〈29〉旅発つ日①
いつもより早く起きて軽い朝食を済ませ、馬車に乗り込みました。
同乗する母は相変わらず不機嫌で、視線もあいません。
こちらもへつらう気にもなれず、時々アラベルと会話を一言二言交わすだけでした。
港に着くと、私たちの乗船の手続きがされていることを確認して、彼女は別れの挨拶もそこそこにさっさと帰っていきました。
船の離岸を見送ろうともしないその態度には、呆れてしまいました。
「どっちが子供か分からないわね」
ボソリとつぶやく妹の言葉に同意します。
長期留学に旅立つというのに、情緒もへったくれもありません。
「まぁ、腹をたてるのもこれでお終いにしましょうか」
私がアラベルをなだめるつもりで言った言葉は、無視されることとなりました。
彼女が、私の背後を見詰めて息を飲みます。
「クラリス嬢」
私の名を呼ぶ男性の声は、覚えがあります。
一時期嫌というほど聞かされた、この声が誰か、私が間違うはずがないのです。
私も、恐怖か怒りか、激情に駆られて息を飲みました。
ゆっくりふりかえると、見知った人物がこちらを見ていました。
カッと腹の奥底が熱くなって、気づいた時には私の足元から漆黒の花が芽吹いていました。
船の乗組員は当然いますが、私たちはまだ乗船していません。
大人がすぐ側にいない以上、妹を守れるのは私だけです。
「なんのご用かしら、今更」
自分でも驚くほど低い声がでます。
「クラリス嬢、どうしても今一度あなたに謝りたくて。
手紙も、お返事をいただけなかったので……もう、直接謝罪するしかないと思ってここまで来ました」
誰ですか、ブリス様に私たちの出立日を知らせたのは?!
「そんな理由で、わざわざお姉さまを待ち伏せですか!
なぜ今日だと知っているのです?」
口調はいつもの強気なアラベルですが、語尾が震えています。
私の右腕にすがる彼女の指先も痛いほどに力が入っていて、この常軌を逸した男に怯えているのが伝わってきます。
「船便というのは、そんなに頻繁に出ているものではありませんから。
1週間に1度、この港を見張っていました。
来週にはあちらの国でも授業が始まるようですし、今日来られると思ってました」
ざわりと足元の私の花が揺れました。
なにを、言っているの、この、男は。
毎週毎週、船便の乗客を監視して、私を待ち構えていたというの?!
「クラリス嬢、本当に申し訳ありませんでした。
俺は、あなたに取り返しのつかない損失を負わせました。
許してくれとはいいません、必ず、かならず償いをします。
ですからどうか、俺があなたを愛することだけは許してください。
これから先、あなたの人生を邪魔することは決してしませんので」
男は、不自然に笑っています。
唇の両端を無理やりつり上げたような、とても不格好な笑みです。
口元は笑おうとしているのに、瞳孔が開ききって、まともな感性の持ち主なら「この男は危険だ」と感じるでしょうね。
彼の言葉に、私は必死に歯を食いしばりました。
指先が冷たく、手のひらが汗でぬるついています。
「許すはずがないでしょう」
心臓が痛いほどに脈打ち、足元がおぼつかないのを必死に踏んばります。
「何様のつもり?
よくもぬけぬけと顔を見せられたものだわ。
図々しいにもほどがあるのよ!!」
震える声で、それでも私は声を張りました。
「謝罪をして、それを許さなかったら、今度は私が狭量とされるじゃない!
そうやって、自分の立場を加害者から被害者にしようというの?
そして、私を加害者に仕立てようと?
自分を優位に持っていく方法だけは、本当に、とっても、お上手なのね!」
船員たちの何人かはこちらに注目しているようですが、トラブルには関わりたくないのか、遠巻きにしています。
えぇそれでいいです、こんなところに何も知らない第三者が入ってきたら、問題が余計こじれるわ。
「そんな、俺はそんなつもりはありません!
ただ、心から反省していることを伝えたくて……」
私はおもわず地面を蹴りつけました。
ヒールが鳴って、足の裏から衝撃としびれのような痛みがのぼってきます。
「あなたの話なんてどうでもいいのよ!」
怒りのあまり、息が切れてきました。
いえ、慣れない大声を出しているからですね。
「あなたの話なんて、私にはどうでもいいの。
あなたに興味なんてないの。
自分の話しかしない、こんなワガママな男、本当にウンザリよ!」
「本当に、お姉さまの言う通りですね」
なにを言おうとしているのか分からないまま、沸騰する気持ちをさらに吐き出そうとした時、ひんやりとした妹の声に出鼻をくじかれました。
ハァア、とアラベルが大げさにため息を吐きます。
「おまけに、こうして被害者をつけ狙って。
逆恨みでもしました?
腹立ちまぎれに、お姉さまに暴力でも働こうとしているのでしょう?
このことは必ず、マチュー様を通して王太子殿下に上申しますから」
かわいらしく、かつ優雅にアラベルが微笑みました。
今の笑顔はとてもすばらしいわ。
あとで、百点どころか百二十点だとアラベルに伝えなければね。
「違います、本当に俺は……!」
男が一歩踏み出すと、ジャリッと踏みしめる音が異様にはっきり聞こえました。
「近づかないでっ!
あなたの顔なんてもう、二度と見たくないのよ!」
私の言葉に呼応するように、黒い茎と黒い葉が足元から爆発するように伸びて、まさに彼の心臓を貫くかと思った瞬間。
「そこまでにしてもらおうか」
怒りをはらんだ低い声が、私たちの対決を邪魔しました。
「……マチュー様」
妹が、小さな声で新たな登場者の名を呼びます。
いつの間にそこにいたのか、おそらく私たちが夢中になりすぎていた間に近づいていたのでしょう。
あの男の背後に、マチュー様ともう一人、剣をもった騎士がいました。
騎士の剣は、もう名前を呼ぶことすらおぞましいあの男の首元に、ひたりと当てられています。
私が魔女様にさずかった魔法植物の葉は、まるで針のように鋭くとがり、寸分たがわずあの男の心臓をさしつらぬく一瞬手前で静止していました。
「貴様は、なんの罪もない淑女に暴力行為をさせるつもりか?
まさかそんな狂った目的のために、彼女に再接近したのか?
愛されないならせめて殺されたいとでも、そのトチ狂った頭で考えたか?」
「違います、違います……」
うわごとのように繰り返されるあの男の言葉に、耳をふさぎたくなります。
マチュー様が、こちらをまっすぐ見ました。
「この男の身柄は、私が確保する。
あとのことは気にせず、二人とも出立するように」
私は意識して、ゆっくり息を吐きだしました。
自分の体にいいきかせるように肩の力を抜き、全身を弛緩させるにつれて、魔法植物はするすると私の足元に戻っていきます。
地面から黒い植物が消えたとき、あきらかにマチュー様が安堵しました。
マチュー様と一緒の騎士が、あの男の腕を背中で縛り上げています。
私はそれを見ながら、言い忘れていたことがあったのを思い出しました。
「あぁそうだ、あなた償いをするって言ってたわね。
そんなの永遠に無理なのよ」
私は激情の名残のまま吐き捨てました。
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1話1話、17時40分に投稿予定です。