第一章 悪道
一 狂い始めた夏 一九九七年六月 渋谷
貧乏は、御免だ! ヤクザになる! 他に道はない!
滝里香介は二十四歳にして、そう決めた。学歴といえば中卒、逆立ちしたっていい仕事なんてない。だから今日、ヤクザの世界に入門すべく広域暴力団、竜栄会系二次団体三島組組長、三島鉄矢と待ち合わせにした喫茶店《憩》への道をオンボロの原付スクーターで急いでいた。
極道への道は、親友の前田功太郎の紹介とはいえ、簡単に選択できた道ではない。並々ならぬ決意あってのことだ。
にも拘わらず寝坊、待ち合わせの十時まで二十分もない。走らせるスクーターのアクセルを握る手に力が入る。
渋谷駅前の通りを走っていると、隠れるかのように道路脇に立っていた警察官が、道を塞ぐように前に立つと声を掛けてきた。
「運転手さん、止まって! 今、何で呼ばれたか分かりますか?」
「隠れやがって! スケベ野郎っ!」
反射的に滝里は怒鳴りつけた。
「運転手さん、一時停止、止まってなかったよ。免許証、見せて」
嬉しそうな警察官の気持ち悪い笑顔。
――クソ野郎!――
粘りつくような笑顔が、ムカつきを掻き立てる。
いつもなら、多少なりともごねてみせるのだが、時間がない。
「国に寄付してやるから、早くしてくれ」
滝里は免許証を手早く出した。
これからヤクザになろうというのに警察官に、一時停止で捕まるとは縁起でもない。
違反切符の処理をもたもたする警察官を見ながら思った。
とにもかくにも違反を認め、処理を済ませると急いでバイクに跨り、アクセルをすぐさま全開にした。
――遅刻確定――
組長の三島とは、初の顔合わせなのに最悪だ。
喫茶《憩》に到着すると、店の横に乗り捨てるようにスクーターのサイド・スタンドを立てた。
「香ちゃん、遅いで! オヤジ、奥の席で待っとるから」
《憩》の店の外で警護として立っていた赤紫色のダブルスーツを着た前田が近付いて急き立てる。滝里は前田の顔を見ると、緊張が少しだけ解れた。滝里と前田とは、小学校の時に大阪から前田が転校して来て以来の悪友だ。
「遅刻、悪かった」
バイクのミラーで、アップバングの髪型、スーツにワイシャツ、身嗜みをチェックしてから《憩》のドアを開け一人で中に入った。
◇
ドアを開けて店内を見渡す。店内は、壁も床も木目調のデザインが広がっている。木製のテーブルが八つ並べられ、木を基調とした空間は落ち着いた雰囲気。
奥に座った老人と目が合った。
体格は小柄で、背丈は座っていても分かるほどに小さい。百八十センチある滝里に比べて、二十センチは小さく見える。歳は六十代ほどだろうか、白髪の角刈りにグレーのスーツ。
目には、任侠を達観したかのような深みを感じさせる何かがある。一目で三島組組長、三島鉄矢だと分かった。
「遅れて申し訳ないです! 滝里香介と申すします!」
「まぁ、立ってないで座りな。好きなもん頼めや」
「本当にすみません、来る途中、変な奴に声かけられちゃいまして……」
「いいって、気にしなくていい」
注文を取りに来た中年の男の店員にアイス珈琲を頼む。膝に両手を当てて、前屈みになるようにして聞く姿勢を取った。
「任侠とは何か? 男を極めた道とは何かを、お前は分かるか?」
席に座るなり、三島は眉間に皺を寄せた厳しい顔で質問をしてきた。ヤクザ面接、いきなり難易度の高い質問をぶつけられて答えに窮した。
「……分かりません。組長の下で修業して、少しでも任侠が分かるようになりたいです」
