十六
坂本組の企業舎弟が所有する港の倉庫の一つ。そこに坂本組の監禁部屋があった。
広い倉庫の室内の中にある防音のコンテナハウス。
坂本組幹部の青根将吾は、そこで弟分の窪川稔が前田を連れて来るのを待っていた。ここに連れてくる場合、だいたい殺すと決まっている。
係留してある小型のクルーザーで沖に死体を沈めにいく、死体の隠滅も早い。
だが、今日は殺しは必要ない。芝居の演技をするだけでいいとなっている。
いつもこんな楽な仕事だといいのになと考えていたら、窪川が前田を連れて到着した。
「あんたが前田さんか。聞いとると思うねんけど、狭いのは堪忍やで」
青根はすまなそうな顔をしてみせた。部屋の真ん中に置かれている檻は、猪用の箱罠だ。
幅一メートル、奥行き二メートル、高さ一メートル。立ち上がることはできない。座ることがやっとの広さ。
実際、こんな檻に入らなくてはならない前田が哀れに思える。
「トイレとか行くんやったら先に行ってな」
何も喋らない前田。
「兄貴が聞いてくれてんのに黙りとはなめとんのか!」
「ワレ、関西やろ。オレはワレみたいなの嫌いやねん」
段々にヒートアップする窪川。
「あまり言うことやないねんけどな。オノレがやっとることあれやで、阪神の応援席で巨人応援してるようなもんや! 関西人のくせしてよう」
「よせ! それ以上言うなや」
窪川を静止した。
前田は開かれた檻に、犬のように身を屈めて無言で入った。
窪川が南京錠で鍵をかける。
「柿澤さん、呼んであるさかい、もう少しの堪忍やで」
前田は地面に顔をつけるように土下座の姿勢となった。全身が震えていた。先程からずっと泣きながら黙り続けている。一言の返事すらもしないままだ。
顔を地につけての土下座の姿勢は、リクエストしたわけではない。泣き顔を見られたくないようにしていると思われた。
青根は前田の立場になってみた。坂本組と三島組では、坂本組が格上だ。
格上ではあるにせよ、こんな屈辱を受けるぐらいなら喧嘩といきたいところだろう。だが前田の属する組織のナンバー2である佐々木が、早々に今回の謝罪話の成立を引き受けている。
組織は前田を守るどころか見放した。いや、見放すだけならまだいい。おそらくは断ったであろう謝罪を半ば強要したのだろう。
佐々木は坂本のオヤジに三千万もの金を借りている。無利息、無担保で催促は一度としてされていない。その毒饅頭は、今日のような日のために坂本のオヤジが事前に仕掛けた罠だ。
悔し涙を流し男泣きする前田に、青根は同情の念を禁じ得ない。同じ極道として前田が堪え忍んでいるのは、上の命令によるものだと、わかりきっている。
前田に筋があることも、話を聞いてわかっている。お抱えの女の子を守ろうとしただけなのだ。それ以後の恐喝はあったにせよ、やったことからして柿澤の罰金は当然と言えた。
金も力も、こちらが上だということにより、筋を曲げさせて屈服させているのだ。青根にとってもあまり気分がいいものではない。
そうとはいえ、自分に与えられた任務はキッチリこなすしかない。
弟分の窪川が一旦部屋を出ると、次に戻る頃には柿澤を伴って部屋に入ってきた。
柿澤の眼前に、憎き前田を対面させる。前田は土下座の姿勢で顔を伏せて震えたままでいる。
柿澤は、屈んで檻に寄り添うかのようにした。
「柿澤さん、これで気がすみましたやろ」
「うちも殺しまでは受けてへんさかい、ほなこれでしまいに」
青根は公開リンチの解散を早々に促した。
「ちょっと待ってください。私はこいつに話があります」
柿澤が言うと皆が黙った。
前田の嗚咽だけが部屋に響く。
鉄格子の隙間から、柿澤は左手を入れた。左手で髪を掴み上げ前田の顔が見えるようにした。
「グッ」
前田が唸った。目は真っ赤で涙が溢れ、唇はわなないて震えている。
「なあ、ゴミ!」
「オメーのせいでオレはたくさん失ったよ」
「どれだけ失ったと思う?」
柿澤の語りかけに前田の返事はない。
「なあ、ゴミ!」
「オレはずっと努力してきた」
