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奇跡の更生  作者: 浮舟
19/25

十九

 ガッポリ穴が開いた。開いた大きさが、そのまま滝里の胸を沙希が占めていた割合だった。瞳閉じれば愛しい顔が浮かんでくる。

 切なさ、悲しみは、どれだけシャブを足しても消えることはない。薬などじゃ誤魔化せない恋しさが募るだけ。

「ごめんね」

 あの言葉の意味は滝里を振ったことだけの意味に、何度思い返しても感じ取れない。何か別の重い響きがあった。

 警察に売ったという意味だと直感した。時間が経っても、それは勘違いだとは全く思えない。

 テレパシー、時折、シャブはそういった超能力をもたらした。

 沙希のことを思い出すと胸が痛む。パケ割り作業に没頭して、忘れようと努力することにした。

 玄関の鍵が閉まっているか確認をし、ローテーブルの上にラーメンのどんぶりを置く。百グラム入りの袋をハサミで切って、そのどんぶりに二袋、二百グラム分をぶちまけた。量が多すぎて〇・五グラムや一グラムの小売り用のパケ割がまるで終わってない。

 電子計量器、スプーン、割り箸、ビニール、ライター、準備は整ったが、どうしても沙希のことが頭から離れない。

 どんぶりにぶちまけた覚醒剤に右手を入れて握ってみた。

 世界を掴みたい、何故かそう思った。

 握った手のひらから、サラサラと丼の中にこぼれ落ちる覚醒剤。まるで手に入れることができない金のようだ。沙希の心にも思えた。

 こぼれ落ちていくシャブを見ながら、天内のことを何故か思った。この大量の覚醒剤は第二、第三の天内のような事件を起こす者を生み出すかも知れない。

 どれだけの人間が不幸になっていくか、図り知ることなどできようはずもない。

 だが、それがどうしたというのだ。世の全てが取り繕ってはいるが、元々、残酷な奪い合いではないか。生きるためには、他者をおしのける必要すらある。そして自分は奪われた側の負け組の人間だ。どうして他者のことを思うことなどできようものか。

 覚醒剤とは何なのだろうか? 

 不眠不休で戦える勇敢なパーフェクトソルジャー。諸説ありと言えども、戦争利用のためが覚醒剤蔓延に弾みをつけたのは間違いない。

 戦争という人類における究極の奪う選択が覚醒剤蔓延の原因だと言うなら、一売人の自分が全て悪いとは思えない。

 真に悪い人間とは誰なのか? 売る人間か? 作った人間か? 研究した人間か? それともやる人間が悪いのか? 

 やる人間はこう言うだろう、売る人間がいなければやらなくてすむ、と。売る人間はこう言うだろう、作る人間がいなければ売ることもない、と。作る人間は、国家がこれを研究し広めなければ、自分なんかが作れるわけがない、と言うだろう。

 もう滝里にとって善悪の価値基準などとっくに壊れていた。判断基準は、気持ちいいかどうか、金になるかならないか。

 それ以外の判断基準など持ち合わせていようはずもない。


 ピンポーン!

 突然ドアホンが鳴った。思考が一瞬にして止まる。

 息を止めた。物音立てずにドアホンモニターを覗きに行く。

 モニターに映った男。真面目そうに見えるうえに、武を感じさせる体格。

 真っ直ぐに伸びた姿勢。正義を感じさせるオーラ。

 一目で警察だと直感した。


 ジャジャジャジャーン♪ (運命 交響曲第5番)が頭の中で奏でられた。


 滝里は息を殺しながら沈黙を保った。居留守を装う。

 六畳に小さなキッチンがあるだけの室内は、動いただけで外からも気配を覚られそうだ。体が固まって動くこともできない。唾を飲み込む音すらも気になる。

 トゥルルル。トゥルルル。ポケットの携帯が鳴った。モニターに映る来訪者の男が携帯を鳴らしている。

 居留守は見破られた。

 ピンポンピンポンピンポン。連続で鳴らされるドアホン。

「おい! 開けろ! こらあっ! 警察だ!」

 激しく叩かれるドア。


 このように運命は扉を叩く。

 

――やはり警察だ――

 頭が真っ白になった。

「オラァッ! 開けろ! 開けんか!」

 最悪のタイミング。在庫としてある覚醒剤の全てがローテーブルの上に今現在、置かれている。百グラム入りが七袋。ラーメンのどんぶりに盛られた覚醒剤だけでも二百グラム。

 乗ったこともないような最恐絶叫ジェットコースターが、カタカタと頂きに登っていくような感覚を覚えた。この後、待っているのは絶叫の嵐なのは間違いない。

 ドア一枚隔てた向こうに、人生の終わりに匹敵すると思える破壊的な罰が待っていた。辛うじて、とてつもない不幸の侵入をドア一枚が食い止めている。だが、強烈な叩かれ方は、ドアが壊れるのではないかとさえ思えるほどだ。

