〈34〉留学先にて
船は、一日かけて河を下りました。
その後海に出ると、方角を変えほぼ東進します。
外海ではありますが、大きな島と半島に守られたような海峡なので、波もほとんど荒れません。
そうして旅立って2日目の夜、私たちはこれから留学する海沿いの学園に到着したのでした。
この国の王都は、海にそそぐ河の両岸に広がっています。
西岸は山がちで地形が厳しく、街の規模は小さいですが、かつて王城が築かれていた旧市街です。
私たちが入った学園は、古い城の一つを改築したものでした。
崖の上にあり、晴れた日には河の向こうの新市街と、新しい王城まで見渡すことができる絶景を誇ります。
この美しい学園で、私とアラベルの新しい学校生活が始まりました。
留学先の生徒は当然他国の方々なので、私たちについてなにも知りません。
噂に左右されず私たち自身を見て話しかけてくださり、交流できるのは本当に心が安らぎます。
ともに留学してきた生徒たちは、私の噂を知っていたので、最初は戸惑っていたようでした。
ですが時間が経つうちに、実体のない噂と生身の私と、どちらが信用に足るのかを理解してくださったようです。
1か月もしないうちに、留学生たちとも打ち解けて話せるようになりました。
学園に併設されたカフェのテラス席で、友人たちとお茶を飲む。
こんな些細な幸せを、一年前の私は夢にも描けませんでした。
本当に、親元を離れ、留学できてよかったです。
リシャール様は最初こそお忙しくされていましたが、このころには大分落ち着かれたようでした。
留学生の監督というお仕事は、生徒たちが落ち着けば、あとは定例の報告や家族との仲立ちをするくらいですから。
今は、私たちが通う学園の隣の大学に所属されています。
そこで、王太子殿下のグランドツアーに同行されている間に手に入れた資料をまとめたり、論文を執筆されているそうです。
そして、夏を迎える直前のことでした。
「お待たせしました、リシャール様」
「問題ありません、クラリス嬢」
学園と大学からちょっとくだったところにある、小さなカフェでリシャール様と待ち合わせをしました。
こちらに来てから新調したデイ・ドレスの裾を、海風が揺らしていきます。
エスコートされたテラス席も見晴らしがよく、眼下の港を白い船がゆっくり出航していきます。
今日は空気が澄んでいるようで、対岸の半島の、雪をいただいた山並みまで見えました。
紅茶を味わうリシャール様の表情も、海面とおなじように穏やかに落ち着いています。
ひとしきりお茶とケーキを楽しんだあと、私のもとに一通の手紙が渡されました。
「父からだわ」
久しぶりに、父親の直筆のサインをみました。
こちらに来てから、月に何回かは手紙を出していますが、返事は母の侍女が書いているようです。
確かに姉妹で留学していますから、手紙の数も単純に2倍になります。
それでも、父母ともに私たちと直接かかわるのを避けているのも事実。
今更彼らの愛を求めている訳ではないのですが、さみしいのも本心です。
そんな感傷を振り切るためにも、手早く文面に目を通します。
時候の挨拶を飛ばすと、一文に目が釘付けになりました。
『リシャール・ド・ラ・ミシュレ伯爵との婚約を認める』と、確かに記されていました!
顔をあげると、リシャール様のブルネットを木漏れ日が輝かせているのが目に飛び込んできます。
この数年求めていた彼が、同じく目を通していた手紙から顔をあげました。
バチッと音がしたのではないかというくらい真正面からぶつかり合った視線に、頬が熱くなるのがわかります。
彼が、ほおを緩めて私を見ます。
「母から連絡が。
私が、ミシュレ伯爵として継承の手続きが完了したとのことです。
それと、ジスカール伯爵に申し込んでいた、あなたとの婚約も了承されたと」
私の手は胸の高鳴りをあらわすように震えて、手元の便箋がカサカサ音をたてています。
優雅に立ち上がったリシャール様が、私の傍らに跪き、まるで宝物のように私の指先に触れました。
「クラリス嬢、私は父を早くに亡くしたためにあなたにも要らぬ苦労を負わせました。
残念なことに……これからもきっと、私の道行きはそれなりに波乱万丈でしょう」
なにせ、私はあのお方の側近なので、と茶目っ気のある笑顔を見せます。
「そんな私のそばにいてほしいというのは、あなたに気苦労をかけてしまうと同義です。
それでも、あなたが刺繍したハンカチを渡してくれた時から、あなたとの未来を願うようになりました」
ミモザの花に隠れて寄り添う色違いの小鳥のように、あなたと、これからも共にいたい。
ささやくような甘い声で、リシャール様は私にそう告げました。
持ち上げられた私の右の指先に、彼のあたたかい唇が触れます。
「リシャール様」
万感の思いを込めて、彼の名を呼びます。
私の幸福の鍵は彼なのだと、痛感します。
「あなたが私に苦労をかけるというのなら、わたくしもまた、リシャール様の苦労のもととなってしまいます」
私は、望んだわけではありませんが、去年さんざん噂の的になりました。
噂に尾ひれ背びれが生えて、大分悪く言われました。
そのうえで、私は噂の渦中の人であるブリス・ド・カルタンからの求婚を、彼を侮辱する形で拒絶しました。
さて、このような女に、改めて婚約を申し込まれる男性はいらっしゃるでしょうか?
当然のように、皆無でした。
私自身に非はないと明らかにされていますが、わざわざ火中の栗を拾う人もいないのです。
私の未婚女性としての価値は、図らずも暴落してしまいました。
「こんな女を望まれるなんて、新しいミシュレ伯は趣味が悪いと言われてしまうかもしれませんわよ」
「願ってもないことです」
ククッと意外と好戦的な笑いを見せながら、彼は私をエスコートしました。
モッコウバラがテラスの支柱を覆うように咲いています。
その満開の花のしたで、彼は私と向かい合います。
「あなたのように一途に愛情を向けてくださる人は、母をのぞいて他にいません。
そういう意味では、ブリス・ド・カルタンは目の付け所がいい。
彼以外にライバルがいないまま、こんなに魅力的な女性と婚約できた私は、運がいいと思います」
「それを言うなら、学院時代のリシャール様が、良家の子女の目にとまらなくて本当に良かったと思います」
見上げた彼の向こうで、淡い黄色のモッコウバラが風に揺れています。
なんだかそれが笑っているように見えて、私もまた精一杯の笑顔を彼に向けました。
やっと婚約できました。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
1話1話、17時40分に投稿予定です。