美女と薬中
二
滝里香介、前田功太郎、天内誠の三人が揃うのは久しぶりであった。
前田が言うには天内の部屋では、朝まで生テレビか笑天のどちらかが週に二回か三回のペースで繰り広げられているそうだ。難しい話か、お笑いのどちらかに話題は偏ると言う意味なのだろう。
時のない薬部屋。それが天内のワンルームマンションだった。
フローリング床に敷かれたマットに三人は胡坐をかいて座る。
天内の顔を見るのは二年ぶりだ。天内は驚くほどに痩せていて、頬がこけていたが、昔からのインテリな雰囲気は残っている。昔していた剃り込みのせいなのか、リーゼントの髪型にM字禿げが目立つ。 服装は紺色トレーナーに黒のズボンだ。
「そっか。香介も前田の組に入ったんだ」
「ああ。そうだよ」
「まだまだ暴力団はなくならないと思うけど、オレはヤクザはなくなった方がいいと思ってるからさ」
「暴力団新法という規制法はあっても暴力団禁止法はない」
「つまりこれって、ヤクザの存在をなんだかんだ認めちゃってるんだよね」
「本気でなくしたいなら禁止にすりゃいいだけ。地下に潜るとか半グレや不良外国人がのさばるとか言ってるのあれ全部嘘だから。刑罰を十倍にすりゃいいだけだからさ」
天内はそう一気に話すと、ガラスパイプを手に取った。耳掻きでパケから覚醒剤をすくう天内。ガラスパイプの穴に耳掻きで掬った覚醒剤を入れると、ターボライターで燃やし始めた。
シュゴーッ! ガラスパイプの中を躍り跳ねる白い煙を吸い続ける天内。長い吸い込みだ。吸い込んだ煙の量は多量で、天内が息を吐いた時に漏れでた煙で部屋が一瞬で白く煙った。吐き出す煙を天内はなるべく漏らすまいとしているようだが、呼吸である以上、止めることはできるはずもない。
天内が幾度となくすごい量の煙を吸い込んでは、息継ぎにより吐き出すため、部屋にシャブの成分が行き渡る。
もらいタバコならぬもらいシャブ。ただこの部屋にいるというだけで最早立派なシャブ中ではないかと滝里は思った。それ程までに充満した煙が、覚醒剤への自戒、抵抗などといったものを最早どうでもよくさせる。
前田はといえば、ペットボトルのフタの裏に覚醒剤を入れ、注射器に含んだ水をかけては水圧で覚醒剤の固まりをちょっとずつ溶かしていた。注射器の水を全て出したら、またペットボトルのフタ裏に放出された水を注射器で吸い直し、また吐き出す。水圧による水の力で、覚醒剤を溶かすのに夢中になっている。
天内はガラスパイプの吸い口についたヨダレを、ティッシュペーパーで丁寧にふきおえると
「やってみるか?」
パイプを滝里の前に差し出した。
受け取ったガラスパイプを見ると、先端は丸く中央には小さな穴が空いていて変わった形をしている。
どうするか? ちょっとぐらいなら。軽い気持ちであった。左手でガラスパイプを持って口にし、右手でライターで炙る。たちまち固体は液化されて、すぐにも気体となる。その白煙を吸った。
不思議な煙だった。吸うほどに気持ちいい。タバコと比較できるものではないが、軽く見積もっても、十倍の気持ちよさはあると感じる。
「天内、さっき言ってたお上がヤクザを認めてるって話、どうしてそうなるんだ?」
なんだか普通よりも議論が楽しいことに、不思議な感覚を覚えた。
「規制と禁止は違うってことだよ」
「ヤクザ禁止したら、世の中が良くなると言いたいのか」
「ああ、政治責任は多分にある」