 滝里はパニックになりながらも、覚醒剤を棄てる! できうる限り棄てる! 瞬時に決意した。そう決めると、覚醒剤の入った袋とラーメンのどんぶりを持ってトイレに駆け込んだ。

 トイレの中に入り鍵を閉める。最初にラーメンのどんぶりを、ひっくり返してトイレに一気にジャバっと投げ入れた。

 次から次へと百グラム入りの袋を、指で引き裂いてはトイレに棄てていく。百グラムあたり、安く売っても二百万にはなる。全部で千八百万円にはなる量と言えた。だが惜しんでいる猶予は全くない。

「開けろ!」

 ドアの向こうで罰の使者は、怒鳴り続けていた。構わずどんどん袋を破ってはトイレに棄てる。

「おい! 開けろ!」

 怒声を無視してトイレに棄て続ける。全ての覚醒剤をトイレに溜めると、一気に流した。

 便器の上から出てくる水で、ラーメンのどんぶりも洗った。

 流れきったか確認する。袋が流れきらないから手で押し込み、再度、流し込んだ。

 トイレから出ると、他に怪しいものがないかと室内を見渡す。まだあった。電子計量機、注射器を入れてある布袋、割り箸、中身のない作業前のパケ。それらをまとめてベッドの布団に潜り込ませた。

 大量にあったシャブはとにもかくにも部屋にない。僅かに落ち着いた。

「てめー、今すぐに開けないなら叩き割って入るからな!」

 怒声は一際、大きくなっている。

 台所の小窓の外に人影が見えた。警察の男は側面に回って、台所の換気のための窓の前に立っていた。窓は閉まってはいるが、叩き割り開けてしまえば、体を通し入れることは充分にできる大きさだ。ガラスを割ると、破片が危ないがやれなくはない。叩き割るという警告は紛れもない本気に聞こえる。

「おい! 開けないならお前を逮捕する!」

 本気の声色に開けた方が良さそうだと判断して、玄関のドアを開けた。

「警察の西宮だ」

 警察官は西宮と名乗り警察手帳を提示して見せると、すぐにジャケットの内ポケットにしまった。

「滝里! あがるぞ」

 自分の名前を知って来ている。不安が増大した。

 西宮と名乗った男は、息が荒くなっていた。

 靴を乱暴に脱ぐと玄関をあがる西宮。あたりを見回しながら室内を歩く。

 ベッドの布団をめくれば電子計量器がある。注射器に至っては百本以上あった。

 滝里の方からベッドを正面に向いて、床に胡座をかいて座る。西宮もそれにならって、ローテーブルを挟んで二人して胡座をかいて座った。西宮にはベッドが背中に来るように、座る位置を計算し誘導したのだ。

 西宮の用件を見極めるのに全神経の集中力を耳に注ぐ。

 疑われることが多すぎて、どの事件で刑事が訪ねて来たのかの勘繰りで脳はフル回転していた。何を言い出すのか、それによって話すこと話さないことを、見極めなくてはいけない。口数少なく、慎重になることにした。

「滝里、お前、何か隠してたんじゃねーだろな? なんだ、これは?」

 西宮は床に落ちていた透明で小さな物体に気付くと、それを拾った。

――今の何だ?

