ささやかな日常が、すべてだった
大切な人を失うということは、
心のどこかがぽっかりと空いてしまうようなことかもしれません。
このお話は、そんな喪失から始まります。
あたりまえのように続いていた日常。
「ただいま」と交わす、何気ないやりとり。
それが突然なくなってしまったとき――
人は、どうやって前を向いていけるのでしょうか。
主人公の美咲は、深い悲しみの中で迷いながらも、
少しずつ、自分なりの「生きる理由」を見つけていきます。
この物語は、失ったものとともに歩きながら、
それでも、やさしい何かにたどり着こうとする旅路です。
読んでくださるあなたの心にも、
そっと寄り添えるような一篇になれたら、とても幸せです。
「……ただいま」
その声は、玄関のドアが軋んだ音と共に、室内へ静かに染み込んできた。
まるで、日が落ちて暗くなった部屋に灯る、唯一の明かりのように。
台所では、美咲が夕飯の準備をしていた。
鍋の中で、ルーがことことと煮立つ音。木べらでゆっくりと回す手を止めずに、彼女は振り返らずに言葉を返した。
「おかえり、お兄ちゃん。今日はずいぶん遅かったね」
「……ああ。現場でちょっと、トラブルがあってな。昼もろくに取れなくて……もう腹、ぺっこぺこだ」
ふぅ、と浅く息を吐く声と、玄関で靴を脱ぐ音。
そのあと、床板が軋むたびに、近づいてくる兄の気配が微かに部屋の空気を揺らす。
振り向いた美咲の目に映った兄の姿は、今日も変わらなかった。
顔の隅に薄く残る埃の跡。くたびれた作業着。
でも、その顔には──小さく、穏やかな微笑みがあった。
「……ほら、お風呂入ってきて。汗くさいよ」
「おう、言い方……もうちょい優しくな?」
「実際そうでしょ?」
「……反論は……できんな」
小さな笑いが、ふたりの間に生まれる。
他愛のないやり取り。それだけで、美咲の胸の奥に積もっていた疲れが、すっとほどけていくようだった。
兄の「ただいま」。
その声だけで、自分はまだ生きていける気がした。
両親が亡くなってから、もう十年が経っていた。
物心ついたころから、ずっと隣にいたのは、この人だけだった。
家族でいてくれて、兄でいてくれて、親代わりでもあって──
でもきっと、それ以上に、自分のすべてを守ってくれる「居場所」だった。
誰よりも無理をして、笑って。
誰よりも、自分の弱さを隠して、背中を見せてくれる人。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「……いつも、ありがとう」
一瞬、兄の手が止まった気がした。
でもすぐに、ふっと柔らかい声が返ってくる。
「急にどうした?」
「……ううん。なんでもないよ」
「そっか。……じゃあ、風呂いってくるな」
その背中が浴室のほうへと消えていく。
扉が閉まる音を聞きながら、美咲は鍋の火を止めた。
こくん、と小さく喉を鳴らし、胸の内で静かに呟いた。
(いつか、ちゃんと恩返しがしたい)
**
食卓に並ぶ、熱々のカレーと冷えた麦茶。
何度見ても地味なメニューなのに、兄は目を輝かせて言う。
「うわ……美咲のカレー、神だわ。三杯いくかも」
「ちょっと、ほんとに三杯目!? 食べすぎでしょ」
「いやもう、俺、昼メシ抜いてんの。これなかったら倒れてた。……マジで、職場にもこれ出してほしいくらい」
「じゃあ、今度タッパーに詰めてあげようか?」
「マジか? それ、俺の人生にとってご褒美すぎる」
ふたりの言葉が交わされるたび、食卓の上に笑顔が咲いた。
たわいもない話。けれど、それが何よりの幸せだと、ふたりともわかっていた。
学校の話。クラスの出来事。
最近見たアニメの感想。
兄は話を聞きながら何度も頷き、何度も笑っていた。
食器を片付けたあと、並んでテレビの前に座る。
互いに疲れているのに、こうしているのが自然だった。
その静けさのなかで、兄がふと口を開いた。
「……なあ、美咲」
「ん?」
「明日、休み取った」
「えっ……」
美咲は思わず、兄のほうへ体を向けた。
「昼の現場も、夜のバイトも……全部、休みにした」
「ほんとに? でも……大丈夫なの? お金とか、生活とか……」
「……心配するなって。ちゃんとやりくりしてる。……たまにはな、"普通の休日"ってやつを、一緒に過ごしたいと思ってさ」
その言葉に、美咲の胸がぎゅっと締めつけられる。
「……じゃあ、明日は……お兄ちゃんと、デート?」
「おう。付き合ってくれるか」
「行くよ、絶対行く!」
頬を染めながら、美咲は心からの笑みを浮かべた。
「映画も見たいし、ちょっとオシャレなカフェも行ってみたいし……新しいリュックも欲しいなって思ってて……」
「おいおい、欲張りすぎ。財布の中身が泣くぞ」
「いいじゃん〜。明日だけは、特別でしょ?」
「まぁ、多少の無理はしてやってもいいか」
「やったぁ……!」
「ただし。朝寝坊したら置いてくぞ?」
「わかってるってば!」
いつも通りの夜。
だけど、どこかに小さな幸福が満ちていた。
何気ない会話が、美咲の中で静かに積もっていく。
この時間も、空気も、すべて大切で、すべてが愛しかった。
(……こんな日が、ずっと続けばいいのに)
けれど──
願いは、いつも叶うとは限らない。
未来は、優しさの裏側で、静かに音を立てながら崩れていくこともある。
それでもこの夜、美咲は明日を信じて、希望を抱いて、目を閉じた。
──そんな未来が、すでに決まっているとは知らずに。
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