〈37〉サンルームと刺繍のハンカチ
そう、いつの間にか私とリシャールは結婚してから6年以上経ちました。
私は旅先の国の一つで出産も経験し、リシャールも仕事に一つの区切りがついたと先日帰国してきました。
王都に帰ってきたことも数回はありましたが、それでも、長い、ながい旅だったとつくづく思います。
王宮は用途によってエリアが別れていますが、大別すると執務のための公的な場と、王族が住まうプライベートな場所に別れます。
私は今、王宮の奥深くへと宮廷侍女に案内されています。
執務の場を離れるとともに人の出入りは少なくなっていきました。
渡り廊下に出ると、あちこちに植えられた植栽の向こうに、白いガーデンテーブルが見えます。
アイアンチェアに座る女性に、私は丁寧にカーテシーをしました。
「お待たせいたしました、王妃殿下。
お呼びにしたがい、クラリス・ド・ラ・ミシュレが罷り越しました」
「いらっしゃい、クラリス。
ここは私的な場所なので、堅苦しい行儀は抜きにしてちょうだい」
「承りました、妃殿下」
礼儀にのっとった挨拶をすませると、王妃様から楽にしてよいと言われました。
テーブルには白いオルレアの花がメインで飾られ、色とりどりのプチケーキがお皿に載っていました。
王妃様のお茶会としては質素ですが、今日のお呼ばれはプライベートなお時間にあたります。
帰国して初めての茶会としては異例かもしれませんが、これは、これから王妃様が私を自分の近くに置くという意思表示でもあります。
リシャールが国王陛下のご信頼をえて側近くにあるように、私もまた王妃殿下のおそばで側近として遇されることが決定したということです。
お茶を味わいながら話題にするのは、先日あった宮廷舞踏会のことです。
我らが王太子殿下が国王として今年即位されて、はじめて迎えられる王妃殿下の生誕記念のパーティーでした。
帰国した私とリシャールの、社交界への顔見せの場でもありました。
「新しい真珠のパリュールの評判がとてもよかったの。
これもあなたのおかげよ、クラリス」
「とんでもございません、お役に立てたようでなによりです」
私は王妃様のお褒めの言葉に、笑顔で応えました。
パリュールとは、同一のデザインで作成されたジュエリーのセットのことです。
今回妃殿下が身に着けたのはティアラ、ネックレス、イヤリング、ブレスレット、ブローチにベルトの留め金です。
産地はいくつかありますが、質の良い真珠は争奪戦となるため、まとまった数を手に入れるのは難しいのです。
私は旅の間に、東洋の産地から輸出を行っている商人と知り合う機会があったため、大粒で高品質の真珠の仕入れを斡旋できました。
あのパリュールは、今後も王族の宝の一つとして伝えられていくでしょう。
それほどの品に関わることができたのは、まさしく私の誉れとなりました。
王妃様との私的なお茶会もとどこおりなく終わり、ミシュレ邸に帰ってきました。
ここは、リシャールとお義母様が私の実家の隣から引っ越した館です。
子爵家や男爵家の屋敷やタウンハウスが入り混じる、貴族街のなかでも商業区に近い区域です。
ただし大通りからは一本引っ込んでいて公園も近く、環境は悪くありません。
夫と私、息子が移り住んできたことで、ここも手狭になってしまいました。
とある侯爵家が、広すぎる敷地の一部を売りに出すことを考えているそうで、現在その土地の購入を検討しています。
かつてのミモザが咲き誇ったミシュレ邸を取り戻すことはできませんが、より条件のいい土地にお邸を建てられそうです。
庭の一部でいいので、ミモザを植えたいとリシャールにお願いしているところです。
「奥様あての招待状が届いております」
サンルームで一息入れている私に、家令がトレイに載っている複数の封書を差し出してきました。
「他にも旦那様、ご夫妻宛ての招待状も送られてきております。
そちらは旦那様の執務室にありますので、お二人でご確認ください」
と、温和な笑顔で伝えられました。
私は、ざっとどの家から送られてきたのかを確認していきます。
「……まずは、公爵家からの招待をお受けするところからね」
封書は高位貴族とそれ以外で分けられていました。
「それ以外」の一番上に置かれているのは、私の生家の家紋が箔押しされた招待状です。
気乗りしないままこれだけ開封してみれば、ずいぶん長文が書かれていました。
王妃殿下のパリュールに私が関わっていたことを知ったようで、ジスカールは典礼用品の新調にも関わっているのになぜ無断で話をすすめたのかといいたいようです。
つまり、私が手柄を独り占めしていると責めているということでしょうか。
おまけに、茶会の日取りが明記されていました。
公爵家でさえ、帰国したばかりで落ち着いていない我が家に配慮して、「都合のよい日取りを教えてください」となっているのに。
この、高位の家がより低位の家の人間を呼びつけるような不躾な態度は、母の意向かしら。
伯爵家やそれ以下からの招待は束になっていますが、私は実家から送られてきた招待状をその一番下にいれこみました。
「伯爵家以下からの招待も大分多いようだけど、とてもすぐにお受けできないわ。
いずれ茶会を開催して、こちらから一度に招待するしかないでしょうね」
そう家令に話しかけると、彼は「おっしゃる通りです」と同意してくれました。
小さなサンルームは、傾き始めた太陽の光が差し込んできます。