なんてバカバカしいんだと思い、ガラスパイプを持つ手が震えた。天内の言ってることは正論なのかも知れない。だけどそう言う天内はシャブ中じゃないか。
たしかに滝里の目から見ても世の中は狂っている。おかしなことが多すぎる。社会、政治、企業、国と国、クエスチョンに感じることはあげたらきりがない。
しかし、そんな中でも社会を少しでも良くしたいという思いは、誰にでも大なり小なりあるんじゃないのか? それなのに天内は何様だ? 自分のシャブは棚にあげて政治がおかしいと言う。
全くもって変な奴だが、しかし天内の言うことにはどういうわけか説得力がある。ヤクザは悪だと親友二人の生き方を真っ向から全否定する天内。どうやら天内との議論は一筋縄ではいかないらしい。
前田は会話に入らずに、何かを悩んでいるようだ。そのうちに突然、左足の靴下を脱ぎだすと、くるぶしの下あたりに注射した。
「すごいとこに注射すんだな」
滝里はそう言うと、またすぐガラスパイプを吸った。
「刺しすぎて引っ込んだ静脈は、ベルトで縛るかせなよう見えへんのや」
「縛らんでもええ、とっておきのポイントやねん。ここは」
滝里は吸いながら、なんだかわからないまま頷いて返事とした。
左足のくるぶし下に注射をし終えて、靴下を履く前田。
「政治家も規制する新法作った方がいいよ。不正したら懲役五年くらいの厳しいやつ」
国を憂えた天内は、鼻から白煙を大量に吐き出して言った。
「そんな厳しかったら、誰もやりたいと思わないんじゃないのか?」
「だからいいんだよ。議員削減できて本物しか残らない。人の上に立って導こうとするならそれ位の覚悟あっていいだろ」
「そこまで言うんやったら政治家になればよかったんちゃう?」
「知ってるよ。でも今の選挙制度じゃ無理だろ」
「え? どういう意味?」
呆気に取られる滝里。ニートでポン中の天内に誰が投票するというのか? どんな選挙制度でも天内が当選するのは無理だと思ったが、同時にこれほどの逸材が埋もれてる日本は国益の損失だと本気で思えてきた。もったいないにもほどがある。
「選挙なんてするまでもなく、三顧の礼で国政に迎え入れるべきだよな。天内をさ」
天内が好きな三国志に滝里は準えた。
「三顧の礼かー、せやなー、って何で中卒のポン中に三回も頭下げないかんねん。一回でも嫌やわ」
二人にからかわれた気がしたのか天内は少し黙っていた。
天内はガラスパイプを滝里から受けとると、ネタをさらに入れた。炙りながら深い吸い込みをする。あきらかに長い吸い込みだ。反撃の構えに見てとれる。その後の天内の舌戦の切れ味が増すのは滝里にもわかってきた。
十秒ほど吸い込んでは一秒吐いて、すぐまた十秒吸って一秒吐く。その連続を呼吸が続かないとこまで繰り返すと、ガラスパイプを滝里に手渡してきた。
どうやら吸うほどに頭がよくなるらしい。負けじと呼吸の続く限り吸い込み続けた。
楽しい時間はあまりにも早く過ぎていく。
滝里はなんと言っても部屋住みである以上、戻らねばならなかった。
◇
その日、夜遅くに三島組事務所に滝里は戻った。
晩飯の支度はしなくていい、幡永はそう言ってはいたが、いつもならもう布団を敷いて寝る時間だ。 どやされるかも知れない。
「すみません! ただいま、戻りました!」
事務所のドアを幡永が開けると、まず詫びた。幡永の顔を直視することができない。
「ああ、大丈夫」
幡永は怒ることなく言った。
その時だ、滝里は不思議な違和感を覚えた。言葉に幡永はしなかったが?
