……おかえり、美咲
美咲がこの世を去ったのは、八十四の春だった。
老いたその身体は、静かに、ひとひらの花びらのように息を引き取った。
最期の瞬間、彼女の枕元には息子が、孫が、そして曾孫がいた。
一人ひとりが彼女の手を握り、「ありがとう」を繰り返し、温もりのある涙を流していた。
窓の外には、春の風。
あの日と同じ、柔らかく花の匂いを孕んだ風が、部屋の白いカーテンをそっと揺らしていた。
そのとき、美咲は――まるでもう一度、“目を覚ます”ために――
瞳を閉じた。
世界は、静かに、そして美しく、反転していた。
視界が光に満ちる。音もなく、まるで遠い記憶に包まれるように。
風が頬を撫で、柔らかな陽光がまぶたの裏から肌を透かしていた。
やがて、美咲は目を開けた。
その場に立っていたのは、見渡すかぎりの花畑だった。
朝露の残る草花が風にそよぎ、空は高く澄み渡り、鳥が、遠く、水辺で羽ばたいている。
「……ここは……」
彼女は手を見た。
しわひとつない、若々しい指先。すらりと伸びた足。
視線を落とせば――そこには、高校生のころ着ていた制服のスカートが風に揺れていた。
「……え……?」
息をのむ間もなく、彼女は感じた。
胸の奥が、何か強く、懐かしいものに引き寄せられる。
視線の先に、ひとつの背中があった。
風の中、静かに佇むその姿。
ジーンズにジャケット、肩には斜めがけの鞄。
美咲がかつて何度も後ろを追いかけた、あの人――
「……お兄ちゃん……?」
つぶやくと、彼はゆっくりと振り返った。
変わらぬ笑顔。
変わらぬ瞳。
時間を超え、魂を貫く、あの日のままの優しさが、そこにあった。
「よぉ、美咲」
その声を聞いた瞬間、美咲は走り出していた。
もう止まらなかった。
涙が頬を伝い、世界がにじんでも――その胸に、どうしてもたどり着きたかった。
そして、ついにその腕の中に飛び込んだ。
「……お兄ちゃん……!」
彼の腕が、しっかりと彼女の背を抱きしめた。
あたたかい。あの頃とまったく変わらない力加減で、彼女を包んでくれた。
「……おかえり、美咲」
言葉が胸を震わせ、堰を切ったように涙があふれた。
「……もう一度、会いたかった……!」
「ずっと、見てたよ」
そう言って、彼は美咲の髪を撫でた。
手のひらが額を通り、そっと頭を撫でる――その仕草ひとつで、心の深層がほどけてゆく。
「お前が生きる姿を、全部見てた」
「……全部?」
「そう。泣いて、笑って、恋をして、家族を持って……
お前は、たくさんの人を愛して、たくさんの人に愛されてた」
美咲は涙をぬぐい、兄の目をまっすぐに見つめて言った。
「でもね、私……最後の最後まで、心のどこかにぽっかり穴が空いてた。
お兄ちゃんに、もう一度『ただいま』って言いたくて、生きてたのかもしれない」
「……言えたじゃないか、今」
兄は、微笑みながら再び美咲の頭を撫でた。
その手はやさしく、確かにあたたかくて、
彼女の何十年もの孤独を、静かに溶かしていった。
「……お兄ちゃん、ねえ、私の人生――どうだった?」
「……誇らしかったよ」
少し間を置いて、兄は、噛みしめるように続けた。
「どんなに苦しい時も、お前は前を向いてた。
それだけで、充分だよ。俺が願ってた通りに、生きてくれた」
「……ありがとう」
ふたりは、しばらく何も言わず、ただそばにいた。
春の風が吹いた。
花が揺れた。
そして、兄が手を差し出した。
「さあ、行こう。今度はもう、ずっと一緒だ」
「うん……!」
美咲は、その手を握った。
懐かしくて、あたたかくて、どこまでも信じられる手だった。
ふたりは、あの日のままの姿で、どこまでも続く花畑の中を、歩き出した。
涙は、もう必要なかった。
「……お兄ちゃん、ただいま」
「おかえり、美咲」
永遠に続く春の風の中で、
その言葉が、ふたりの歩んだ人生を、そっとやさしく包み込んでいた。
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