滝里の返事に三島は頷いて見せた。
「堅気の方々が今日の自分たち極道を見る目は、蛇蝎のごとくだ。これではダメだ、まるで信頼がない。任侠とは本当に必要悪なのかとすら思えてくるよ」
言い終わると三島は淋しそうに笑った。、
会話の区切りを見計らうように先ほどの店員が近付いてアイス珈琲を、そっとテーブルに置いた。
「いいか、オレのことはオヤジと呼べ! と言っても本当のオヤジがいるのは分かってる。だから気持ち籠もらないなら形だけ言ってればいい。いつかお前が心から、オレをオヤジと呼べる時が来たら、気持ちを籠めたらいい。だけどよ、最初にオレのほうから覚悟が要るんだわ。いいか、今からオレはお前を守るために命を張る!」
「なっ! 自分のために、そこまで?」
「これでまた一人、オレが命を張る人間が増えたってことよ! 部屋住み、やれるか?」
「オヤジっ! よろしくお願いいたします!」
「よし! じゃあ、まず事務所に行く」
三島が会計を済ませると、二人で外に出た。
◇
滝里は三島の後ろをバイクを押して歩いた。三島の小柄な背中を見つめながら、人生が大きく変わり始めたと感じた。
「お疲れ様です!」
《憩》の外で待っていた前田がニグロアイパーの頭を下げて言った。
「事務所に戻る」
「わかりました」
前田は先導をするかのように足早に歩き出そうとする。
「前田! お前にも話がある!」
「はい! 何でっか?」
呼ばれた前田は先導して歩くのを止め、三島の横の車道側に並んで歩く。前田は立ち位置や歩く位置などを変えているかのような、不自然な歩き方をしている。それが何かは気にはなったが、わかりようもない。
「前田、同級生と聞いてるがお前が兄貴だ! しっかりやるんだぞ!」
「はい! わかりました」
「部屋住みからやる。仲良くやれよ」
「はい!」
前田と滝里、共に返事をした。
《憩》から五分も歩かないうちに、三島組の事務所がある場所に着く。田舎から移転してきたと聞く渋谷に構えたその事務所は、マンションの一室にあった。どことなく暗い雰囲気がする十階建てのマンション。駐輪場にバイクを停めると中に入った。
エレベーターに三島が先に乗る。エレベーターのボタン、八階を前田が押す。八階に着くと前田からエレベーターを出る。さっきからずっと前田の動きには、全て意味があるかのようにキビキビと動いていた。
八〇三号室の3LDK、そこが関東有数の喧嘩で知られる名門、三島組の事務所だった。前田がドアホンを鳴らすと、しばらくしてドアが開いた。
「ご苦労様です!」
ドアを開けた白髪の坊主頭の男は、三島に向かって挨拶をする。その男は黒のダブルスーツに黒いシャツと見るからにヤクザもんではあったが、三島より更に歳上で七十代後半位ではないかと思われる高齢者であった。
「幡永さん、この若者を仕込んでください。今日からここに住みます」
三島は事務所の灰色した古めかしいソファーに座ると、その高齢なヤクザに向かって言った。
「わかりました」
頭を少し下げて返事をする幡永。
「滝里、お前は幡永さんのことは叔父貴と呼ぶように」
「はい! よろしくお願い致します! 幡永の叔父貴!」
「着替えやら歯ブラシやらは持ってきてるのか?」
そう聞く幡永。
「持ってきてます」
「私は帰りますから、後は幡永さん頼みましたぞ」
「はい。お疲れ様です」
幡永の返事を聞くと、三島はソファーから立ち上がり事務所を後にした。お付きとして前田も出ていく。
前田がいなくなると心細くなった。