(シャブやって帰ってきたな)
幡永が思ったことが滝里の頭に入ってきた。幡永が口にしていない思ったこと、感じたことが滝里には何故かわかる。
(シャブに手を出す可能性は多分にあったが、ガッカリしたな)
(初めて見た時、これは仕込みがいがある。見所ある若者が入った、そう思っていたのにガッカリだ)
(期待した若者だったが、たった一夜にして猜疑心に挙動不審と、怪しい空気感を放つ若者へと変わってしまったな)
滝里は急に腹が痛くなりトイレに籠った。腹が痛くてたまらない。物凄い下痢によりトイレから出られなくなった。
(シャブに驚いた内臓が、下痢でもしているのだろう)
トイレの中にいながらにして、トイレの外にいる幡永の考えが頭に入ってくる。
トイレを出ると、滝里は急いで布団を敷いた。
「叔父貴、すみません、ちょっと体調悪くて」
「ああ、もう寝ていいよ。オレもすぐ寝る」
幡永は布団に入ると、いつものようにすぐに眠った。
滝里は布団に入りはしたが寝つけない。どういうわけかそのバキバキになった目には、今まで目につかなかったものまで目に入る。布団に寝たままの姿勢であちこち視線を動かす。
今まで気付かないでいたが、電話台の脇に隠すかのように押しやられた手紙の束に気付いた。丸高と言った会社や愛竹と言った会社など、サラ金の会社の手紙が見てとれる。宛先は佐々木景政とある。確か若頭の名前が佐々木だと前田から聞いていた。若頭が金を借りているのか? 考えてもわからないことでも、なかなか考えが止まらなくなるのがシャブ中の常。
一睡もできないままにヤクザ事務所の部屋住みと言うこの状況が、何かしら粗相しないかと不安になったまま朝を迎えた。
布団をたたみ朝食を用意してと、滝里はテキパキと動いた。
洗い物を終える頃には、三島組長が顔を出した。
滝里のエスパー的な能力はいまだに続いている。ガッカリしたのは幡永だけではなかった。事務所に立ち寄った三島も何を話すまでもなく、シャブの使用を見抜いて幡永と同じ気持ちでいるのが滝里にはわかる。
(滝里を責めることはできない。覚醒剤の密売は若頭の佐々木がやっていることだ。しかしガッカリした。残念だ)
三島の考えまでも、滝里の頭に入ってくる。シャブに手を出した以上、どんな波乱や身の崩れが待っているか。ヤクザとして年を重ねた経験から、三島や幡永はそのことを痛いほどに理解している。それだけに落胆している、と言った二人の考えまでもが滝里にはわかる。
三島と幡永が用事があると言って出ていくと、少しして入れ替わりに三島組若頭の佐々木と前田が事務所にやってきた。
「ウッス! ご苦労様ですっ!」
キマッたまま滝里は気合いを入れて若頭に挨拶する。
昨日からの覚醒はずっと続いていたが、覚醒剤の読心の力は佐々木を前にして消えた。
若頭と会うのは初めてだ。出張で出掛けていたらしい。今朝、東京に戻って来たとのことだった。
「頑張ってんだって。若頭の佐々木だ」
そう言った佐々木は、いかにも機転が利くかのような雰囲気を漂わせている。年齢は言わなかったが、四十五歳から五十歳あたりに見えた。どっしりとした体格にオールバックの髪型。ダークなスーツに何のブランドかわからないが、見るからに高級そうな腕時計をしている。金持ってるぞ的なオーラを発していた。
「お前、運転できんのか?」
「はい! 若頭!」
「うちがやってる風俗の運転手が足りてねぇ」
「お前、手伝えるか?」
「はい!」
「ならジャージじゃなくてスーツに着替えろ。スーツはあんのか?」
「はい! あります」
滝里は、ダークネイビーのスーツに着替え始めた。
佐々木が応接間のソファーに座りタバコを手に取ると、前田が脊髄反射的にライターで火を点ける。黙ってタバコを吸う佐々木。
前田も滝里も不必要な私語は一切挟まない。
佐々木はソファーから立ち上がり室内を歩くと、電話台の脇の奥に隠すように押しやられた手紙の束に目を向けた。手紙の一つを開けると佐々木は、しばらく書かれた内容に見入っていた。
「懲役行く前に借りた五十万位の金が、延滞利息やらで五百万くらいになっとる。バカらしくて返せんわ」