「それこそ小さい頃から、厳しく育てられてきたんだ」
「どれぐらい厳しかったと思う?」
「ゴミのお前に言っても、わからないだろうな!」
「とにかくだ! 死に物狂いで努力し積み上げてきた物が……」
「ゴミのせいで全てが台無しだっ!」
一瞬の出来事だった。言い終えると柿澤は、隠し持っていたフォークで、前田の左目を突き刺した。
「ぐわーっ!」
前田は瞼を閉じたが、瞼の皮膚を貫通して、フォークの尖った先は、眼球に深く刺さった。前田は両手で左目を抑えたが、刺さったフォークは抜けないまま流血していた。着ている服も血に染まる。
まさかの展開に唖然とした。
全て芝居の楽な仕事と踏んでいたら、とんでもないことが起きた。
青根はこの場をどう納めるか、すぐに判断した。
「柿澤さん、これはやりすぎと言うか話に聞いてへんことや」
「あんたは、すぐにこの場は帰ってくれ!」
柿澤は口で息を切らしながらも、前田の目を刺したことは満足を感じているかのように笑う。
「もたもたすんなや」
そう言われると柿澤は黙って部屋を出ていった。
こうなった以上、前田を殺すこともチラリと考えたが、誰がやったかあまりに明白すぎる。
窪川と二人で、前田を檻から引っ張り出す。左目に刺さったままの痛々しいフォークはそのままにした。
「前田さん、大変申し訳ないことをした」
柿澤を帰した後に青根は謝った。
前田は血塗れのまま呻いていた。
「おい、タオル何枚か持ってきてくれ」
青根は上着内ポケットに仕込んでいたドスを取り出した。置かれたテーブルの上に左手を置く。小指の第一関節にドスをあてがい指詰めに集中した。
ハンマーのようなもので叩き落とす道具が欲しいところだが、あいにく指詰めなどすると想定して準備などしてきてない。何か叩ける道具がないかと部屋を見渡したところ、これといって丁度いいものは何もない。
そのうちに窪川がタオルを持って戻ってきた。
「よし、窪川! ワシの指の介錯せい」
「え?」
「早せい!」
「兄貴の指を! そんなんできまへん!」
頼んでも無駄と知ると、あてがったドスに体重を乗せるように左小指に押し込んだ。集中し一撃で落とすことを意識していたが、痛みが強くて力の落とし所を動かしてしまった。なかなか落ちない指に激痛と苛立ちを感じる。
「アホンダラ! 介錯もできひんのか!」
額から流れ出る汗。手こずっても余計に痛いだけだと悟ると、改めてドスに向かって前屈みになるように体重を乗せた。
やっとの思いで落とした指を大事に拾う青根。
「前田さん、この指は佐々木さんにお渡しするが、前田さんに対するお詫びやから」
傷口は心臓の鼓動とともにズキンズキンと傷んだ。
その指詰めは必要なことだった。三島組長に佐々木がとりなすことなくこの件が知れれば、抗争になるのは目に見えている。実際には手出しはしないとする約束を破ったのだ。
タオルで巻く前に傷ついた左小指の切り口を見ると、血まみれではあるが切り口から骨が飛び出しているのが見える。
自由になる右手で携帯から電話をした。
窪川は青根の左手にタオルを巻いて抑えた。
――はい、こちら外屋外科。
「もしもし、あの外屋先生に代わってください。青根言います」
間もなくして外屋直樹が電話に出た。
――はい。外屋です。
「外屋先生、すんまへんが指詰めしまして」
――え? またか!
「そちらにこれからお伺いしてもええでしょうか?」
「今回、指詰めたの自分ですねん」
――駄目だと言っても来るんだろ。
「はい、すんません」
青根が言い終わると電話は切れた。
青根は前田の方を向いた。
前田は何も喋らないまま、息だけ荒くしている。そんな前田を倉庫を出て、セルシオの後部座席に乗せると、青根も隣に座った。窪川の運転で病院に向かう。眼科もある総合病院の近くで前田を降ろす。
青根は車中、先日に立ち会った外屋外科での手術を思い出した。麻酔をして骨をリュウエルで削る。縫合し石膏で固定して包帯を巻く。麻酔が効きにくいのか、連れて行った組員は痛がっていた。青根はブルっと身震いした。