 シャブの胸騒ぎ、ドキドキが止まらない。

 西宮は、親指と人差し指の爪で拾った物を割ってみせた。

「米粒、お前、ふざけんなよ。何の間違い探しやらせる気だ」

 笑う西宮。緊張感の消えた笑顔からは、逮捕目的ではないと感じた。

「あの……ご用件は?」

 探り探り、西宮の発言や表情から意図を読み解こうと集中する。

「そんなにビビらなくていい。滝里、羊羮食うか? ここの羊羮美味いぞ」

 左手にもっていた手提げ袋の中から羊羮を出してきた。

「話ってのは、シャブ中の情報を提供してほしいんだよ」

「は?」

 警察のS、スパイとなるよう捜査協力を依頼するための訪問で間違いない。

「出せる情報が出たら、オレの携帯にかけてほしい!」

「売人なんだろ。売人に聞くのが一番話が早いよな」

 肯定も否定もしないで黙った。否定して、機嫌を損ねようものなら尿検査となりかねない。

「そんな暗い顔すんなよ」

「情報提供者は大切にするからさ。むしろラッキーだと思って。ねっ!」

 ドンマイと言わんばかりに肩を叩かれた。

「さっきかけたのが、オレの番号だから登録しとけよ。じゃあな」

「はい」

「また電話する」

 西宮はそれだけ言って去って行った。

 こちらの住所も携帯も知られていて、売人と知って訪ねてきた。誰かの密告以外は有り得ない。

 西宮の突然の訪問により、覚醒剤は全て棄ててしまった。売る物がなくなった以上、西宮に何も話す必要はない。

 置いていった羊羮に視線をやる。お近付きのつもりだったのか。バカが! たった今、全財産といえる薬を失ったのだ。羊羮など何の有り難みもない。

およそ商売においてこれほど強烈な在庫処分はそうそうない。いわゆる個人事業主とも言えなくないレベルのバイヤーにとっては、壊滅的損害。

 沙希以外はこの後に誰とも連絡はついた。沙希の密告だと確信した。沙希を恨む気はない。例え牢屋に入っていたとしても、その気持ちは変わらないだろう。それ程までに恋している。

 失恋で胸が締め付けられる中で、商品の在庫一掃処分により全財産を失った。そのうえ完璧なまでに警察にマークされた。

 組からは落とし前もあるかも知れない。安く売っても千八百万にはなったであろう九百グラム。

 突如、食道から口の中に、酸っぱい胃酸が競り上がってきて嘔吐した。

 ヤクザとして大成すると決意したはずが、今になってようやく後悔に気付き始めていた。

 器量があり知恵もある、そう思っていた。成功すると信じて入ったこの道。

 しかしどうだろう。鏡を見ると紛れもない敗者の顔をした男の顔が映っている。全財産失くしたのだ。急に自身がみすぼらしいと感じた。

 どうするか、落ち着くためにラッキーストライクに火をつけた。

 失ったシャブ、刑事にマークされた状況、どうすべきか。逃げる、最早、一択に思えた。

 電話が鳴った。客かと思ったが入院していると聞いていた前田からの電話だ。

「もしもし」

――香ちゃん、若頭が逮捕されたで。

「う! 本当か」

 沙希ではなく若頭がうたったのか。一瞬思ったがそんなはずはない。若頭が滝里を売るなど不利益でしかない。どんな時も利益が最優先の若頭にして、それは有り得ないと言いきれる。

――オレもさっき、オヤジに電話で聞いたばかりや。

「何の容疑で?」

――公務執行妨害にシャブやて。所持しとったとか。

――営利がつくのか使用がつくかもまだわからん。何せ若頭は、シャブやる姿は、長いこと誰にも見してこんかったから。

――今後はより警察に注意せな。

「心配ありがと。そっちこそ怪我の具合は」

――左目はなくなるし、最悪や。

「見舞いにも行けなくてすまん」

――事故やってことにしとるけど、警察も訪ねて来たりしてんねんから、来おへん方がええで。

「そうなんだ」

――香ちゃんも気つけてや! ほな、また。

「ああ、わかった」

 電話は切れた。前田は自分も大変なのに、心配して電話してきたのだ。

 自分が逃げたら前田との関係はどうなるのだろうか? 前田は許してくれるに違いない気がした。

 ベッドに忍ばせた注射器入りの布袋を手に取る。できることからしていこう。それを持って適当な捨てやすい場所を探しに出掛けることにした。ネタがないのだ。警察にマークされたからには、なおのこと注射器など置いてはおけない。

 自分用に何本か取っておくこともしなかった。末端価格で、自分のために覚醒剤を買いたいとは今は思えない。トイレに覚醒剤を流したことが、それほど衝撃的だったのだ。

 マンションを出て、あちこちのゴミ捨て場を眺めながら歩いた。五百メートルは歩いただろうか。防犯カメラもない丁度いい集合住宅のゴミ捨て場を見つけた。ゴミ捨て場には住人のゴミが既に四つほど出されている。

 誰も見ていないのを確かめて、そのうちの一つのゴミ袋の結び目をほどいた。注射器入りの布袋を奥まで詰めると、再度、ゴミ袋を結び直して元の位置に戻す。

 僅かに安堵した。後は自分の体内に残っている覚醒剤を抜けば、覚醒剤については問題ない。警察への情報提供など知ったことか。

 三島組のことはどうする? シャブの仕入れた金は自身がサラ金から引っ張った金とはいえ、売上の一部は佐々木に渡す約束で破格の相場で仕入れたのだ。まだ佐々木へは礼金として最初に渡した十万しか渡せていない。



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