「ありがとう」「ただいま」「だいすき」
あれから、しばらくの季節が過ぎた。
美咲が旅立ってからも、日々は淡々と流れ、春はまた訪れた。
彼女が住んでいた家は、今は曾孫の家族が住んでいる。
縁側には鉢植えの小さな花。
部屋の窓からは、柔らかな光が差し込む。
その部屋の片隅には、古びたリュックが置かれている。
色あせてはいるけれど、大切に扱われていたそのリュックには、タグがついていた。
「お兄ちゃんと行った映画の日、買ってくれたリュック」――
そう、彼女が一度も手放さなかったものだ。
その横に、一冊のノートがある。
“美咲のノート”と、家族は呼んでいた。
中には、誰かのために書かれた手紙が並んでいる。
まだ幼かった孫たちへの言葉、嫁いできた人への感謝、そして――兄への、何通もの手紙。
ページの最後に、こう綴られていた。
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「お兄ちゃんへ」
もう一度、あなたに会えるなら、何を話そう。
伝えたい言葉は山ほどあるけれど、
やっぱり最後は、こう言いたい。
「ありがとう」「ただいま」「だいすき」――
そして、「また、会おうね」。
待っててね。
私、ちゃんとそっちに行くから。
笑って会えるように、こっちでも頑張る。
私の人生を、見守ってくれてありがとう。
美咲より。
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リビングに飾られた家族写真の中、白髪混じりの美咲は、やさしく微笑んでいる。
その写真を見ながら、曾孫の少女がつぶやいた。
「お母さん、夢にね、誰か出てきたの。
すごくやさしくて、“ちゃんと歩いてて偉いな”って、頭撫でてくれた」
母親が微笑んで答えた。
「きっと、それはね――“お兄ちゃん”だよ」
少女は、首をかしげた。
「ひいおばあちゃんの?」
「うん。美咲さんが、世界で一番大切にしてた人」
春の風が、ふたりの間を通り抜けた。
庭の花がそっと揺れる。
そしてその風は、どこか遠い空へと昇っていく。
そこにはきっと、もう一度巡り会えたふたりの姿がある。
何も言わずとも、心が通い合う、春の午後。
風に乗って届く「おかえり」と「ただいま」が、今日も世界をやさしく包んでいた。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
美咲が歩んできた道のりは、喪失という深い痛みから始まりました。
理不尽な現実の中で、彼女は何度も立ち止まり、崩れそうになりながらも、
それでも、前へ進もうとしました。
たったひとつの願い――「生きてほしい」という、兄の言葉を胸に抱いて。
人は、大切な人を失っても、
その人が遺してくれた想いとともに、生きていける。
時間が癒してくれるのではなく、
想い出がそっと寄り添ってくれるのだと思います。
誰かの「ただいま」を待つ心。
誰かに「おかえり」と言える日々。
それは、きっと世界のどこよりもやさしくて、尊い奇跡です。
この物語が、あなたの心の奥に、静かに灯る小さな光となれていたなら――
言葉では言い尽くせないほどの感謝を、ここに込めて贈ります。
どうか、あなたの明日が、あたたかな優しさに包まれていますように。
また、どこかで。