幡永の叔父貴と二人になると聞いてきた。
「一度だけ聞くけどさ、何でヤクザなるの?」
入門の入り口の最初だけ人として扱い、人として話ができるような空気感を努めて作るかのよう。幡永は、優しく穏やかに見える。
「ヤクザなんかやらない方がいいのに」
想定外の質問に、しばし流れる沈黙。
ヤクザなんかやらない方がいいのに、そのたった一言の幡永の言葉がズシリと響く。
ヤクザ面接でそれを言われるとは、答えを用意してこなかった。
罪も罰も、あらゆる苦しみを受け入れる覚悟はお前にあるのか?そう聞かれてるかのようで、簡単な答えは許されないと感じる。
「やるしかなかったです。負け組のままでいたくないです」
ゆっくりと答え、幡永の目を見た。
それは一つの答えであっても本当の答えではない、その答えは今しか見ることができない若者の答えなのだと、老齢の幡永の目が語っているかのように見える。
だが答えとしては正解の方だったのか、幡永の目に少しだけ納得したような光を感じた。
「わかった。もう聞かない。頑張れよ」
そう言うと幡永は、先程とは打って変わって声に厳しさが宿った。
「まずは、晩飯だな。料理はできるのか?」
「ほんの少しだけならできます」
「ほんの少しってどんだけだよ」
笑う幡永。
「まあいい、わかった。まず最初に味噌汁を作れ。冷蔵庫の物は何を使ってもいいから」
冷蔵庫を開ける幡永。
「ここの冷蔵庫、あまり入ってないんだよな」
幡永の口からなにやら愚痴が出た。
二人して冷蔵庫の中身を覗いてみる。辛子明太子、味噌、調味料、他、おかずになるものは何も入ってない。
幡永が率先して料理する。鍋に水を入れる。
「今ここに住んでるのはオレとお前だけだから、こんぐらいでいい」
「味噌はたっぷり使えよ」
お玉と箸を使って、味噌を溶かす幡永。
お玉を握る幡永の左手の小指は欠損している。小指だけでなく中指の第一関節も欠損していて、中指の方は骨が飛び出していた。小指の欠損はわかる。だが薬指ではなく中指の第一関節の欠損は順番的に整合性がなく、一体どんな経緯で中指が選ばれて指詰めに至ったのか知るよしもなく聞くのも憚られた。味噌汁をマンションの一室で、ただ作る風景。たったそれだけにも自身がおかれた環境が、ヤクザの世界であるということを実感した。
「ご飯をよそげと言われたら、だいたいこんぐらいよそげばいいから」
ご飯をよそぐ量もインプットしてくる幡永。
出来上がったご飯をテーブルに並べた。白米、辛子明太子、味噌汁、他何もない。
「いただきます!」
作法と思ったから言われるまでもなく言った。目上の者が箸をつけるまで待つ。それくらいは知っていたのでそうする。幡永が、ご飯に向かって手を合わせると、箸を取り食べ始めた。
それにしても質素な食事というよりかは、明らかに健康な人間には足りない量だ。おかずらしきものが辛子明太子だけ。辛子明太子に関しては、入っていた箱からして立派な高級品であると思われて味に期待ができた。ご飯と一緒に一口食べてみる。
美味い。美味すぎる。これほどまでに美味い辛子明太子を食べたことがなかった。一本物で、色艶からして上品。コク、キレのある辛味、風味、弾力、特に噛んだ時に一粒一粒が奥深い旨味を強く主張してくる。今まで食べてきた辛子明太子とは何だったのか、まるで別物と感じた。
「この辛子明太子、美味いです」
「美味いよな、それ。博多の兄弟からの贈り物らしい」
「だけどオレは食べ飽きたよ」
幡永は笑ってみせた。