「これ全部がそうだ」
掴んだ手紙の束に目を向け、吐き捨てるように佐々木は言った。
佐々木は残りは開封しないまま、五枚くらいの手紙をゴミ箱に放り投げる。
一体、何年の懲役で元金の十倍となるのか、計算の苦手な滝里は気になったが、そんな質問を若頭に向かってできるはずもない。
滝里はお茶を汲みソファーの上座席に置いた。佐々木は腰をおろすと携帯をかける。
「もしもし……善雄さんよ!」
佐々木はぜゆうと呼んだ変わった名前の相手となにやら話し出した。
「あんた、お寺に払った金とは別に、借りた金の二割は借りたんならすぐ持ってこいよ!」
「そう……わかってんならいい。借りたら電話しろよ。そん時は《憩》で会う」
「そう、喫茶店の。じゃあ」
佐々木は電話を切った。ぜゆうと呼ばれた相手の話し声は聞こえないが何やら佐々木への支払いがありシノギの電話だったようだ。
「おし! 車出せ!」
佐々木は立ち上がると前田と滝里はマンションの駐車場へと付き従った。
黒塗りのメルセデスベンツS600、佐々木の車だ。滝里には時計同様、佐々木のベンツが幾らするのかよくわからなかったが、一千万以上はするのではないかと思った。およそサラ金の督促状に似つかわしくない時計と車。金を持ってるのか、持ってないのかまるでわからない。
前田が車を運転して渋谷の繁華街へ三人は向かった。
渋谷繁華街の街並みを、黒塗りベンツがゆっくりと走る。窓からは外の音楽が漏れ聞こえ、歩行者や街の賑わいが感じられた。
車を駐車して降りると佐々木の護衛に動く。前田が先を歩き異変を知らせたり撃たれたりする役。滝里が車道からの発砲に備え撃たれる役となった。二人ついたことで役割分担ができたのは楽ではあった。とはいえ一睡もせずにヒットマンの急襲に備えるのは、メンタルが鍛えられることに変わりはない。仁義なき粗食も、メンタルの磨きをさらに効果的にしてるのは間違いないだろう。
「滝里、お前、運転できると言ったな」
歩きながら佐々木は言った。
「はい!」
「よし! 後で前田について、いろいろ教われ。女の送迎が主だけど、運転する日は一万はやる」
「これからはこの仕事優先でいいから。昼夜、逆転するし事務所で朝から寝るわけにいかんから、ワンルームのマンションがあるから明日からそこに移れ。幡永さんには言っておく」
「はい! ありがとうございます」
一万、それって内容的にバイトより安くないか。しかしありがたい。小遣いはいまだ一円たりとも、もらってないのだ。
「それからお前、銃持たせたら、行けと言ったらお前やれるか?」
佐々木は滝里の顔を覗き込むように見た。
予期してない質問だったが即答で返事をした。
「はい。やれます!」
目に力を込めて言う。
「わかった。なら次は、お前に行かしたるわ」
「はい!」
佐々木は滝里の答えに満足したように頷いた。
佐々木は先を歩く前田を、手を振って呼び戻した。
「お前ら、オレのガードはもういいから」
「前田。後、頼んだ」
「はい! お疲れ様でした!」
佐々木が去り、前田と滝里の二人になる。やっと気が抜けた。
「香ちゃん、寝れたんか?」
「いや、寝てない」
「四八までやな」
「よんぱち?」
「せや、よんぱち勾留の四十八時間。覚えやすいで。それ過ぎて起きとったら危ないな」
「せやから早めに睡眠薬飲むようにするねん」
「やけどある程度は起きてへんと、眠剤あっても寝れんかな。多めに飲んだら別やけど健忘症がホンマにすごいで」
ギラついたホテル街を歩きながら前田と話した。
三島組が運営する派遣型風俗、エンジェルソースがある小さなビルに着く。悪いことをしてるに違いない、そんな雰囲気がした怪しい古いビルだ。
エレベーターで前田と三階に上がろうとしたら若い女が乗り込んで来た。二十歳前後くらいの、はっと目を引く長い髪の美女。アイドルではないかと思われるほどの光彩を放っている。全身から女の妖しいほどの色香が出ていた。香水の匂いを嗅ぐだけでも、女として意識しないではいられないほどだ。
滝里は一瞬にして一目惚れしてしまった。
