冷凍食品の倉庫だよな。こんなとこで働けてるのか?」
西宮は感心したように言った。
「キツイですがね」
「お前もう、三度の飯よりシャブが好きってわけじゃ?」
「西宮さん、何言ってんですか。オレは大盛りの飯が好きですよ」
「そっか。お前、あの三島組にいて奇跡の」
西宮は何かを言いかけたがやめた。
「もう行っていいよ」
西宮がそう言うと滝里は車から降りた。西宮はそのまま車を発車させていった。
滝里も自転車に乗ると反対に向かって走り出す。西宮と別れたあとに、しばらくしてから自転車を漕ぐのをやめてその場に立ち止まる。
その場から動けなくなった。見せられた写真の女が園部夕花だと今になって気付いた。夕花が家出する前の写真なのだろう。真面目な雰囲気があまりにかけ離れていてわかるはずもなかったのだ。




