ずっと、こうしていられると思ってた
「お兄ちゃん、起きて! 朝ごはんできてるよー!」
まるで小鳥のさえずりのような声が、まだ薄暗い部屋に差し込んでくる朝の光とともに、眠りの淵にいる兄の意識を揺り起こした。
「んあ……早くね……?」
布団の中で声をくぐもらせながら、兄は枕に顔を埋めた。
それでも部屋の外からは、ぱたぱたと小さな足音。
浮き立つような、せわしない気配が確かに伝わってくる。
「早くないってば。今日はいっぱい回るんだから! もう7時半だよ!」
「ぐ……美咲、テンション高すぎだろ……」
「当たり前でしょ。お兄ちゃんと出かける日なんだから!」
その声には、まっすぐな喜びがあった。
子どものような無邪気さと、少しだけ大人びた響きと──
そのふたつが、美咲という存在の輪郭を鮮やかに映し出していた。
**
朝食の匂いが部屋中に満ちていた。
バターロールに目玉焼きとハム、そしてインスタントのポタージュ。
どれも特別なものではない。けれど、それは美咲なりに用意した「おもてなし」だった。
「……うまい。朝からこんな豪勢なの、久しぶりかも」
「いつもコンビニのパンで済ませてるくせに〜」
「……そっちの方が、手っ取り早いんだよ」
「ダメ! ちゃんと食べなきゃダメ!」
叱るような声。でも、どこか嬉しそうに。
兄は苦笑しながら、美咲の頭を軽く小突いた。
「……お前こそ、ちゃんと食ってるか?」
「うん。お兄ちゃんの前ではね」
「……バカ」
「ふふ」
支え合って生きてきた年月の重みが、その短いやり取りに滲んでいた。
言葉は少なくても、互いの想いは、もう言葉を越えて伝わるようになっていた。
**
午前中。ふたりは、ショッピングモールへと出かけた。
ガラス張りの天井から差し込む光が、白く床に反射していた。
店のディスプレイの前で、美咲が立ち止まる。
「このリュック……可愛い。でも、高いなあ……」
「それ、前も言ってたやつじゃね?」
「……うん。でも、バイト代で買うにはちょっときつくて……」
兄はリュックを見つめながら、ほんの少しだけ目を細めた。
そして、ぽつりと言った。
「よし、買ってやる」
「えっ、ちょ……いいよ!? 高いし!」
「お前が嬉しそうにしてると、それだけで俺も元気出るんだよ」
美咲は言葉を失った。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
──ほんとうに、この人は、いつもそうだ。
照れくささをごまかすように、美咲は唇を尖らせる。
「……ずるい。そう言われたら、断れないじゃん」
「そういう作戦なんだけどな」
ふたりの笑い声が、モールのざわめきに混じって溶けていった。
**
午後は、映画館。
スクリーンには、若い恋人たちの淡い葛藤と、別れと、再会が映し出されていた。
美咲は途中からずっと涙ぐんでいた。
そっと肩を寄せると、兄が何も言わずに支えてくれていた。
「……泣きすぎじゃね?」
「だって……感動したんだもん……」
「ティッシュ、あと三枚しかない。節約しろ」
「うぅ……」
兄のその言い方に、美咲はくすりと笑った。
あたたかくて、やさしくて、守られていると感じる時間。
それがどれだけ貴重で、壊れやすいものか──
このときの美咲は、まだ知らなかった。
**
夕方。
オレンジ色の空が、公園のベンチを照らしていた。
手に持ったソフトクリームが少しずつ溶けて、指先に冷たく触れた。
ふたりは並んで座り、まるで時間が止まったように、沈黙のなかで穏やかな夕暮れを眺めていた。
「……今日は、ほんとに、幸せだった」
「そりゃ良かった」
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「……ずっと、こうしてられるといいね」
兄は、わずかに目を伏せた。
「……ああ。そうだな」
その返事には、ほんの少しだけ、寂しさが混じっていたように思えた。
でも美咲は、それに気づかないふりをした。
──ずっと、こうしていられるはずだと思っていた。
だからこそ、今この瞬間を、信じたかった。
**
……だが、その時だった。
乾いた叫び声が、公園の奥から突然響いた。
「危ないっ!!」
刹那。
兄の手が、美咲の肩を押した。
その力強さに、反射的に美咲の身体は横に飛ばされる。
次の瞬間。
ぐらりと、兄の身体が傾いた。
胸のあたりが、濃く深い赤に染まっていた。
「お……兄ちゃん……?」
目の前の景色が、凍りついたように止まる。
人の声も、風の音も、すべてが遠ざかっていく。
兄の手が、美咲のほうへわずかに伸びかけた。
その先端から、一滴、また一滴と血がこぼれていく。
世界が、音を失った。
そして、すべてが、崩れ始めた。
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