返してよ……私のたった一人のお兄ちゃんを……!
兄がこの世を去って、十五日が過ぎた。
窓の外では季節が確かに進んでいる。風が葉を揺らし、蝉の声は日に日に弱まり、夜風に混じる秋の気配が、肌を冷たく撫でる。
けれど、美咲の時間は、あの日から一歩も前へ進まなかった。
目覚まし時計はもう鳴らない。
いや、最初からそうだった。
目覚ましを鳴らしてくれていたのは――兄だったのだ。
「お前、遅刻すんぞー」
寝ぼけた声でカーテンを開け、笑って布団を引っぺがす兄の姿が、今も鮮明に脳裏に焼きついている。
けれどその姿は、もうどこにもいない。
制服に袖を通すたび、胃の奥が締めつけられるように痛む。
学校では、誰かが放った無邪気な笑い声に心がざわつき、教室という空間が異物のように感じた。
誰に何を言われても、心は凍ったままだった。
「少しずつ元気になろうね」
「きっとお兄さん、天国で見守ってくれてるよ」
そういった類の“やさしさ”は、まるで鈍い刃物だった。
決して鋭利ではない分、じわじわと、深く、確実に、美咲の心に傷を残していった。
だって、兄はもう――この世界にはいない。
あの優しい声も、あたたかな背中も、汗まみれで帰ってきてくれた夜の匂いも。
全部、もう二度と戻らない。
***
その夜、美咲はなんの意図もなく、兄の部屋に入った。
自分の足で歩いてきたはずなのに、気づけばここにいた。
テレビのリモコンに指をかけたのも、ほとんど反射だった。
それは、ただの習慣。
けれどどこかで、心のどこかで、何かを――何かを、きっとまだ、求めていた。
――通り魔事件の加害者に対し、本日午後、東京地裁は“心神喪失による責任能力なし”と認定。無期懲役の判決を言い渡しました――
その一文が、画面から放たれた瞬間、
美咲の心臓が、ほんとうに“止まった”ように感じた。
『妹をかばって兄が死亡』
『加害者は心神喪失状態』
『更生の可能性』
『数十年後、仮釈放もあり得る』
パチン。
リモコンが手から滑り落ちて、床を鳴らした。
その音が、どうしてか、棺の蓋を閉める音に重なって聞こえた。
(……え……なに……)
目の前の画面が、歪む。ぐにゃりと、形をなくす。
酸素が入ってこない。喉が潰れたみたいに、うまく息ができない。
「心神……喪失……? 責任……なし……?」
声がかすれて、空気に溶けていく。
指先が震え、膝から力が抜けて、床に崩れ落ちた。
「じゃあ……それで終わりなの……? たった、それだけで……?」
「それだけで、全部……終わりなの……!?」
喉が詰まり、言葉がうまく出てこない。
代わりに、体の奥から、なにか泥のようなものが込み上げてきて、美咲を噛み砕いた。
「お兄ちゃんは……もう、帰ってこないのに……!!」
机を叩いた拳から血が滲む。けれど、そんなこと、どうだってよかった。
「私の目の前で死んだのに……!」
「なんで……なんで、“そいつ”が……生きてるの……!?」
叫びたいのに、声が出ない。
口から出るのは嗚咽と、涙で濡れた空気だけ。
「“薬のせい”……“本当は悪い人じゃない”……? “更生の余地がある”……?
……そんな言葉で……すべてが帳消しになるの……!?」
「笑って生きていいってこと……?
何十年後には“更生しました”って……普通に生活していいって……!!?」
「――そんなのって……そんなのって……!」
もう、壊れてしまいたかった。
兄の写真を抱きしめて、机にしがみつく。
あの、いつも笑ってた優しい顔が、何より今は、残酷だった。
「朝、私が起きられないとき、布団を引っぺがして『遅刻すんぞー』って笑って……
お弁当作ったとき、口には出さないけど、いつも全部残さず食べてくれて……
駅まで送ってくれて、『行ってきます』って言ったら、いつも『行ってらっしゃい』って返してくれた……!!」
「自分の欲しいもの、我慢して……欲しかった服も、行きたかった旅行も、全部『美咲に使う』って……!!」
「風邪ひいたときは夜通し看病してくれたくせに、自分が熱出しても『平気』って笑って……
私が泣いたら、どんなときでも隣にいて、黙って肩を貸してくれて……」
「そんなお兄ちゃんこそ、本当に幸せになるべき人だったんだ……!」
「私のために、自分の夢も趣味も、全部投げ出して、いつだって自分を後回しにしてくれて……」
「楽させてあげたかったのに……楽にさせてあげるって約束したのに……!」
「なのに、どうして……どうしてこんなに報われないまま終わらなきゃいけないの……!?」
「どうして……私は、もう“ただいま”って言えないの……!?」
「“おかえり”って……たったそれだけの言葉で、幸せだったのに……!」
嗚咽が止まらない。
涙はとっくに枯れたはずなのに、どこから湧くのかわからないほど、次々とあふれてくる。
「お願いだよ……ねえ、神様……私、なにもいらないから……!」
「この命、全部持っていっていいから……だから、だから、お願いだから……!!」
「“ただいま”って、ドアを開けて帰ってきて……!」
「“泣くな”って、頭を撫でて……!」
「“また明日もがんばれ”って、笑って……!」
「返してよ……返してよぉ……私のたった一人のお兄ちゃんを……!!」
返事は、なかった。
静かすぎる夜の中、
兄の写真が、ただ静かに、優しく微笑んでいた。
その笑顔だけが、
何よりも――美咲の魂を壊した。
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