「ご飯おかわりはするならしとけよ」
「はいっ! いただきます」
席を立ち炊飯器に向かおうとする。
「オレのもご飯よそいでくれ」
幡永の茶碗を受けとり炊飯器に向かう。さっき言われた量を茶碗によそって運ぶ。
「ご馳走様でした」
食べ終わると滝里だけそう言った。幡永は手を合わすのみ。おかわりも含め二人とも食事に五分もかからない。
それにしても何故、冷蔵庫の中にこんなにも何も入っていないのだろう。わざと飢えさせて、攻撃性を高める特殊部隊の訓練があることを思い出した。
「食ったら片付け。洗い物して掃除機かけて布団をしけ」
「掃除機はそこ、布団はそこにある」
幡永は応接間のソファーに腰掛けてタバコを手に取った。
「タバコの火の付け方は、絶対片手でやるなよ。両手でこうやって反対側の手を沿えるんだ」
幡永は実際にライターを持ち、手の形をやって見せた。
「はい、わかりました」
言われた通りの所作で火をつける。
「オレがタバコを買ってこいと言ったらこの銘柄だからな」
キャビンマイルドの箱を手にして見せられた。さっきから自身に一つずつ詰め込まれていく感覚を感じる。幡永の好みのタバコの銘柄をインプットした。少しずつ新入りの使い勝手をよくするかのような、まるでロボットへのプログラミングのようだ。
洗い物を終え、掃除機をかけると布団を敷く。
幡永は着ていたダークスーツを脱ぐと、スーツの掛け方をインプットしてきた。
「こうやってズボンの折り目で畳んで、ハンガーにかける」
まずは幡永が自分でやってみせた。普通なら誰でも知ってることかも知れない。しかし平仮名が書けない無教養なレベルの者までも、ごく稀にだが入ってくる世界なのだと幡永は言う。
下着だけになった幡永の全身には、白虎の立派な刺青がなされていた。
「タバコ吸うなら、ソファーで一服してこい。オレは先に寝るから」
「はい!」
幡永は布団に入るとすぐに寝た。
滝里は応接間のソファーに座り、ラッキーストライクのタバコに火をつける。タバコを吸うと、ようやく少し落ち着いて事務所内を見ることができた。三島組と書かれた提灯の数々が壁上に掲げられている。ほとんど何も書かれてないホワイトボード。書かれてあるのは日付に当番とだけマーカーで書かれてある。当番と書かれたその日には、事務所当番が他にも誰か来るのかとぐらいにしかわからなかった。
今日の出来事を振り返る。
滝里は今日、赤の他人である三島をオヤジと呼んだことに傷ついていた。
はい! オヤジ! 気合いを乗せて言ってはみたが、他人をオヤジと呼ぶことに実のオヤジへの罪意識を感じた。この世界に入るためには絶対に必要なことである以上、仕方がない。ラーメン屋のオヤジをオヤジと呼ぶように、そういった類いのものだと思うことにした。
タバコの火を消すと滝里も布団に入る。部屋住み初日は緊張して眠れないかも知れないと思ったが案外すぐに眠った。
起床 午前七時。早くも目覚ましが鳴り三島組の事務所の一日が始まった。
滝里は朝がとても弱かったが、そんなことは言ってもいられない。緊張感無しではいられない、喧嘩の三島と呼ばれる組事務所に部屋住みとしているのだ。ダレたことをしていては焼を入れられかねない、そんな不安が過る。
眠気を気合いで打ち消すと、言われるまでもなく幡永と自分の布団を畳み、幡永のタバコに火を点け、朝飯の支度にかかった。
朝飯は夕べと全く同じ献立。すぐに食べ終え洗い物を終える。使った食器も少ないから洗い物も早い。
