二十五
何時間寝ただろうか。滝里は目覚めると、昨夜から続いている地獄に呼び戻された。
車の時計は十五時三十分を少し過ぎたところ。十一時間は寝ていたことになる。
車中泊は身体の節々を痛くした。
助手席を見ると、パピがやはりいる。幻覚であってくれと願うが、現実である以上、目に映る世界が切り替わることはない。厳然とパピの姿が目の前にある。
お腹がすいたため、買い置きしておいたゼリー飲料を手にする。
口をすぼめ、チュルチュルとゼリー飲料を吸っていると、パピが話しかけてきた。
「女が死んだ」
「え? 女って?」
「夕花だ。園部夕花」
全くもって何を言っているのか、わからないパピの言葉に驚いた。
滝里が寝ている間に、夕花を公園に呼び出したという。夕花は自らの乱用が原因で、急性中毒で死んだという。そして荷台に死体を乗せたのだと。
振り返り後ろの荷台を見ると、確かに夕花がそこで動かずに死んでいた。死んだ夕花の青白い顔は、変わり続けてくシャブ中の姿の、一つのゴールなのではないかと思った。
「何でこんなことした?」
「違う、オレがやったんじゃねぇ! 女が自分で打って勝手におっ死んだんだよ!」
「このトンチキがっ!」
思わず怒鳴りつけると、パヒは銃を向けてきた。
「てめえー! 殺してもいいんだぞ!」
パピに銃のグリップで鼻を殴られた。溢れる鼻血。前にも喧嘩で折れたことがあったから、鼻の骨が折れたのが自分ですぐにわかった。
続けて人を殺してきてるパピが言う脅しには、恐怖を感じるに充分な凄味がある。ハッタリに微塵も感じない。
パピが分別の無いモンスターに見える。モンスターに向かって木刀を叩き込んでいた前田を思い出したが、組織の縦の秩序があってのことだ。前田の影に隠れて今まで気付かなかったが、パピはかなり危ない人間だと今更ながら気付いた。こいつの危なさは本物だ。 銃を持ってる以上、隙を見てチャンスを待つしかない。
パピが車のラジオニュースをつけると、昨日の柿澤宅の事件が流れた。内容から前田が捕まったことがわかる。警察が自分たちの存在を、どこまで掴んでいるのか知りたかったが、報道からは全くわからない。
「青木ヶ原に行くぞ! そこで遺体を隠す」
先ほど殴られた顔面から流れ出た血はかなりな量だ。数分は流れっぱなしでいた。運転どころではない。
「運転は無理です」
「うるせー!」
言うやいなや助手席からパンチが飛んできた。
「ぐわっ」
右手で左耳あたりを殴打された。
夕花の遺体を隠す、それはわかる。だがその先に、自身も殺される気がした。今から行こうとするその場所が、最後の場所になるのかも知れない。
青木ヶ原へと向かう長い道のりは、まるで地獄の奥へと向かっているかのように思えた。
だんだんと暗くなり始めた国道139を走らせる。日没が近い。
死体を運ぶだけで果たして済むのか。銃口を向けられて逃げることもできない。
どうすればいい? 答えはなく、怯えはただ従うままに車を走らせた。
目的の青木ケ原樹海に向かう途中、何度か対向車のパトカーとすれ違う。ひばりが丘信号を少し過ぎた辺りで、またパトカーに出くわした。
緊張が走る。パトカーと出くわす最後かも知れない。警察に捕まって保護された方がマシとさえ思えた。
今、強い急ブレーキでもかけたら、異変に警察が気付いてピンチから逃れられるか?
