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昨日まで、ここにいたのに

葬式の日、空は呆れるほど晴れていた。

まるで何ひとつ、失われていないかのように。


雲ひとつない、無慈悲なほど澄み切った青。

陽光は焼きつけるように強く、蝉は、何も知らずに鳴いていた。

その声が、まるで嘲笑のように耳にこびりつく。


(……そんなに、明るくしないで)


喪服の袖を、指がぎゅっと握りしめる。

その黒布の中に、爪が食い込むような感触があった。


目の前に横たわる白い棺。

その中には、昨日まで笑っていた兄が眠っていた。


違う。

こんな終わり方じゃない。

こんな唐突な、こんな残酷な別れを、誰が許した。


「……本当に、ありがとう……」


誰かが泣きながらそう言っていた。

けれど、その言葉は美咲の耳には届かなかった。

人の声も、読経も、風の音さえも──すべてが遠かった。


まるで、自分だけがこの世界から切り離されているようだった。


兄の顔は、まるで眠っているようだった。

けれど、どれだけ見つめても──もうそのまぶたが開くことはなかった。

声をかけても、手を伸ばしても、その距離は決して埋まらなかった。


焼香の香が鼻を突く。

線香の煙が空へと昇るたび、美咲の胸の奥がひりついた。

祈りの声も、手を合わせる影も、まるで夢の中の出来事のようだった。


(私、今……どこにいるんだろう)


ふわふわとした浮遊感が、現実の感触を曖昧にしていく。

足は地に着いているはずなのに、どこにも踏みしめられた感覚がない。

地面が、空気が、すべてが不安定だった。


そして、葬儀は終わった。


火葬場の煙突から立ちのぼる白煙を見ているあいだ、美咲は一言も発さなかった。

兄が骨になって戻ってきたとき、彼女は顔を背けた。


見られなかった。


人ひとりの存在が、こんなにもあっけなく終わってしまうという事実に──

まだ心が追いついていなかった。


**


タクシーを降りたとき、目の前には見慣れた家があった。

「ただいま」と言えばよかった。

でも、喉がひどく乾いて、声が出なかった。


玄関の鍵を回す。

ドアが開く音だけが、いつもと同じだった。


中は、何も変わっていなかった。


兄の靴が、いつも通り揃えて置かれていた。

洗濯カゴの中には、洗い忘れた作業着がそのまま放り込まれていた。

テーブルの上には、飲みかけの麦茶。コップには、まだ水滴が残っていた。


(昨日まで……ここに、いたのに)


胸の奥が、軋んだ。


たった一日で、何もかもが変わってしまった。


「……嘘だよね……」


かすれた声が、唇から零れる。

誰も答えない。

当たり前だった「おかえり」が、二度と返ってこない。


カバンをそのまま落とすように置いて、ソファに沈む。

まるで空気が抜けた風船のように、体の重さを支えきれなかった。


(夢なら……)


願った。

朝起きたら、全部が嘘であってほしい。

お兄ちゃんが「寝言すごかったな」って笑いながら、麦茶を片手に台所に立っていてほしい。


でも、家の中は沈黙していた。

まるで、全員が息をひそめて、美咲を置いていった。


彼女は立ち上がる。

兄の部屋へ向かう。

そのドアノブに触れる手が、かすかに震えた。


カチャリ、と静かに開く音。


部屋の中は──昨日と、何一つ変わっていなかった。


放り投げられた黒いTシャツ。

乱れたままのベッド。

目覚まし時計が、何事もなかったように時を刻んでいた。


(ここに、昨日まで……)


美咲はベッドに腰を下ろす。

その瞬間、兄の匂いが、ふわりと鼻をかすめた。

懐かしい匂い。シャンプーと、少し汗と、安心の匂い。


「……お兄ちゃん……」


震える声が、唇から漏れる。

布団の中へ、そのまま体を滑り込ませる。

枕に顔をうずめて、深く息を吸った。

まだそこに残る温もりに、縋るように。


「……なんで、いないの……」


言葉にしなければ、涙は止まらなかった。


「明日も、一緒に朝ごはん食べたかった……

お弁当作る約束だって、またしたかった……

新しいリュックの話も、映画の続きも……

もっと、もっと話したいこと……あったのに……!」


布団の中で、声を殺して泣いた。

無数の思い出が、胸の奥に押し寄せる。

朝の食卓。コンビニ帰りの笑顔。

寝坊したときの苦笑いと、水筒を差し出す手。


全部が──もう戻ってこない。


「……戻ってきてよ……お願い……」


静寂。


ただ、時計の針の音だけが、部屋を切り裂いていた。


たった一人の、家族だった。


たった一人の、大切な人だった。


その人がいないという現実だけが、冷たい刃のように、美咲の心をじわじわと裂いていた。


そして彼女は、ようやく理解した。


(……あの毎日が、どれほど尊いものだったか……)


「行ってきます」と「おかえり」。

何気ない朝食と、他愛もない会話。

すべてが、かけがえのない宝物だった。


もう、それらすべてを抱きしめることはできない。

どれほど願っても──その腕の中には、もう何もないのだから。


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