「おはよ」
女の方から前田に挨拶してきた。
「おはようさん! ジュリちゃん!」
その美女はジュリと呼ばれた。源氏名だろう。
滝里はジュリの綺麗な瞳を覗きこんだ。ジュリも滝里の瞳を覗き返す。
瞬間、脳裏に、人生の歯車が狂い始める音がした。
一目惚れがシャブのスパイスを効かせて、瞳孔の開きは恋の対象として相手を認識した。
エレベーターを降りて、三人でデリヘルの待機所の部屋まで歩く。部屋に入るとアルバイトの若い男の従業員が挨拶をした。
「おはようございます!」
「おはようさん!」
滝里は室内を見渡してみた。ソファーにテーブルが置かれているほか、テレビに冷蔵庫があるだけの簡素な部屋。まだ時間も早いのか出勤はジュリ一人で、他は男のアルバイトスタッフが一人いるだけのようだ。
「ここでは女の子も男も、全員偽名で管理してんねん」
「香ちゃん、偽名を何にするか決まったら、このタイムカードに書いとってな!」
前田はタイムカードを渡してきた。
「じゃあ、村木でいいや」
タイムカードに村木と書いてタイムカードを打刻した。時刻は十五時二分。十七時の営業までまだ時間はだいぶある。
偽名の自己紹介、前田は広田、女はジュリ、バイトは波多。名札でも貼ってほしいくらいにややこしい。
「広田さん、すんません、ガソリン入ってなくて入れてきます!」
「そうか。ほな、慣らしついでに村木ちゃんに頼もうか」
「村木ちゃん、車停めてあるとこまで案内するわ。そしたらオレは近くにある 電話受けてるマンションに歩いてくわ」
警察の対策として、客の電話を受ける場所と女の待機場所を、別にしてあると前田は言う。
「広田さん、あたしもちょっとコンビニまで車乗せて」
「え! コンビニ? そらどうぞ」
コンビニまでは歩いても行ける距離だ。
三人でまたエレベーターへ向かう。前田も滝里もエレベーターの前に立つと思わず笑みがこぼれた。撃たれるための立ち位置、自然と身に付いている。
ビルの近くの車が止めてある駐車場まで来ると、前田は鍵と日当とガソリン代を渡してきた。
「ドライバーの一人が、免停になったらしゅうて、香ちゃんに話振られたんよ。せやけどこれで、一旦部屋住みから解放されそうでええんちゃう」
「三島のオヤジは厳しいから、部屋住み期間が短すぎる言うかもわからんけど」
「ほな、オレは電話受けてる方のマンションに行くわ。そっちにもバイトがいて、バイトが来たらオレは帰るけど、後は波多に聞いてや」
「わかった」
前田と別れると、滝里とジュリは車に乗った。
マークⅡは運転したことがない車で僅かに緊張したが、そんなことよりも助手席に乗ってきたジュリの方が気になる。ドキドキしていた。コンビニまで五十メートルもない。何かを話そうにもドギマギして言葉が出ない。
黙ってとりあえずコンビニに向かって車を走らせた。すぐにコンビニに着いて車を停車させた。
「ねぇ、あんたバカじゃないの?」
ジュリの方を向く。助手席から見詰めるジュリの瞳孔が大きく開いていた。コンビニに用事ではなかったよう。
目の色と瞳孔の開きだけで好意を理解できる。これもシャブの力に違いない。
ジュリにキスをする。抵抗はなかった。同じ気持ちでいたのだ。決まりだ。
後はホテルを探すだけ。どこにすればいいかと車を走らせる。
「そこにしなよ」
ジュリが指さしたホテルを見る。派手なネオンライトに妖艶な雰囲気が、これから始まらんとするセックスへの昂る心がくすぐられた。
駐車場に車を乗り入れると、セックスの合意契約が成立したかのような喜びを感じた。受付のタッチパネルで、選んだ部屋に着くなり急いで裸になる。
「ねぇ、あれやってるでしょ」
「あれ? ああ、やってる」
ジュリは天内が持っていたようなガラスパイプをバックから取り出した。
二人してライターで炙って吸う。
開店まで時間はあるとはいえ、ゆっくりはしてられない。キングサイズのベッドに二人して寝転ぶとジュリが滝里の上になる。キスを交わすと闘いが始まった。