ああ、ダメだ! やはり逮捕はされたくない、なんといっても自分はシャブ中だ。
それに警察に保護される前に、撃ち殺される確率の方が高いと思えた。パトカーへ危険を知らせるのはあきらめた。
みるみるパトカーとの距離は離れていく。一分もしないうちにだいぶ距離は離れてしまった。警察へ逃げる選択肢は選べなくなっていた。
「なあ、死体を運ぶまで手伝ってくれたらそれでいいから」
安心させるかのようにパピが言ってきた。
心底の恐怖感から返事もできない。その後で殺すつもりか? 死体を片付けたあとには、自分は邪魔でしかないはず。隙を待つしかないのだが、恐怖に身がすくんでいた。
本物の殺人鬼が、銃という圧倒的な武器を持っているのだ。
あたりは日の入りにより、薄明かりがまだある時間とはいえ、刻々と暗くなり霊気すら帯び始めている。
青木ケ原樹海に着いた。この辺り一帯がそうなのだろう。
霊感の強い人間は絶対に来てはいけない場所。滝里は霊感は人一倍強い。
「そこに停めろ」
車道から外れた硬い土の上に車を停めた。
「降りろ」
「すみません、無理です」
パピへの恐怖に霊への恐怖も足されて、声は震えた。
パピの構えた銃を見る。飛び掛かるには無理がある。やはり撃たれるイメージしかない。
逃げるか、反撃か、どちらにしてもチャンスを待つしか選択肢はない。
車から降り立つと夏だというのに、樹海が発する冷たい空気はそれだけで、不気味な寒気がした。
「ここから入るぞ」
パピは樹海を指さした。
指さした先に目を向ける。そこは、どこにも人が通るような道などない。 木々の間を縫って歩くことしかできそうもない獣道だ。
樹海の中は漆黒の闇も近いのか、既に青黒い色をしていた。
誰かが首吊りしようとでもしているのか、人の気配のようなものすら感じる。それは樹海を前にして、自身が生み出した恐怖の産物とも思えた。何にしても絶対に入っては行けない場所なのは一目でわかる。
車に積んでる夕花の死体からして、恐怖を感じさせるに充分だ。夕花の死体を担いで、暗くなりかけている樹海の中へ入っていくなど、狂気の沙汰と思えた。樹海の中に入らなくとも、祟りに襲われそうなほどだ。
「真っ暗になる前に終わらせるぞ!」
霊の怨念が満ち溢れるかのような不気味な樹海へと、いよいよ夕花を担いで進み出す。
パピが夕花を後ろから抱き抱えるように持ち上げる。滝里は夕花の両足を開いて、そこに背を向けて入る形で太もも辺りを持ち上げて歩いた。
両手をパピが使ってるからには、逃げるチャンスかも知れない。だがパピに背中を見せているため、怯えが酷く、逃げる勇気を失くしてしまっていた。シャブには勇気よりも、臆病を増大させる効果が多分にあった。
どういうわけか、死んでるはずの夕花の視線を背中に感じる。視線は夕花の死体からだけではない。木々の間から、何かに見られてるような視線をずっと感じていた。
風はないのに木々が揺らぐ音すらも時折する。ムササビか猿と言った動物によるものか?
足元は苔にむした木の根が、うねるように這っていて、何度も躓きそうになる。
どこから歩いて来たのか方向感覚は既にない。薄闇から漆黒の闇が迫っていた。
「よし、ここから、投げて落とそう!」
息も絶え絶えにパピが言った。
見るとそこは、下へと向かう二メートルぐらいの段差がある。
死体を一旦おろして持ち方を変えた。両足を滝里が、両手をパピが持つ。
「いくぞ! せーのっ!」
掛け声をあげるパピ。
突然、パピに向かって夕花の閉じていた目が、カッと大きく見開いた。
「わっ!」
二人は死体もろともバランスを崩して、段差の真下に向かって転げ落ちた。
「ぐわっ」
滝里は背中から落ちた。腰は、死体運びの重労働と転落の衝撃で異変を感じた。立ち上がることはできたが、若干前傾に腰を曲げないと歩くことも辛い。
辺りを見回すと落ちた場所の足元には、瓶ビールほどある像が置かれているのに気付いた
薄闇の中、目を凝らして見ると、不気味にも像には首がない。首はないが、彫刻からマリア像のように見てとれた。死ぬ間際に自殺者が、マリア像に救いを求めたのだろうか。
よく見ると首は側に落ちていた。マリアは目から、血の涙を流している。
「ううっ」
すぐ側でパピの苦しそうな呻き声がした。
その手に銃はあるのか? もっと近くでないと暗すぎて見えそうもない。
パピは大きな木に背中をもたれ、下半身を地面につけたまま起き上がることができないでいるようだった。ダメージの把握のためにか、しばらくの沈黙が流れる。
「なあ、オメーなんでヤクザになったんだ?」
沈黙を破りパピが話しかける。その声音にはどこか諦めと、僅かに優しさのようなものを感じさせた。
「おおかた、金や女とか、人生がキツかったからとかだろ? 違うか?」
「そうです……」
「バカだよな、いいように使われて利用されてよ」
「普通に働きまくった方が、何倍もマシだと気付いた頃には手遅れよ」
「知ってるぜ。オメーがオレのことを取るに足らない、追い抜くための存在だと見てたこと」
「下手うってばかりの、どうしようもない奴と見下してたことをよ」
「いえ、そんなことは」
「悪かったな、糞みたいな兄貴分でよ。金だ! 持ってけよ」