「よし、じゃあ電話の取り方を教える」
幡永は電話台の前に立った。
「かかってきたら2コール以内で取れ!」
「取るのが遅いと、眠たいとこだと思われるからな!」
「そして電話を取ったら、はい! 三島組っ! と声にドスを効かせろ」
「三島組と構えたら面倒なことになると、この時に第一声で思わせろ!」
「それから横にあるメモ、あれは使うな。何かあると全部、警察が持ってくから」
「どうしてもメモを取りたい時は薄く書け。書いたら一枚破って覚えたらすぐにメモを捨てろ」
「下に写った字も警察は本当にチェックしてるからな」
「だからメモはなるべくするな」
「はい! わかりました」
メモがほぼ許されないと言われて僅かに動揺した。物忘れが凄いのだ。大事な用件を忘れて焼きを入れられないか不安になる。
「よし! 次は三島組長がいる時の歩き方だ!」
「歩きながら教えるから出掛けるぞ」
「はい!」
「いいか、まずドアがある時は先に立って自分が開けろ」
「はい!」
返事をして滝里は事務所のドアを開けた。
「歩く時は前を歩け」
「はい!」
マンション廊下をエレベーターに向かって歩く。
「エレベーター乗る時は、エレベーターが開くまでは自分が前に立つ」
幡永のヤクザOJTは続く。
「開いたら中を確認し三島組長が乗ったら、後から入りまたエレベーターの前に立つ」
「なんでかっていうと、開いた瞬間に撃たれる可能性があるから、自分が盾になり撃たれるんだ」
「は、はいっ……! 叔父貴!」
撃たれろと言われようが、はい! の他に返事のしようもないヤクザの世界。
「エレベーターが開いたら自分が先に出て、また先を歩く」
「はい!」
マンションを出た。晴れている。いい天気だ。
「外に出たら歩き方が二つあって、まずこういう車道があるところはガードレール側を自分が横に沿って歩く」
「車に乗って撃ってくるから自分が撃たれるんだ」
「わかりました!」
どんどん歩く幡永と滝里。やがて商店街の雑踏に入りだした。
「こういう場所は五〇メートル位まで先を行って歩け!」
「先を歩いて、おかしな奴がいないか注意を払え!」
「離れすぎて見失わないよう時折、距離を詰めろ!」
「ここでも何かあったら自分が撃たれろ!」
「はいっ! 叔父貴!」
だんだんとわかってきた。とにかく大切なことは、真っ先に自分が撃たれるということだ。それが一番の肝。喧嘩で名前が通った三島組だけに、部屋住みへの教育は一際違っていた。
幡永はそろそろ事務所に戻ると言う。帰り道、言われた通りに前を歩いたりガードレール側に回って歩く。意外に忙しい。前田がキビキビ動いてたのは、 このことだったと今にしてわかった。
事務所に戻ると昼飯の支度となる。ご飯、辛子明太子、味噌汁、特殊部隊の訓練は続く。攻撃性を上げるための粗末な食事、仁義なき同じ飯は続いた。それにしても美味すぎる辛子明太子。
撃たれろ! そういった教育に、粗食の特殊部隊訓練が、ヤクザ者としての根性が鍛えられてきている気がした。
しかし何故、冷蔵庫の中の物を買い出しに行かないのだろうか?
昨日の夜、今日の朝、そして昼、全て同じメニューの食事が続いている。
もしかしてこの組には、金がないのかという疑念がわいてきた。金がない組に一身を捧げる不安が微かに過る。
されど、ふとして見た幡永の財布は見たところブ厚い。厚みからして百万は入っていそうなほど膨れ上がっていた。何故だ? 何故、幡永の叔父貴は、食品の買い出しをしないのか?