滝里の最も敏感な所をジュリはいきなり舐めまわす。快感が強すぎるあまり、もっとしてくれとばかりにジュリの顔ごとブリッジして持ち上げた。こんなことが起こり得るのか、と自分でも驚いたが体は正直だ。ジュリは舐めまわしながらも、体勢を上下反転させて股の間を口元へ押し付けてきた。互いに最も敏感なところを舐め合っていると、ジュリの悶えかたがおかしいことに気付いた。
どうやら薬の力で口撃は全て十倍となるらしい。これは面白い。狂ったように舌を這わせた。
ジュリが狂喜しているのが敏感な場所の蕩け方でわかる。滝里は上になると、ジュリの中に入れた。
まだ射精はしていないというのに、既に普段の射精よりも遥かに気持ちがいい。おかしくなりそうだ。ジュリの目を見ると完全に開いた瞳孔が滝里を好きだと言っている。
「すごくいい! 今の彼氏よりいい!」
信じられない台詞がジュリの口から飛び出す。
彼氏がいるとは聞きたくなかった。ショックを受けて聞こえないふりをした。
ジュリの狂いぶりは、滝里がそれまでしてきたセックスで、見たことがない女の狂い方をしている。快楽に貪り狂うジュリの姿を見ているだけでも、性欲は爆発だ。本気で燃え狂ってくる。
「私、ジュリじゃなくて仁上沙希って言うんだ」
特別な相手に偽名でいたくない、そんな沙希の思いが滝里にもわかった。
「オレは滝里香介」
この日、滝里と沙希の特別な関係が始まった。
◇
滝里は引っ越しの準備のために仕事は早上がりとなった。
バイト代で食材を買って帰るか迷ったが、幡永に対して失礼にならないかとして買わないことにした。
事務所に戻ると、幡永も晩飯をまだ食べてなかったようで遅い晩飯の支度をする。
具なしの味噌汁を作り、ご飯をよそぎ、辛子明太子は別皿に取るようにしてみた。辛子明太子は、ご飯の茶碗に載せた方が、洗い物が減って良いが見栄えの問題もあった。ご飯茶碗に味噌汁のお椀、たった二つの食器ではあまりに貧相だ。
いつもの晩飯を幡永と食べる。辛子明太子は相変わらず美味かったが、幡永は飽き飽きしてるようだ。
この粗食の特殊部隊訓練は、佐々木のサラ金の督促状から察するに、訓練などではなく三島組の財政難によるものと思われる。
幡永はシノギもなく、生活保護も受けれないまま、この部屋にいるのだろう。暴力団を隠して生活保護を受けるのが横行する中で、何かしら生活保護申請をしない理由があるのかも知れない。
冷蔵庫がスッカラカンに近いのは、幡永のために誰も食品の買い足しをしないからだ。
明日にはこの事務所を出て独りのマンション暮らしになる。夜型の仕事のため事務所には置いとけないという、佐々木の都合によるものだが少し嬉しかった。
食後に幡永のタバコに火をつけて布団を敷く。布団に入ると、いつもはすぐ眠る幡永が話しかけてきた。
「お前、銃を見たことあるか?」
「いえ、ないです」
「見たいか? レンコンとオートマチック、両方あるぞ」
銃の在処、隠し場所を教えるのは信用の証しと感じる。
だが、ずっと寝てないのだ。銃なんか見たら、今日も眠れなくなる気がした。幡永も、眠いはずだ。
「いえ。遅いので、またの機会にお願いします」
「そうか」
幡永は微笑んでみせた。幡永にも滝里が考えた気遣いが伝わったようだ。
「寝るな」
幡永はゴロリと反対を向くとすぐにも寝た。
幡永が寝た後、布団に仰向けになり天井を見る。シャブのせいで、天井に張られた杉の羽目板の流線的な模様の微細なデザインまでもが目に映る。普段なら意識しない、どうでもいい微細な細部。
天井を眺めながら沙希のことを思った。溢れる女の色気が細胞レベルで発せられているのを思い出す。できることなら確かな付き合いとしたかった。
しかしこんな下っ端の自分に釣り合いが取れるだろうか。
貧乏とはかくも心苦しいものとは知らなかった。貧乏には慣れていたが、恋の成就には現実として経済は絡む。胸が苦しい。
滝里は寝相を横にした。さっきまで見ていた天井から、幡永の白髪頭の後頭部へと視点が移る。正確な年は知らない。本人が話さないから聞かないでいた。おそらく八十歳あたりと思われるが、八十近くにもなって銃を所持して一体何のためだろう?
