表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

ずっと、そばにいてほしかっただけなのに

「お……兄ちゃん……?」


喉の奥で言葉が震えた。


目の前の光景は、どうしても現実として受け入れがたかった。

けれど、それは確かに目の前にあった。

兄の胸元から、真紅の血がじわじわと広がっていく。

あまりに鮮やかで、残酷で、抗いようのない現実だった。


「お兄ちゃん……お兄ちゃん!!」


美咲は駆け寄り、咄嗟にその体を抱きとめた。

兄の身体は思った以上に重く、そして、信じられないほど冷たくなりはじめていた。


その腕から抜けていく体温が、命が、時間が、すべてが美咲の手の中からこぼれ落ちていく。


「誰かっ……誰か助けて!! 救急車、早く……!」


周囲が騒然とし始めていた。

通報の声、駆け寄る足音、遠くからサイレンの音も微かに聞こえる。

けれど美咲の耳には、自分の声しか届いていなかった。


「しっかりして! お願い……ねえ、お兄ちゃん!!」


呼びかける声に応えるように、兄がほんのわずかに目を開いた。

その視線はぼんやりと霞んでいたが、不思議なほどまっすぐに美咲を捉えていた。


「……美咲……怪我は、ないか……?」


「うん……私は大丈夫! でも……お兄ちゃんが……!」


震える唇でそう叫ぶと、兄はかすかに笑った。

痛みをごまかすような、照れくさそうな、小さな笑みだった。


「そっか……それなら……よかった」


「よくないよ……よくなんかない……!」


美咲の頬を涙が伝う。

止めどなくあふれてくる。

今日、たった一日だけでいいから幸せでいたかった。

明日も、明後日も──

ふたりで笑って、日常を続けていけると思っていた。

信じていた。それだけだったのに。


「お願い……まだ言いたいこと、聞いてほしいことがいっぱいあるの……!」


美咲は兄の手をぎゅっと握りしめる。

その手は、もう冷え始めていた。

それでも、何かを引き留めるように、必死にあたためるように、握り続けた。


「ねえ……進路のこと、まだちゃんと相談してないよ……

バイトのことも、友達のことも、好きな人のことも……

これから全部、話すつもりだったのに……」


「……聞きたかったな……」


兄の声は、まるで夢の中のささやきのように遠かった。

まぶたが、静かに揺れている。

そのひとつひとつの動作が、終わりに近づいていることを告げていた。


「……でもな……美咲が……ちゃんと前を向いてくれたら……

それだけで……いいんだ……」


「やだ……やだよ、そんなの……

お兄ちゃんがいなきゃ……前なんて、どっちがどっちかもわかんないよ……!」


「大丈夫だ……お前なら、絶対に、大丈夫だから……」


その声には、確かな強さがあった。

命が燃え尽きようとしている中でも、兄は最後まで「守る人」だった。

自分の痛みよりも、妹の未来を信じようとしていた。


ふと、公園に風が吹いた。

夕暮れの光がかすんで、空が静かに、重たく、陰っていく。


「……覚えててな……」


「……なにを……?」


「どんなに……しんどい日でも……

お前が笑ってくれると……

それだけで……俺は……生きててよかったって……思えたんだ」


「……っ……」


「だから……生きろよ。

笑って……ちゃんと、生きてくれ……」


それが、兄の最後の言葉だった。


まぶたが、静かに降りていく。

その動作は、どこまでも穏やかで、そして、決定的だった。


握っていた手から、力が完全に抜け落ちる。

もう一度呼んでも、何度名前を叫んでも、返事は返ってこない。


「……お兄ちゃん……? お兄ちゃんっ!!」


声が枯れるほど呼んでも、その瞼は二度と開かなかった。


人だかりができ、誰かが警察官に説明している。

救急車のサイレンが、ようやく近づいてきている。


でも、美咲にはすべてが遠くに感じられた。

時間が、音が、色が、景色が、すべてぼやけていく。


兄の胸元の血だけが、今も静かに、広がっていく。


あたたかかった日常が、何もかも止まっていった。


時間も、未来も、そして希望も──


その冷たい事実だけが、確かなものとして、美咲の胸に深く刻み込まれた。


「……なんで……こんな、ことに……」


呟いたその声さえ、自分のものではないように思えた。


彼女の世界から、「お兄ちゃん」が消えたその瞬間。

それは、美咲という人間の一部が、取り返しのつかないほどに失われた瞬間だった。


感想、評価、ブックマークよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