同じ食事が続いたからと言って文句など言える立場ではない。食わせてもらえるだけでも恩に命をかける立場なのだ。
粗食は本当に特殊部隊ばりの訓練なのか? このことに答えは、今は出ない。滝里は考えるのをやめた。
昼飯が五分で終わり洗い物をしているとドアホンが鳴った。洗い物をしている滝里の代わりに、幡永がドアを開けると二人の男たちが入ってくる。
一人は前田だった。もう一人は、どうやら前田の弟分らしいが年上に見える。二十四歳の前田に対して三十歳くらいはありそうだ。
「叔父貴、お疲れ様です!」
二人は幡永へまず挨拶をした。
「おう」
軽く返事をする幡永。
「香ちゃん、頑張っとるね」
前田は笑顔で言った。
「こいつは、鉢平、パピって呼んどる」
「鉢平です。よろしく!」
パピと紹介された男は、短髪のソフトモヒカンに小太りな体型で、黒い上下のジャージを着ている。
よろしく! 鉢平、別名パピのその言い方にどことなく自分が兄貴なんだという、ナメられまいとするものを感じとった。複雑な人間関係の匂いがする。前田と滝里は幼なじみで元々は上下などない。しかして、前田にしてみればパピは弟分だが、パピからすると滝里は弟分だ。
「滝里って言います。よろしくお願いします」
「よし、オレは出掛ける」
幡永は、玄関へと向かった。
「滝里、お前はついてこなくていい。前田とも話がしたいだろ」
玄関のドア前で、振り返り話す幡永。
「電話、転送にして出掛けてもいいぞ。今日は遅く帰るから晩飯の支度もいらないから」
「お疲れ様でした!」
三人は玄関から出ていく幡永の背中に挨拶をした。
「香ちゃん、どう?」
少しして前田が聞いた。
「どうって?」
前田の兄貴にはついタメ口になってしまう。
「部屋住み大変なんちゃう?」
「ああ、今のところは平気」
「これから後で、天内ん家へ遊びに行こうや」
「天内とは、オレはしばらく会ってないな。久しぶりになるかな」
天内と呼ばれた男も前田と滝里の小学校以来からの悪友だった。
滝里、前田、天内、三人揃って中卒の三馬鹿トリオと呼ばれた。バブル経済の崩壊により、経済的理由から学問をしなくなっただけで、三人共、馬鹿ではないような気がする。それどころか天内に至っては、学生時代、誰よりも頭脳明晰に思えた。
前田と滝里の会話が続いている間中、パピの落ち着きがやたらないように見える。そのうちに着ている服のポケットというポケットをひっくり返したり、黒いセカンドバックの中身を全て点検しだした。
「おい! どした? コラッ!」
前田の声がすぐにヤクザのそれとなる。
「ない! ないんです!」
「何がないんや?」
「ネタの袋です!」
「てんめー! 間抜けっ! あれ十グラムはあるやろ!」
怒鳴りつけると前田による顔面への鉄拳制裁が始まった。
「ぐわあ」
「どこやった?」
「わからないです!」
ネタという隠語は滝里にも覚醒剤だとわかった。十グラムの覚醒剤の落とし物。袋の中身がバレれば警察の捜査が、どれだけ厳しいものになるのだろうかと滝里の頭に過る。
前田は冷蔵庫と壁の隙間に立て掛けてあった木刀を手にすると、鉄拳制裁は木刀制裁へと変わった。
「あ痛っ!」
倒れこむと手と足で頭をガードするパピ。ガードした手足に容赦なく木刀を打つ前田。
「ぐっ! すみませんっ!」
滝里はいきなり始まった凄惨なリンチに驚いた。ガードするパピの両手の指は、欠損がかなりあることにも気付いた。
「オラッ! アホがっ!」
「ギャっ!」
木刀の制裁は尚も続く。
「兄貴っ! 思い出した!」
「さっきの喫茶店に! 《憩》に忘れた!」
「ボケがっ! 走って取ってこい!」
「はいっ! 急ぎます」
大慌てでパピは走り出して事務所を出ていった。
トゥルルル。トゥルルル。三分ほどして前田の携帯電話が鳴る。
――ありましたっ! ありましたっ! 兄貴!
パピのデカい声は前田が持つ携帯から離れてる滝里にも聞こえた。
前田はそれを聞き少し安堵したようだ。
「自分は戻って留守番してろや! オレらは出掛けるさかい」
前田は電話を切った。
「さっきの制裁、あれいつもやってんの?」
「ん? パピか。あいつホンマにドンクサイねん」
「そうなんだ……」
木刀による制裁をいつか自分が、やられるかも知れないと不安になった。
「香ちゃん、天内んとこ遊びに行くで!」




