勇者のキスと私の覚醒
夜更けの宿。静まり返った廊下に、勇者ダンの低く甘い声が静かな廊下に響いた。
「今日は君の日だね」
その言葉が、薄闇に慣れた私の鼓膜を震わせる。彼の温かい手が私の手を包み、私は吸い寄せられるように彼の部屋へと足を踏み入れた。
部屋の扉が静かに閉まり、柔らかな灯りが私たちを包む。ダンは私を優しく引き寄せ、その唇が私のものに触れた。
彼のキスはいつも表層的な熱を帯び、私の体は反射的に彼の腕の中で温かくなる。しかし、その熱は、なぜか魂を揺さぶるような熱は、そこにはもうなかった。
彼の抱擁も、触れる仕草も、そして耳元で囁く声も、かつては、「私だけに注がれる特別な愛情」だった。
しかし今は、彼にとってルーティンの一部であるかのように、淀みなく滑らかで、寸分の迷いもない。そこにあるのは、ひたすら自己満足であり、私の感情の機微を慮る気配など、どこにも見当たらなかった。
彼が私の手を握ったときに、ふと、部屋の壁を見た。部屋の灯りによって映し出された二つの重なった影が、揺れている。
こんなにも冷静な自分が今いる。昔は、彼だけを見ていたのに……。
ダンが私の髪を撫でる。その動作が、ほんの一瞬、先日、冒険の休憩中に、彼がキャロルと親し気に話しながら、彼女の髪を撫でる仕草と寸分たがわず重なって見えた。
彼の口から甘い言葉が漏れる。以前、ライラにも向けられていたものと全く同じ響きだ。
彼の荒い息遣いが、私の首元に触れた瞬間、私はハッと気づく。
――私はずっと「良い子」であろうとしてきた。幼い頃から、自分の意見を主張すれば嫌われる、わがままを言えば見捨てられる、そう信じ込んでいたのだ。
だから、自分さえ我慢すれば、このパーティーに波風立てずに丸く収まる。そうして、無意識のうちに自分を犠牲にしてきた。ダンの隣にいることが、唯一私に与えられた居場所のように思えた。
「彼がいてこその私」
そう信じ込むことで、自己肯定感の低さを補おうとした。彼が他の女性と関係を持つことに対しても、最初は「彼ほどの特別な存在なら当然のこと」「私には彼を繋ぎ止める力がない」と無理に自分を納得させてきた。
それは、彼を失うことへの根源的な恐れと、自分自身への不信感からくるものだった。
彼の瞳の奥には、常に誰かからの称賛や愛情を求めるような、漠然とした飢えが宿っているようだった。満たされることのない渇望が、彼を常に「与える側」に押し上げている。まるで、そうすることでしか、彼は自分自身の存在価値を感じられないかのように。
その瞬間、ダンがふと、私の耳元で囁いた。
「君は本当に、いつだって僕を安心させてくれるね。一番最初に僕を信じてくれた君だから、どんな時も変わらず、僕のそばにいてくれると信じているよ」
その言葉を聞いた瞬間、私の熱を帯びていた肌から、まるで氷の冷たさが染み渡るように、感情の熱が急速に引いていくのを感じた。
彼の吐息が、つい数秒前まで情熱的だったはずなのに、今はただの空気に感じられる。肌が粟立ち、心臓の鼓動がゆっくりと、しかし確実に冷えていった。
私の脳裏に、これまで無理に納得させてきた「私だけが特別ではない」という冷酷で、しかし紛れもない真実が突きつけられる。
そして、この「君は変わらず僕のそばにいてくれる」という言葉が、彼が私の献身を当然のものとし、私の感情や自己犠牲の上に成り立っていた関係性を明確に示していた。
私は、彼の無自覚な何気なさと、その言葉の無責任さによって、自分が彼にとって数多の女性の一人に過ぎず、都合の良い存在として見られていたことを、紛れもない現実として悟った。
そして、今まで彼を失うことを恐れて抑え込んでいた、自分自身の「尊厳」が、凍てついた水面下からゆっくりと、しかしはっきりとした存在感を伴って浮上してくるのを感じる。
それは、過去の自分が無理やり押し込めてきた「私」自身が、ようやく息を吹き返す感覚だった。
◆◆◆◆
情事が終わり、ダンは満足げに私の頬にキスをして、他愛ない言葉をかける。
「おやすみ」「また明日」──その言葉に、私は微塵も反応しない。その言葉は私にとって、もはや何の感情も伴わない空虚な音の羅列だ。
私は彼の目を見ることなく、ただ静かに身を起こし、ベッドサイドに置いてあった自分の衣服に手を伸ばす。
まるで彼が部屋に存在しないかのように、無駄な動きを一切せずに。
ダンが訝しげに私を見つめるが、私は何も言わない。その沈黙は、雄弁な拒絶だった。まるで彼の存在自体が、もはや取るに足らないものになったかのように、無言で身支度を始める。私の動きは淀みなく、迷いは全くない。
そこに存在するのは、これまでになかった私自身の確固たる「意思」だった。
ダンは何かを言おうとするが、雑音はこの部屋から生まれない。私の研ぎ澄まされた沈黙と、その表情から読み取れる圧倒的な拒絶のオーラに怯えたのかもしれない。
彼の自己中心的な博愛主義は、私の内側に生まれた冷徹な決意の前では、何の意味もなさなかった。
私は何も言わず、ただ静かに部屋の扉を開ける。外の廊下からは、まだ夜の静けさが漂っていた。私は振り返ることなく、一歩、また一歩と、勇者の部屋から離れていく。
その背中は、これまで抱えていた諦めや我慢から解放され、まさに生まれ変わったかのように、確固たる意志に満ちている。
ふと、閉まりきっていなかった扉の隙間から、部屋の中の微かな物音が聞こえた気がした。それは、何かを探すような、あるいは誰かを呼ぶような、戸惑いにも似た、しかしすぐに掻き消えたような、か細い音だった。
私は振り返らなかったが、その音は、まるで彼の揺るぎない博愛という利己的な仮面の下に、一瞬だけ覗いたひび割れのように感じられた。
私の心には、「別れ」という言葉は必要ない。ただ、「もう、この関係は終わりだ」という明瞭な理解と、自分自身の価値を再認識したことによる、静かで、しかし確かな高揚感だけがあった。
窓の外に目をやる。夜空には星が瞬き、新しい夜明けを予感させるように、東の空がわずかに白み始めていた。それは、私自身の新しい夜明けを告げる光だ。
私は、過去の自分と、ダンに依存していた自分に別れを告げ、これからは自分の足で、自分の意志で歩むことを心に強く決意する。
宿の廊下に足音が響く。その音階は、寂しさや後悔ではなく、清々しいほどの決意と、未来への静かな希望が満ちあふれていた。(完)
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