佐々木若頭の言葉を思い出す。
『銃持たせたら、行けと言ったらお前やれるか?』
行けと言われたら、あの歳で幡永の叔父貴は行くのだろうか?
『なら次は、お前に行かしたるわ』
次は自分だと言っていた。
やってやる! やるしかない! 貧乏は御免だ。好きな女ぐらい囲えるぐらいになりたい。腹が据わると滝里は迷いがなくなり眠りについた。
朝七時、いつもの目覚ましの音が鳴る。眠いなどとは言っていられない。朝寝坊は部屋住みをすれば誰でも治るのではないかと思った。布団をしまって朝食の準備に取り掛かる。冷蔵庫を開けると、もう辛子明太子が少ないのに気がついた。兄弟からの贈り物は、次はいつになるのだろう。
いつもの朝食を済ませ、洗い物を終え、幡永のタバコに火を点ける。
「お世話になりました」
テーブルに額がつくのではないかというぐらいに頭を下げた。
「それじゃーな。当番もあるし、そん時にまた会おう」
「はい! 叔父貴!」
高齢化が進むヤクザの物悲しさを見る思いで、滝里は事務所を後にした。
◇
夕暮れが迫る街の一角に佇む、築十五年ほど経った四階建てのマンション。その外観は軽く古びた感じが漂っている。
そこが佐々木に聞いていた引っ越し先のマンションだった。そのマンションは四階建て十二世帯ほどで四階の四〇一が滝里の部屋となった。
引っ越しと言っても、ほとんど身一つで早々と終わると、滝里はフローリングの床に横になって少し休んだ。
◇
時のない薬部屋、気がつけばここにいる。昨日と今日の境目が、あやふやになる感覚を滝里は感じた。デリヘルの仕事を終えると、そのまま集まるのが連日続いている。
濛々とたちこめては、室内に消えゆく白煙に甘ったるい匂い。
滝里と前田は、仕事が終わるとそのまま天内の部屋に寄った。
滝里は室内の光景を眺めた。そこに映るものは、開いた瞳孔に削がれた頬、テカる脂汗、前田も天内も見るからにジャンキー顔をしている。息は鼻でしていない。金魚のようにパクパクと口でばかりしている。ペットボトルのフタ裏を使って覚醒剤を溶かす前田に、天内の長すぎるジェットライターの音。
三人の前に置かれたちゃぶ台の上にあるのは、灰皿の他にポカリスエット、ゼリー飲料、ティッシュペーパー、ウェットティッシュ。
生活感はまるでない。ビジネスホテルのようだ。テレビデッキにAV視聴用のDVDに小さなちゃぶ台と小さな冷蔵庫があるだけ。DVDは天内の趣味で、全てレイプものが置かれている。
天内はキマると掃除にハマるタイプのようで、部屋にはゴミ一つ落ちていない。食欲がないため、点滴よろしく飲むゼリー飲料の飲み散らかしもすぐにゴミ袋に入れて片付けられる。
部屋にゴミ一つないためか、DVDプレーヤーの上に置いてあるガチャガチャのカプセルが目についた。
「聞いたんだけどさ、死刑の時って死刑囚にわざと話しをさせるらしいんだよね」
「話をさせてさ、油断してる最中にやるんだってね。そうでもしないと死刑囚が取り乱して大変なんだとか」
天内がウェットティッシュで、顔のテカりを拭きながら死刑について話題を振った。
「ホンマか、それ?」
「へー、じゃあ、最後の死ぬ間際に、面白いことが言えたらよくないか? 脳味噌バーン、とかどうかな?」。
「脳味噌バーン! と言った直後にズドンと落下するのは?」
「いいね」
「ええやん」