夕暮れがちかづいてきたけれどまだまだ明るい日差しのもとで、家令の目元に光るものが見えます。
「先代のご当主さまが亡くなられてから10年以上経ちました。
これほど社交のお誘いをいただける日がくるのを、どれほど待ち続けたか」
ハンカチで目元をぬぐう彼は、リシャールのお父様が亡くなられてから影響力を落としたミシュレ家に、ずっと仕えつづけてくれていました。
ミシュレ家は、リシャールのおじい様がたいそうな浪費家だったのだそうです。
このままでは没落するというギリギリのところで、乱れた生活が原因だったのか彼は亡くなられました。
リシャールのお父上が当主になられてからは、財政の立て直しをなによりの目的とされていたそうです。
ご苦労も多かったようで、若くして急死された理由に心労もあったのかもしれません。
彼が亡くなったとき、負債はまだ残されていました。
それは大した額ではありませんが、借金というのは利子があります。
リシャールが成人するまで返済を待ってもらうことは可能だったけれど、もちろん負債が膨れ上がることになります。
この時、ミシュレ夫人に残された選択肢はほとんどありませんでした。
リシャールが成人するまで借金を放置するか、何かしらの財産を処分して帳消しにするか。
夫が亡くなって精神的に参っているときに決断するのは、つらいものがあっただろうと思います。
ただリシャールは年齢のわりに冷静なため、未来の当主として相談したときに、彼は迷いなく財産の処分を提案したそうです。
そして、夫人はミシュレ邸を売り払うことにしました。
何百年も一族が住み続けた屋敷を処分するというのはお辛かっただろうと思います。
けれど、そのお陰で借金を返済して小さな屋敷を買っても、リシャールが成人するまでなんの不安もなく過ごせるだけの金額も得たのだそう。
その後は、私も知る流れです。
没落の危険性があったミシュレ家は、リシャールが王太子殿下の側近に取り立てられたことをきっかけに持ち直したのです。
今までに起きた出来事を思い返してしみじみしていると、にわかに玄関口が騒がしくなりました。
家令と顔を見合わせて扉をあければ、ホールでちょうど帽子を脱ぐところのリシャールと目があいました。
「リシャール! ごめんなさい、お出迎えもせずに」
あわてて出向くと、彼が朗らかに笑いながらこちらに歩いてきました。
「クラリス、気にしないで。
必要な資料が届かなくてね、最後の会議がお流れになったんだ」
定例会議はどうせたいした議題が出ないから、得したよ、とご機嫌な様子です。
夕食までまだ間があるので、彼をサンルームに誘います。
お茶だけ淹れなおしてもらい、思いがけず得た彼との時間にポツポツと会話を交わしていきます。
会話の応酬がいったん尽きたころには、太陽の最後の光が隣のお邸の屋根を輝かせていました。
かつてのミシュレ邸と比べればはるかに小さな庭ですが、職人によって丁寧に整えられた居心地のよい場所です。
しばらく言葉もなく、ただ沈黙を楽しむ時間が流れていきました。
「そういえば、クラリスから告白を受けたのもサンルームだったね」
彼は庭を見ず、視線を私に向けていました。
その眼もとに笑い皴をみつけて、彼も私もずいぶんと時を重ねたのだと唐突に気づきました。
父を失い、屋敷を処分して引っ越すしかなかった少年の目は、雨に打たれた若木の色をしていました。
三十路を迎えようとしている今のリシャールの瞳は、深いふかい森の奥の緑を映しこんだかのよう。
吸い込まれるような、誘い込まれるような心地で、うっかり魅入っていました。
ふと我に返ったのは、彼が肩をゆすって笑いはじめたからです。
「な、なぁにリシャール!
私、なにも変なことはしてないわよ?!
ただちょっと貴方に見惚れただけよ!」
恥ずかしさに思わず詰問すると、彼はいっそう笑いを深くします。
そして、やわく私を抱きしめてくれました。
鼻をくすぐる彼自身と髪油の香りに、あっという間にほだされてしまいます。
くすぐったくて、恥ずかしさから逃げ出したくなるけれど、でもずっとこの腕の中にいたいような。
喉の奥から甘い香りがしてくるような心地に、私は抵抗を止めて彼の肩にもたれかかりました。
あぁ、そうだわ。
私は、リシャールへの告白に、つたないハンカチを刺繍したのだったわ。
ミモザの陰で寄り添う、色違いの二羽の小鳥を。
……そんなことをぼんやり考えていると、小さな足音が聞こえてきました。
「おなか減ったぁーー!」
甲高い元気な声と足音はまた小さくなって、食堂に向かっていくのだと分かります。
思わず顔をあげた私と、リシャールの視線が交わります。
部屋が夕闇にのまれつつある中、メイドが「坊ちゃま、お待ちください!」と息子を追いかけている様子も扉の向こうから伝わってきます。
お互いに小さく笑うと、彼は立ち上がって私をエスコートしてくれます。
廊下はもう明かりが灯っていて、二階からはお義母様が降りてくるところでした。
そうだわ、今度時間をみつけてハンカチを刺繍しましょう。
ミモザの枝にとまる4羽の小鳥の絵柄がいいわ。
義母と夫と、あとは息子と私の分で4枚刺しましょう。
大事な家族があつまる食堂へ向かいながら、私はそう考えたのでした。
ここまでつたない作品にお付き合いくださり、ありがとうございました。
リアクション・ブックマークいただけたことが、本当に励みになりました。
少しでもこの話をお楽しみいただけましたら幸いです。