そういうと、上着の内ポケットに閉まっていた封筒を差し出してきた。
「どういうことですか?」
「ここで死ぬことにしたわ」
「兄貴らしいことしたことなかったな。だから悪かった」
「いいんですか」
恐怖心は衰えることはない。パピの気が変わって発砲してこないか気が気でない。
金を受けとるために近付くと、銃を手にしていないことが、夜目にもはっきりと視認できた。
――勝てる―― そう思うや、足元に落ちていたマリア像を右手に掴んで、パピの頭を殴りつけていた。
「このゴキブリがっ!」
最初の一撃でパピの頭は割れた。滝里の怒りが爆発した。
「死ね! トンチキっ!」
全力で像を振り下ろし、頭を乱打した。砕けるマリア像。構わず、今度は拳を握り締め何度も殴り続けた。
パピの呻き声が次第に弱まり、やがて完全に静かになった。
反応のなくなったパピの鼻と口の息を確認する。
原型をとどめない歪んだ顔でモンスターは死んだ。
死んだパピの持ち物を探る。携帯電話に財布、改造注射器に、ライターと大麻を紙で巻いた物が見つかった。覚醒剤は使いきったようでなかった。
携帯電話には、ライトなどのような機能は、何もついていない。財布の中身を物色する。金は一万円札が二枚に小銭がいくらかあるだけ。中身を頂戴して財布と携帯電話を棄てた。
ここから脱出せねば。無駄な体力は使っていられない。
落ちていた枯れ枝に、ライターで火をつけて松明を作った。松明の明かりを頼りに腰を庇いながら歩く。アドレナリンにより腰痛は薄れていたが、やはり若干前傾姿勢でないと歩くことが辛い。
車道までそう遠くないはず。木々を縫い歩くため真っ直ぐ歩けるわけではないが、それでも遠くないのは確かだ。樹海に入った場所から、ここまで直線にして四十メートルもない気がする。
月明かりが僅か射し込み、道路が見える位置まで来た。
何とか出られる、安心したその時。だんだんと強い寒気がして耳鳴りがした。 そのうち明らかに、キーンと言う音が聞こえ始める。
吐き気がする腐敗臭がしてきた。何かを踏んだのか、プチャッという不快な感触が時折、靴の裏から伝わってくる。
それが虫だと、すぐに気付いた。恐る恐る足元を松明で照らす。ウジ虫がそこら中に這っている。
地面にはウジ虫のほか、漢字の書かれた何かのお経が、散り散りに破かれてゴミのように散らばっている。
前を見ると、木の枝に引っかけられた首縄に、腐った男の死体がぶらさがっていた。
死臭に集まった虫たちが遺体の粘膜部分に産卵し、孵った大量のハエ、ウジムシ、ゴキブリなどが屍肉をついばんでいる。
――楽園の果て――
苦しい現実から逃げに逃げて、死の最果てに楽があると求めてたどり着いた場所は、あまりに凄惨を極めた。
あたりには幽霊としか思えない影が散在している。咽び泣く霊、怒る霊。
耳をすまさなくとも啜り泣く男の声がはっきりと聞こえてきた。自殺しに樹海に入った誰かが、近くにいるとしか思えない。
怖い。怖くてたまらない。
松明の明かりが、横たわる何かをとらえた。またしても死体だ。その死体は、先ほど殺してきたばかりのパピの死体だとわかった。
バカな! 生きているはずはない。同じ場所に戻ったのではない。死体がここまで歩いて来たというのか!
「ワァーーっ!」
――ああ、オレの脳はイカれてる! イカれてるんだ!――
――許して! 許して!――
心で許しを乞い泣き出した。
少しでも恐怖が和らぐならと、すがるようにパピが残した紙巻き大麻に火を付けて吸ってみた。幽界とのチャンネルは完全に合致したと感じた。
大麻を吸ったことを、すぐに後悔したが時既に遅い。現実は表面だけのもので、幻覚こそが奥深い真実となる。
とてもでないが、周りを見ることがもう怖くてできない。
前だけを見て歩く。突然、前の樹木にまるで鏡のように女の幽霊の顔が、思いっきりうつりこんだ。
同時に、背中にしがみつく人間の重みを感じる。
恐る恐る振り向くと、白い顔をした長い髪の夕花が背中に乗っていた。
「ギャアーーっ」
恐怖に仰け反った瞬間に魔女の一撃。前兆は先ほどからずっとしていたのだ。ぎっくり腰になった。
逃げたくて無理やりに歩こうとした。そのことがぎっくり腰を重症化させた。
木の根に躓いて倒れた。夕花の死体も転んだことで離れた。
手の力だけで這う。
国道の車道すぐ側まで来ていたが、痛みが強くて這うことも僅かにしかままならない。
とにかく逃げよう! 何もかも捨てて!
ヤクザとか、もうどうでもいい! 逃げよう!
どんなにつまらない人生でもいい! 生きていたい!
生きてる! ただそれだけで充分だ! この世界がどうなっていくのか!
明日がどんな世界が来るのか知りたい! それだけでも充分だ!
幸福でなくてもいい! 生きてる! それだけで何もいらない!
生きていたい!
生きたなら、できることなら善人になりたい!
もう悪いことなど、二度とするものか!
ああ、許してくれ! 死にそうだ!
心で許しを叫んだ。
悪霊とおぼしき何かが真っ暗闇の中、背後から近付いてくる気配がする。
滝里のしてきた行いで天国に行けるはずもない。
寝転んだまま身体を丸めると目を閉じた。