前田は笑いながら静脈注射を終えると、カバンから新しい注射器の袋を取り出そうとした。カバンの中には三十本近い数の注射器の袋が見てとれる。
「二回までやな」
呟く前田。
「二回までって何?」
質問する天内。
「ん? ああ、独り言、言うとったか」
「同じ針だと、だんだん痛なってくる、痣もつくしな。せやけど毎回、一回で換えてたらもったいない」
「なんでそんなたくさん注射器が手に入るの? やっぱ病院とも繋がってるの?」
「いろいろやな。糖尿病患者の横流しやとか病院からの場合とか」
(糖尿病患者の注射器横流しは、インスリンプレフィルドタイプやカートリッジ交換タイプが主流でない時代の話)
「この数持ってる時に捕まったら言い訳でけへんな」
前田の発言に、部屋の空気が暗く変わる。
「そういえば、オレたちって誰か彼女とかいるの?」
空気を変えようとしてか、天内は唐突に切り出した。
「彼女じゃなくても好きな人とかさ」
「好きな女ぐらいいるだろ」
沙希を思い出して、滝里は返答した。
「わははっ。ニートにポン中ヤクザって好かれた女もたまらんのー」
前田は大笑いした。
「オレが女やったら、君たちに恋なんかされたらホンマに悩ましくなるな」
「馬鹿にしてんのか? 悪いけどオレは彼女いるぜ」
天内は反論した。
「何っ? 彼女いたのか!」
「ああ。付き合ったばかりだけどな」
誇らしげに言う天内。
「そら、良かったやん。なあ、香ちゃん」
「ああ。おめでとう」
ニートでポン中でも彼女できんのか? と思ったが佐々木の言葉を思い出した。
「天内、やったな! うちの若頭が、女なんてまぶして入れちゃえば、イチコロって言ってた。やっぱポン中ってモテんだな」
「まぶして入れるって、チンポにシャブを?」
「ああ」
「なるほど、勉強になった。イチコロなんだ……」
「さっきから気になってたんだけどさ、そこのガチャガチャって何なの?」
DVDプレーヤーの上にある、ガチャガチャのカプセルについて、滝里は聞いた。
「どれ、見してみ」
前田がカプセルに手を伸ばした。
「あ、それは」
「なんやねん。ガチャガチャぐらいで」
手に取り開ける前田。
「これオモチャの指輪じゃねーか。何すんだ、こんなん?」
「まさか贈り物か?」
顔を赤らめる天内。
「冗談なんやろ? 悪いこと言わへんからこれはやめとき」
天内のいかれぶりに前田と一緒に爆笑した。
「なんかでもやばくなってきてねーか? 普通じゃないだろ」
天内の壊れかたが進行していることに、滝里は気付き始めていた。
三人共、いつ誰が弾けてもおかしくないと思う。
弾けて逮捕は時間の問題ではないかと考えていると、突如、黒い小さな影が壁の隅を走る。それが何かは滝里にはすぐにわかった。ゴキブリだ。
「ご苦労様ですっ! 兄貴! 最近見ないな思ぉたらこないなとこにいてはったんすね!」
ゴキブリに話しかける前田。ゴキブリを兄貴と呼び慕うとは、ヤクザの前田が言うとなんだか笑える。面白かったが、そんなことは言っていられない。
二つの長い触覚が、しきりに動いていて気持ち悪すぎる。
玄関に置いてある殺虫剤を取って戻る天内。逃げる暇をあたえず天内は急いで殺した。逃げ場をなくしてひっくり返り死んだゴキブリ。
ゴキブリのように自分たちも死んでいくのではないか、そんな気が一瞬した。
カーテンの隙間から朝の光が漏れて、鳥の鳴き声も聞こえ始める。
潮だ、解散だ。滝里と前田は天内にさよならをした。




